弱い文明

「弱い文明」HPと連動するブログです。 by レイランダー

『ペルシャ猫を誰も知らない』

2010年08月24日 | 映画
 渋谷ユーロスペースでイラン映画『ペルシャ猫を誰も知らない』を観た。このあと全国で順次公開されていく予定だという。
 監督のバフマン・ゴバディはクルド系イラン人で、長編デビュー作『酔っぱらった馬の時間』以来、過去4作をすべてクルド地域で撮影、言語もクルド語主体の作品を作ってきた。今作で初めて首都テヘランを舞台に、ペルシャ語の映画を撮った、ということらしい。そして、イランの情勢(および国際情勢)が大きく変わらない限り、これが最後のイラン本国での映画ということになってしまうだろう。
 というのも、彼はその仕事の中身からイラン当局(直接にはイスラム文化指導省あたり)から嫌われていて、新作の撮影許可が下りない状態が続いていた。行き詰っている最中、偶然出会ったテヘランのアンダーグラウンド・ミュージシャンたちのイランからの逃避行プランに着想を得て(便乗して)、即席のプロットを継ぎ足しながら、もっぱら彼らミュージシャンたち自身に演じさせ、セミ・ドキュメント風に仕上げたのが今作『ペルシャ猫を誰も知らない』なのだった。35ミリの大型撮影機材は国の許可が要るために使えず、自前の小型カメラを持ち込み、主人公たちが実際にイランを離れるまでのわずか17日間で撮影をやってのけた。つまり、当局の許可のないまま、ゲリラ的に撮ってしまった作品なのである。現在ゴバディ監督はイラク側のクルド人自治区に居住しているそうだ。

 もちろん、当局の許可なく作ってしまったとか、映っているものがものだけに(いわゆる「反イスラム的」なだけに)本国で公開される見込みはないとか、監督も主要な登場人物たちも国外に散ってしまっているとか、そうした政治的な話題性だけで語られるべき作品でないことは言うまでもない。それこそイランの現政権の残虐さ、人権軽視のありさまについては、自分自身が現実の被害者と日本で知り合っているだけに、身につまされるような気持ちになるシーンも数多い。だからといって、そうした圧政に苦しむ人々の姿を想起することがこの映画の主題だというのは、いくらなんでも教条的過ぎる。かといって、政治や社会と無関係に成り立つ「青春群像」を鑑賞するという態度が可能であるというのは、ことこの映画に至っては幻想もはなはだしい。
 同時に例によって、自由を押さえつけられているイランの若者たちに同情する、対して日本は自由で良かった、なんていう優越意識できれいにまとめてしまえるような作品でもない。端的には映画『靖国』とか『コーヴ』とかの上映中止騒動を持ち出すまでもなく、この国での「表現の自由」の内実を疑う材料には事欠かないわけだけれど、そういう話とは別次元の問題として。

 どういうことかというと、これは少なくとも僕にとっては、(読んでないけど)「言語にとって美とは何か」よりもはるかに重大な問い、「ロックにとってカッコよさとは何か」という問い──それは間違いなく、「人間にとって自由とは何か」という問いと表裏一体である──に対する、一つの啓示のような作品なのだ。そういう意味で、これはロックを好きな人、特に自分でロックを演っている人には、もれなく観てもらいたい、いや観てもらわねば困る。一般的に動員力のあるストーンズのドキュメンタリーやらU2のライヴ映画やらの「ロック・ムービー」なんかより、よほど切実に「そういう映画」なのである。
 だから付け加えれば、この映画の宣伝コピーには例によってワールド・ワイドな音楽動向に詳しいピーター・バラカンあたりのコメントが付いていたりするのだけど、…その手のコメントも人選も、やや的外れというか、またそれですか?と言いたくなるような話なのだ。そんな、世界のマイナーな地域のポピュラー・ミュージック・シーンにもアンテナを広げよう、クリエイティヴなリスナー諸君よ!的な角度からのコメントは、まったくふさわしくない。そうではなく、これはロックど真ん中の人が、自分の前に置いて見る「鏡」のような映画。だから、日本のロック・ミュージシャンの誰それのコメント、こそ読んでみたい。それによってそのミュージシャンの(ロック的な意味での)「器」があらわになるだろう、と思えるような映画。

