弱い文明

「弱い文明」HPと連動するブログです。 by レイランダー

「伊達直人」報道の異様

2011年01月15日 | Weblog
 異様なニュース報道が最近多いと感じる。ニュースの中身がではない。報道の仕方というか、報道されたことの(マスコミ自身の)扱いが、異様だと。加えて、報道されたことを受けての世間の反応というのが、輪をかけて異様だったり。
 もう、ここまで来たのかな、という気がする。もちろん、こちらの主観だが。

 「伊達直人」に関する報道と、その周辺事態がそうだ。
 お金や物を寄付する行為というのは大昔からあるわけで、世知辛いと言われて久しい(この言い方も本当はヘンだ。世知辛くなかった時代はいつなのか、誰も提示できていない)今の世の中でも、わりあい普通に行なわれている。
 今度の場合、送り主が「タイガーマスク」で、その主人公の生い立ち、名前をなぞる形で行なわれたから、話題になった。それはまあ結構なことだと思う。
 ただ、疑問がよぎる。裏を返せば、もしこの送り主の人が、「伊達直人」を名乗らず、完全な匿名で手紙も付けずに寄付したのだったら、この出来事はニュースにならなかったのではないか。だって、何度も言うように、そんなことは昔から連綿と行なわれているのだから。
 たとえば僕自身、昨年の冬、ツテのある山谷の労働組合宛に、家内の雑貨や衣類などを寄付した。冬を越す労働者へのカンパとして。その時に「岡林信康」とでも名乗っていれば、ニュースになったのだろうか?いや、ならないだろうなあ。送った物の少なさ、ケチくささは別としても。
 
 要するに、世間の人達が求めているのは、何か意外性のある、フレッシュな美談なのだろう。マスコミがよく使う言い方では、「暗いニュースが多い中、一服の清涼剤のような」ニュース。元々「暗いニュース」を選別して「多く」撒き散らしているのも、そのマスコミ自身だけど。一人相撲で飯が食えるなんて、いい商売ではあるな。
 で、「タイガーマスク」の一件の場合、やっていること自体は、このケチな僕ですら何となくやっている程度のありふれたことなのに、それがいちいち「美談」としてマスコミから発信されないと認知されない、または賛同者が広がらないとしたら──どんだけ心の貧しい社会なんだそれは、という話。
 いや、僕はまさかこの国の大部分が、そんなニュースに躍らされるばかりの人達であろうはずがない、と知っている。ただ、一方に厳然とある、「タイガーマスク」報道に心地よさを感じて何かを言ったりやったりし始めている人達の偽善性という問題は、確実に「暗いニュース」に属する事柄ではないだろうか。

 というのは、案の定というか、先日電車内で人が読んでいるスポーツ新聞をチラ見したら、「タイガーマスク」のネタが一面に載っていて、そこに「匿名の寄付は日本人ならではの美徳」なんていう題のコラムまで付いていたのである。
 おいおい、始まったよ。はずかしーな…そんなもん、「日本ならでは」なはずねーだろう、と。
 もしかしたらそのコラムの筆者は、もっぱら何かの災害の折などに海外の著名人が何億寄付しただのというニュースを受けて、ああいうのが欧米人のやり方だ、などと決め付けているのだろうか。それらは突出した額の寄付だからニュースになるのだし、彼ら自身の「著名人効果」で賛同者を拡大したいという狙いもあって、あえて名を出す場合もある。もちろん団体による寄付の場合は名前を出すことが多いが、その団体に寄付している個人個人は匿名であることが多いだろう。そんな構造は、洋の東西を問わず、大して違いがないし、あったからどうした、という程度の話である。

 グッドタイミングなことに、ちょうどその電車の中で、僕は『ひろさちやが聞く コーラン』という本を読んでいるところだった。宗教(主に仏教)思想家のひろさちや氏と、中東学・イスラム学の黒田壽郎氏の対談である(*)。
 この中で、イスラム社会での寄付行為についてこんな風に紹介している。

黒田:(ザカート=喜捨について)・・・だれかに物をあげるときに、自分の名前が公にされるのは、いちばん卑しいことだ。自分が相手に恵みをかけて、相手が負い目に感ずるというのでは、施しにならないわけです。ですから、無名でやれといいます。匿名になるような公の機関に預けたり、間接的に配分されて必要なところにいくようにするのが、いちばんいいんです。

ひろ:チャリティー・ボックスの思想ですね。

黒田:そうです。個人の名前が現れるようなザカートは、絶対にいけない。それはずいぶん厳格ですね。たとえば、わたしが自分の名前で大判振舞いしていると、売名のためにやっているんだということになります。名もなく捧げるというのが、社会的な機能として徹底していますし、全体的な構造の中でうまくいく。そして、自分が困ったときにもそうなるんだという考え方がひじょうに強いんです。
(P131-132)

 というわけで、匿名の寄付行為が美徳(を越えて社会機能の一部)であるのは、むしろイスラム社会かもしれないよ、という。
 僕としては、別に名前を出すこと=売名行為では必ずしもない、と考える。けれど、「匿名の方がうまくいく」社会の構造というのが一方であることは確かだし、「伊達直人」氏は匿名というより仮名だけど、受け取った人が負い目を感じないだけでなく、マンガの主人公を名乗ることでユーモラスな感じも与えてくれる。そういう点で日本らしくていいやり方かな、と思うのである。一方で「伊達直人」氏がムスリムだったとしても、別に驚くに値しないわけだが。
 ただ、これを殊更な美談のようにしつこく報じるメディア、その報道を歓迎する一部の日本人の方は、あくまでどうかしていると思う。本来、寄付がなくても回るくらい福祉が充実している社会を目指すべきだし、「伊達直人」氏が寄付した児童関連施設以外にも、寄付がなくて困っている人や団体は数え切れないほどなのである。こんな美談に飛びついて喜んでいる人というのは、結局感情的に自足するだけで終わり、自分では日常的に何もしないことが多い。何もしないだけならまだしも、他人の善行を自分の手柄のように感じる者まで現れる。ヴァーチャル・ライフもたいがいにしたらどうかと。

 ところで、日本の神社には寄進者の名前(時には金額までも)がずらっと並んでいるプレートみたいなもんがあったりするけど、あれこそ日本ならではという可能性ないのか?というのは、他の国の宗教施設に似たようなものがあるという話を、僕は知らないので。知っている人がいたら教えてください。別に僕は、あれが日本ならではだと、ここで言い張りたいわけではないので。

 日本ならではの美徳というなら、「匿名の投稿」ではないだろうか。明らかに道義心に基づいた、国家のためになる正義の投稿すらも匿名で行なう。この奥ゆかしさこそ、ウィキリークスの諸君にも見習ってもらいたいものである。

 とかね(ザキヤマの口調で)。


*注
 ヨーロッパ近代の「私有」か「公有」かという議論とは別に、そのどちらでもない、あるいはそのどちらも共存できる「神有」という概念がイスラム社会の根本にあるのでは、という話が出てくる。人間は本当の所有者ではなく、一時的に預かり、使用権だけを持っている存在である。より効率良い「使用」のために、貧富の差があっても構わない、ただ、多く持っているものは社会に還元したり、困窮者を助ける義務があるのも当たり前。その理屈自体は、ヨーロッパのキリスト教文明にもないわけではないが、「神有」という概念でそれを説明できるのはイスラムならではないか、とか。
 さらには、聖と俗という分け方がイスラムにはない、という視点も面白い。読みやすく、イスラムのことをまあまあ知っているつもりだった僕でも、目から鱗が落ちるような話がいろいろ出てくる、とても面白い本だった。お勧め。

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