弱い文明

「弱い文明」HPと連動するブログです。 by レイランダー

アウトテイク・フラグメンツ-6-デモにからめて

2011年10月02日 | 原発 3.11 フクシマ
 アウトテイクといいながら、結果的にデモにからんだ考察が中心になってしまった。



 9.11新宿デモにおけるカルト集団「ザ・イトクカイ」ほかの攻撃を振りかえって、思ったことがある。

 婦人警官に腕をつかまれ、動きを封じられていた女性参加者が、その警官たちも見ている前でメンバーから腹部に蹴りを入れられた。すでに拘束状態の者に暴力を奮うというのは、自分の存在や思想・行動が絶対に正義の側にある、何をしてもモラルとして優位であると信じ込めるような異常な精神状態にある「暴徒」だけができるふるまいだ。
 かつて関東大震災の最中に朝鮮人・中国人を虐殺した「自警団」の者達、そして大陸中国の各都市、農村で残虐行為を繰り広げた日本軍の兵士。普通のわれわれは、普通の人間が震災のパニック時や戦争の時だからといって、そんなに残酷なことができたとは、にわかには信じられない。まして日本の近代史を都合よく改ざんしたい連中なら、「日本人がそんな卑劣なことをするわけがない」式の反駁をするのはお手の物である(その「式」を選んだ時点で破綻している「反駁」なのだが)。
 だが、憎悪カルトの某氏が実際に示して見せたのは、特別な洗脳教育をみっちりやらなくても、臆病で卑劣な性格をもてあましている欲求不満の子どもが、まさに上記のような「精神状態」にさえ置かれれば、残虐なことを平気でできる可能性が十分にある、という現実だ。
 憎悪カルトの人々の価値はそこにある。彼らが否定したい「歴史」を、彼ら自身の振る舞いが実証してくれているのだ。なるほど、やりかねない、と。本当にいるんだな、こういうやつが、と。



 僕は別に、デモそのものがそれほど好きなわけじゃない。どちらかというと(正直に言うと)、あんまりしょっちゅうはやりたくない、ワンパターンは飽きるし・・・という不届き者である。ワンパターンがイヤなら自分で考えろよと言われても、そもそもそんなに好きなことじゃないから・・・という不届き者である。人任せと言われても、本当のことだから反論しようとすら思わない。
 しかしそんな僕ですら、最近のデモに対する警察の妨害・嫌がらせ(と、表裏一体のようなカルト集団の放置)には、そんなアホな、と唖然とせずにはいられない。

 というわけで、9.11の逮捕者は全員釈放されている(毎度の事ながら、一件たりとも起訴されていない──じゃあなんで逮捕するんだ!という話だ)が、それでよかったと済ませているわけにはいかないだろう、という動きが、ひとまず共同声明の形になった。

 「デモと広場の自由」のための共同声明
 
 ページでは賛同者を募っている。相手が警察ということになると、なかなか実名を出してやっていくことに躊躇する人も多いだろうが・・・ここは踏ん張りどころかもしれない。
 日本人は、いろいろな面で日本が諸外国に比べ(特に自分達が比較されたい欧米諸国に比べ)変わっている、ということを認めたがらないし、そもそも知らないことが多い。そのうちの一つ、代表的と言ってもいい一つが、警察・司法の市民の権利に対する不届き加減だ。僕としては、高望みはしない、せめて「欧米並み」に日本の警察がなってほしい。警察に首根っこをつかまれながら街頭行動をしなければいけないなど、中国じゃあるまいし、北朝鮮じゃあるまいし。一般の警察官を含め、誰も得をしないでしょ、と。



 その流れで、やはり書いておかなきゃいけないなと思うのは、9.19の東京「さようなら原発」集会のデモとの比較だ。
 素人の乱主催のデモを経験している人なら、確実に気づいたはずだ。こちらのデモは警察官の数が圧倒的に少なかった。もう、ばかばかしいくらいに、あの新宿や渋谷での過剰警備が夢のなかの出来事だったかのように。
 参加者が5万人規模と多かったことや、デモが三方向に分散して行なわれたこと、また代々木公園での別グループのデモ(http://nonukesallstardemo.com/)の方にごっそり張り付いたという情報もあるが、それにしても少ない。僕は新宿駅方面に向かう流れに加わっていたのだが、警察官は大きなかたまり(20~30メートルの長さ)につき1人か2人、くらいだ。歩道と車道の行き来などし放題だし、それをとやかく言われない。一度など、横断歩道のある信号に集団がさしかかった時に、それを誘導してくれる警官がいなかったので、みんなで普通に青信号にしたがって渡った。もちろん、何も問題はない。その時なぜか反対側の車道に白バイの警官がぽつんと待機していたが、あまりデモ隊に目を配るでもなく、退屈そうに車上に佇んでいた。
 参加者の数は震災以降に行なわれたどのデモより多い。なのに、警察の規制は僕が参加したどのデモよりゆるい。ゆるいというか、警察が近くにいたという印象がないくらいなのだ。

