弱い文明

「弱い文明」HPと連動するブログです。 by レイランダー

タヴィアーニ兄弟『ひばり農園』から

2008年05月07日 | 映画
 5月3日、有楽町の朝日ホールで開催されていたイタリア映画祭2008に行ってきた。日本未公開の最新のイタリア映画を集めて、6日間に渡って上映する企画だ。僕が観に行ったのはその出品作品の一つ、パオロ&ヴィットリオ・タヴィアーニ監督作品『ひばり農園』である。
 タヴィアーニ兄弟の作品を観るのはこれが初めて。いわゆる“巨匠”だということは知っていたけれど、映像の方は『グッドモーニング・バビロン』の予告編をどこかの劇場で観たことがあるくらいで、あまり関心が湧いたことはなかった。今度の作品にしても、タヴィアーニ兄弟の最新作だから行こうと思ったわけではない。扱われている主題が、興味津々だったからだ。
 『ひばり農園』の原作はアルメニア系イタリア人の歴史家、アントニア・アルスランという人の同名小説(ただし小説のタイトルの方は『ひばり館』と訳されている)。第一次大戦下のトルコで起きたアルメニア人大虐殺を、農園主である裕福なアルメニア人一家(原作者の先祖だそうだ)の運命を軸に描いている。

 僕がアルメニアン・ジェノサイドについて初めて知ったのは、パレスチナ人の作家・ピアニストであるイブラーヒム・スースの書いた『ユダヤ人の友への手紙』(岩波書店)という本の中でだった。ユダヤ人(イスラエル人)の友人に対して、歴史認識と未来への展望を共有することを切望するパレスチナ人が書いた手紙、という設定のフィクションである。
 その中で、「ホロコースト」のような受難を背負った民族はユダヤ人の他にいない、と主張する(それによってイスラエルによるパレスチナ人虐殺を過小評価しようとする)ユダヤ人の「友」に対して、二人の共通の友人であるアルメニア人が反駁した、というエピソードを、「友」に思い出させようとするくだりだ。「友」はその時、「たぶんアルメニア人については・・・・いいかもしれない・・・・」と、渋々ながら認めた。それを読んで僕は、ユダヤ人ですら一目置かざるを得ない、そんなすさまじい事件がアルメニアの歴史にあったのかと、強い印象を受けたのだった。──といっても、インターネットでささっと検索、などということのできない時代の話、印象は印象のままでほったらかしていたけれど。

 それからだいぶ後(たぶん10年以上後)になって、自分のホームページを立ち上げ、しばらく経った頃、システム・オブ・ア・ダウンというアメリカのロック・バンドを知り及んだ。メンバー全員がアルメニア系アメリカ人、という特異なバンドである。彼らはその特異さを、前面に出して売りにするわけではない。エキゾチックな存在ではなく、普通にアメリカン・シチズンである。ただ、シチズンとして言うべきことは言う。すなわち、アルメニアン・ジェノサイドを歴史の闇から引きずり出して政府に、人々に認知させることついて、執拗なまでに意識的にそれをやっている。
 それは自らのルーツの誇示、という底の浅い発想からではない。広島・長崎の市民が核について発言するように、ユダヤ人がホロコーストについて発言するように、アルメニアン・ジェノサイドについて自分らが発言しないでどうする、という責任意識によるものだ。またそうした負の歴史を形作った要因が、今の世界の在り様、自国の政策の在り様に直につながっていることについて、同じく責任を感ずればこそ、なのだ。アルメニアン・ジェノサイドについて歌うのもイラク侵略について歌うのも、森林破壊について歌うのも麻薬で身を滅ぼす売春婦について歌うのも、彼らにとっては当たり前に「私たちの現在のこと」なのである。