 物語は、アシュカンとネガル、2人のカップルのミュージシャンがロンドンへの出国(ほとんど事実上の“亡命”)を目指し、その前にイランへの置き土産としてシークレット・ギグを企てる、そのためにバンドのメンバーを、練習場所を、協力者を探す過程を軸に描いている。2人は実際に逮捕歴もあり、この映画の撮影後、無事にロンドンに辿り着き、今はそちらで音楽活動を続けているという。
 彼らの世話を引き受け、様々なミュージシャンに引き合わせる精力的な男を演じているのは、イランの人気俳優ハメッド・ベーダードだが、そのほかの人物はほとんど本物のミュージシャンたち(ただし、おおっぴらに活動が認められていない)である。そのスタイルはアコースティック、ブルース調からプログレ~フュージョン、ヘヴィメタルの合体からオルタナティヴ、そしてヒップ・ホップ、民族音楽を取り込んだそれこそワールド・ミュージック風まで多種多様。ここではそれらがすべて「インディー・ロック」という言葉で括られたりするのだけど、それは音楽ジャンルの呼び名というより、この国における共通のアティチュードとしての括りなのだと思う。彼らの音楽は皆それぞれにセクシーではかなく、反骨心にあふれている。
 ちなみに、最近ちまたでは、「反骨心」という言葉を「目標に向かって精進するガッツ」みたいな、表面上のポジティヴな響きだけを抽出したようなぼやけた意味合いで使っているのを見かけるのだけど、それこそ明らかに「骨」を抜かれた精神のはびこりそうな解釈だろう。この分だと、そのうちには「背筋が伸びていること」なんてニュアンスまで入りこんで来そうな気がする。そうした聞こえのいい、世間の倫理や権威に対抗する気概こそが「反骨心」であるはずなのに。

 ともあれ、イランのアングラ・シーンは「反骨心」豊かである。それは、歌で政治に言及する・しないなどという問題とは別に関係がない。
 なるほど、字面の上ではラップ・グループ「ヒッチキャス」の、社会問題をストレートに扱ったようなラップはいかにも反骨心旺盛だ。『スリングショット・ヒップホップ』のパレスチナ人ラップ・グループとも肌合いが大いに通じる彼らは、やはり一般的なパレスチナ人同様貧しい階層の出身らしく、裸一貫・ライム(rhyme)一貫で社会と対決してやる!という気概にあふれている。
 対して主人公の2人や、彼らが組もうとするオルタナ・ロック系のバンドマンたちというのは、楽器を持ち、機材を持ち、粗末ながら屋内練習スペースをどうにか持っている時点で、ある程度経済的には余裕のある中流以上の階層出身だ、という察しがつく。彼らの歌はやや抽象的で、内面に偏っているように(比較の上で)聴こえるかもしれない。それでは、彼らがヒッチキャスのラッパーよりも反骨心で劣るかといえば、『ペルセポリス』のマルジャン・サトラピがそうであったように、断じてそんなことはない。むしろその生活態度、世界観などが「反イスラム的」だとにらまれる度合いが強いがために、「バンド」活動をやっている彼らのほうがよほど精神的な困難は大きい、とも言える。音がでかいというだけで通報される危険がある、そのことも考え合わせれば、なおさら。
 結局この映画で「インディー・ロック」の名とともに出てくる人物は、温和な見かけからは予想もつかないほどド渋い・暗いブルースを歌うプロデューサーのおっさんにしろ、最悪に空気の悪い牛舎で肝炎の恐怖と闘いながら(笑)プロテスト・ソングをかますヘヴィメタ・バンドにしろ、養護施設の幼児にえらく高度な「ギター弾き語り治療」を施す芸達者のあんちゃんにしろ、すべて文句なしにカッコいいのである。
 彼らはやりたいことをやっている。あるいはやろうとしている。大仰に何かを背負うわけでもないし、背負えないからといって卑屈になるわけでもない。彼らは自分ただ一人を真剣に背負っている。誰にも、どんな権威にも預けようとせず。それだけのことがとてつもなく困難な社会体制の中で、英雄のカッコよさではない、普通の弱虫の人間の底力を出し切ろうとする。しかもそれを、「だってこれが好きだから」という理由だけでやり続けようとする。それが賢明であるかどうかということとは別に、人間という生き物が、これ以上にカッコよく見えるということは、僕にはありえないことだ。

 映画終了後、迷わずまっすぐに受付に行って、サントラのCDを買ってしまった。映画のサントラを買うなんて、いつ以来だろうか。
 音楽的には、別に際立って斬新だとか好みの音だとか、はたまたエキゾチックだとかいう曲が入っているわけではない。またいくつかのバンドの音源は、マイスペースなどでも視聴できたりする。ただ、これらの「歌」を確実に手元に置いておきたい。置いておくと何かが始まりそうな、何かをやらかしてしまいそうな、そういう予感を常に秘めたパワー・ストーンのようでもあり。かと思えば、遠い異国で、それこそ欧米よりも遠いと感じていた異国で、思いがけず旧知の友に出会ってしまった、そのささやかなスナップのようでもあり。
 
 ものすごく趣味に偏った見解であることは承知の上で、今のところ、今年観た映画のベスト1。

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