 『ひばり農園』もまた、遠い地の遠い過去の事件を扱いながら、「私たちの現在のこと」を想起せずにはおかない、そうした内容を多分に含んでいる。映画の出来としては、他のタヴィアーニ作品を観ていないので比較してどうこう言えないのだけど、さすが、と言いたくなるほどの安定感があったのは間違いない(撮影監督も大御所ジュゼッペ・ランチであるし)。ただ、僕として感銘を受けたのはそれよりも、「(日本人も含めた)私たちの現在」を射程に入れた語り方をしてくれていることだった。

 多民族・多宗教の大所帯だったオスマン・トルコ帝国が、その末期に「近代化」の過程で身につけた新しい概念=ナショナリズムによって、血統主義的な価値観が幅を利かせるようになる。宗教の違いの問題ではなく、人種の問題として、トルコ人のためのトルコに作り変えなければならない。そのために、いつ隣接する敵国(ロシア)に寝返るとも知れないアルメニア人は危険だ。「反乱を起こす可能性のある劣等民族を絶滅して、強い国家を作るのだ(でないと戦争に勝てない!近代化できない)!早く!手遅れにならないうちに!」──どこかで聞いたような話だが、ジェノサイドを主導した軍部の中に浸透していたイデオロギーはこれだった。その下地には当然ながら、“純粋なトルコ人”という幻想が見え隠れしている。現代に至る「民族浄化」(エスニック・クレンジング)の発想は、まさにこれである。
 アルメニア人の虐殺はこの少し前、19世紀末頃にも一度あったそうだが、映画に描かれる1915年、第一次大戦下のジェノサイドは、規模が違うだけでなく、明らかに組織的な謀議に基づいていたというのが、(トルコ以外の)国際的に一致した認識である。アナトリア東部のアルメニア人、そのうち戦闘能力のある男性は少なくとも皆殺し。女はシリアの砂漠に追放。砂漠に着いたらその後は?・・・・誰も答えられない。それは「国防」に属する事項だった。お国のためなら、どんな残虐なことも貫徹しなければならない。それが近代国家の“国防精神”である。ジェノサイドを主導したトルコの軍人達は、そのような精神に侵されていた。追い詰められていた、とも言える。

 しかし、実際にその実行にたずさわった軍人たちの内実は様々である。誰もが上のイデオロギーの盲目的な実行者だったわけではない。映画でも、地域の司令官は基本的には戦局の安定も含め、「強い国家」形成のために「異物」を切り捨てる考えに賛成していたが、自分の担当地域のアルメニア人がその「異物」に当たるとは考えられなかった。とりわけ「ひばり農園」の一家は地域の顔役であり、金づるであり、司令官夫婦とも懇意の仲だった(似たような話はナチスの将校と裕福なユダヤ人の関係にもあったことはよく知られている通り)。それで司令官は、悲劇を避けるべく何か手を打っただろうか?
 映画の主人公、ひばり農園の適齢期の娘ヌニークは道ならぬ恋をしていた。相手はトルコ人のエリート将校。彼はアルメニア人の厳しい運命を予想し、彼女を連れ出して国を逃げ出そうと画策していた。それは自分が属する青年トルコ党の「革命」運動への裏切りである。しかし結局、彼はその裏切りを貫徹できただろうか?
 男たちを殺され、着の身着のままで「死の行進」に追い立てられる女たち。飢えと病と暴行にさらされ、命令違反者は拷問・処刑される。同行する警備の兵士達は、夜は夜でわずかなパンきれと引き換えに、若い女を慰みものにする。しかしヌニークが意を決して体を任せようとした兵士は、彼女を抱こうとしない。彼はすべてに絶望していた。
 俺はほかの奴らとは違う。自分が兵士になったのは祖国を守るため。アルメニア人をいじめるためじゃない。村を出る時、家族は泣きながら俺を見送った。俺は今、ここで何をやってる?──彼はいつしかヌニークを愛し始める。しかし結局、彼女を救うことができただろうか?

 誰もが「基本的には」ナショナリズムに賛成、戦争に賛成、「異物」の排除に賛成──しているうちに、這い出すことのできない泥沼にはまって行く。それは現代の僕らにとって、危険性克服済みの問題だろうか。自分はこのトルコ人たちとは違う、と断言できる根拠を持っているだろうか。せいぜいその危険性に気づくことのできる情報を、僕らの方が多く手に入れている、だけかも知れないではないか。情報が多くてさえ、判断を間違える人間も後を絶たないというのに。

 僕はこの映画で描かれるアルメニア人の受難の過程を観ていて、ナチス・ドイツ領内のユダヤ人迫害の過程と重なるところが一番多いように思った。というより、今まで知らなかったのだが、意外なほど重なるところが多いのを知って驚いた、と言った方がいい。強制収容所やガス室こそなかったけれど、それ以外の点では驚くほど似ている。
 もし当時これらの事実が明るみに出て、国際的に糾弾の声が高まったなら、──それからわずか20年とちょっと後に、ナチスは「ユダヤ人問題の最終解決」など思い切ることができただろうか、という疑いも当然頭をよぎる。ユダヤ人虐殺以前に、ヒトラーはポーランド侵攻に向かう将校相手に、「あのアルメニア人絶滅のことを今誰が口にしようか!」─思い切って暴れてこい、と檄を飛ばしたというのだから(ホームページ「アルメニアへようこそ」より、アルメニア人ジェノサイドのページ参照)。
 もちろん、ナチス、ヒトラーばかりにつながる問題ではない。およそ人種主義的な暴力が渦巻くところ、すべてにつながる問題である。
 当然ながら、トルコの軍人たちの姿が旧日本軍人の姿と重なるような場面もある。残虐行為が民族蔑視に基づいていたという類似点だけではない。ジェノサイドを主導したトルコ軍の幹部たちの思想あるいは心理というのは、基本的には2.26事件の将校たちと同じではないか、と思えたりもする。日本での正式な公開はまだ不明だが、公開される際には、日本の戦争責任・戦後責任(戦争前責任)に関心を持つ人に特に観てほしいと、僕は感じた。この映画の価値は、被害者の苦痛だけでなく、加害者の側の葛藤、「なぜこんなことに・・・?」を私たちの問題として想起させるところにもある。


※アルメニアン・ジェノサイドについては、「南京虐殺」同様に「組織的虐殺の意図はなかった」説や「犠牲者の数が誇張されている」説なども含め、ウィキペディアのアルメニア人虐殺問題 のページは無難にまとめていると思う。
 しかし、ここではあまりツッコまないでおくが、外部リンクの記事に書かれている見解には、底が浅いのではと苦言を呈したくなるものもあった。たとえば、「ジェノサイドは歴史的事実としても、それを認めると国家の基盤が揺らぐトルコには同情もしたくなる」というJANJANの記者の見解に対しては、「そんなことに同情などしていたら少数民族はいくつ命があっても足りない」と反論したくなる。
 また別の記事では、現トルコ領内に現アルメニアが領土回復要求をする根拠がない(当地にアルメニア公教会信者がいない?)ことを、「その意味ではトルコの民族浄化はうまくいった」などと書いている人がいる。しかし、たとえ領土を保持できたからといって、民族としての倫理にもとる行為に目を覆い続け、国際社会の批判を受け続けている国家が「うまくいっ」ているとは、どういう尺度、どういう感覚なのか、理解に苦しむ。
システム・オブ・ア・ダウンの記事の中で、イクバール・アフマドの本を中心に紹介したことがあるので、そちらも参照してほしい。その中でアフマドはこう言っている、「トルコの人びとは、自分たちの歴史、とりわけアルメニア人へのジェノサイドをふくむ現代史と折り合いをつけるようなときが来るまで、自由な人間にはなれないでしょう」。パレスチナもそうだが、事実として「うまくいった民族浄化」など、世界のどこにもありはしないと僕は考える。

追記:
※映画『ひばり農園』の公式サイト(スペイン語)。
※『NAKBA』1コマサポーターのメーリングリストに投稿されたある方の情報から。『ひばり農園』でアルメニア人一家を救出しようと奔走する乞食の役をやったムハンマド・バクリーという俳優(イスラエルのパレスチナ人俳優)は、『NAKBA』に登場する村の取材協力をしてくれた人だそうだ(写真左の男性)。意外なところでつながってるもんだ。

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6 コメント

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ムハンマド・バクリーが! (ビー)
2008-05-08 00:37:30
イタリア映画祭いいですね。関西でもやらないかなぁ。この映画、とても見たいと思いました。

で、変なところに反応してしまいますが、バクリーが出演しているんですね。私は来日したときの一人芝居(「悲楽観屋のサイード」)を見て以来、相当バクリーに入れ込んでいて、その意味でもこの映画はぜひ見たいです。ジェニンの虐殺をテーマとしたドキュメンタリー「ジェニン、ジェニン」を撮り、それが元で訴えられて、イスラエルでは俳優として干されてしまっているそうなので、こういう映画への出演はうれしいかぎりです。バクリーなら、ジェノサイドということを深く理解して、演じていることでしょう。
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>ムハンマド・バクリーが! (レイランダー)
2008-05-08 10:14:58
言われてやっと思い出しました。バクリーって、P-naviで何度か紹介していたあの人だったんですね。この記事を書いた直後に、別の人のブログで「この人はイスラエルのパレスチナ人人気俳優で・・・」みたいな記述を見て、そう言えば何かそんな人がいたなあ・・・と思いはしたんですが。ボケてました。

上では書きそびれてますが、トルコ人の乞食という彼の役どころは非常に重要です。というのも、乞食はアルメニア人社会の中で、トルコ人社会とは違ってある種の尊敬を受けていたんですね。写真で抱き合ってる女性も、ギリシア人の“泣き女”(葬祭を司る)で、主人公の一家の相談役のような形で家族の一員として暮らしていた。どちらもトルコの中では「異物」の二人なんだけど、その二人が、恩義あるアルメニア人を救おうとするんです。
世界の「異物」パレスチナ人のバクリーにとっては、そういう意味でも演じがいのある役だったろうと思います。

ロードショー公開されるといいですね。タヴィアーニ兄弟だから、可能性は高いと思いますけど。以前ビーさんが薦めていた『ヴィットリオ広場のオーケストラ』も、去年のこの映画祭がきっかけで、公開が決まったそうですね。
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Unknown (捨鉢)
2008-05-10 20:12:55
村野瀬玲奈はお前にホの字だな。お熱いね~~~~。
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>Unknown (レイランダー)
2008-05-10 21:20:38
うっふっふ。んなことわかってるさ~~~~
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異境のアルメニア人 (月の子)
2008-05-13 13:09:45
こんにちは。
アルメニア人虐殺のことはよく知りませんでした。そこで、友人から『異境のアルメニア人』(マリグ・オアニアン著/北山恵美訳、明石書店、1990)を借りて読み始めました。著者の父の生涯、アルメニア人への迫害からフランスへ逃れる物語です。何かよい本などがあれば、教えてください。
村野瀬玲奈とは?!
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>月の子さん (レイランダー)
2008-05-14 21:20:15
アルメニアン・ジェノサイドについては、いろんな本やら何やらの断片的な記述でしか読んだことがないんで、特におすすめできるものも知らないのです。すいません。
ですから、本当にこの映画が公開されるのが一番手っ取り早い気もします。原作の『ひばり館』っていうのも、ヨーロッパあたりではこの問題の定番の書物みたいですしね(原作は早川書房ほかから出てるそうです)。
あと、ウィキにも載ってましたが、アトム・エゴヤンというカナダの監督が撮った『アララトの聖母』っていうのが2003年に公開されていたんですね。僕は未見ですが。

村野瀬さんについては知ってます・・・会ったことありませんが(爆)。ブックマークより「村野瀬玲奈の秘書課広報室」をどうぞ。
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