 要するにこれは、このデモが労組などの「動員」主体、年老いたおっちゃんおばちゃん主体のものだったからだろう。おっちゃんおばちゃんだって、かつては機動隊とやり合っていた「サヨク」の人たちなんかがそこそこ混ざっていたりして、権力に屈しない気持ちは人一倍強い人たちのはずだ。だが、そういう人を今さら脅威とは警察は考えていない、のだろう。ノーベル賞作家に先導された善良なおじさま・おばさまたちだから、最終的には共産党や社民党のシンパになって日本型の「政治」に回収される市民なのだから、出方はわかっている、危険はない、という感じだろうか。

 少なくとも、それでハッキリ分かる。警察が、いかに素人の乱に代表される「飼い馴らされない若者」「政治に回収されない若者」の「本気」を恐れているか。原発がどうこうではなく、いやむしろ原発問題にかこつけて、彼らに対する理解や共感が広まり、ひるがえって警察や日本型行政の不条理ぶりがあぶり出される、そのことを恐れているのではないか。
 だからこそ同じ若い世代の、はからずも政治に回収されようがない点では同じかに見える「ザイトク」のようなカルト信者集団を、毒をもって毒を制する式にぶつけるのが効果的、とふんでいるのではないか──と考えるのはうがった見方だろうか。


■おまけ
 あの9.19の集会・デモに手応えを感じた人がいたら、こんな僕の書いていることなど嫌味のようにしか聞こえないかもしれない。それでは心外なのだが、僕は本当に正直なところ、集会もデモも退屈だった。細かく述べ立てるのは消耗するだけなので差し控えるが、ごく大雑把に言って、教科書どおりのお話に付き合っただけ、という印象しか残っていない(だからといって、やった意味がなかったということでは絶対にない)。
 集会で言えば、最後に壇上に上ったハイロアクションの武藤類子さんの言葉に胸を打たれたという感想を後日よく聞いた。もちろん重い言葉だったけれど、それにしても、同じような言葉はこれまでの数ヶ月間、ネット上だけでも相当に目にし、耳にしてきた。それらと違った何かというのは、少なくとも僕は感じなかった。もしかしたら僕はそれだけ、出来事の重さにマヒしてしまっているのかもしれない。だとしても、マヒした自分を責める気にはなれない。マヒくらいしなければ、この先だってやっていけないと思っているからだ(それを自分の中で確認したのは、いいことだったかも)。

 同じ集会で、むしろ困った意味で印象に残ってしまったのは落合恵子のスピーチだ。感傷たっぷりのその言葉遣いが不愉快でたまらなかったのだけど、内容として看過できなかったことが一つあるので、それを書いておく。
 落合氏は、自分とのその世代が「ビートルズを歌って育った世代だ」と表現した。
 嘘だ。そんな世代は日本には存在しない。ビートルズはその現役時代、日本ではまだ少数派の音楽だった。学校でビートルズを聴いていると言ったら、それは「(孤立した)不良」を意味したと、当時東京山の手の高校生で熱狂的なビートルズ・ファンだった、音楽評論家の渋谷陽一氏はくり返しその著書で書いている。日本でビートルズが市民権を得たのは、解散後だいぶ経ってからである。その意味で、日本に欧米のようなリアルタイムのビートルズ世代というものは存在しない。落合氏がその当時ビートルズを本当に歌っていたとしたら、相当に「トンでるお嬢さん」だったのだろう。
 だが僕は、彼女がそんなお嬢さんだったことすら疑っている。
 落合氏は続けて、「ビートルズの歌にイマジンというのがあります。“想像してごらん”から始まるあの歌─」と語った。
 嘘である。「イマジン」はビートルズの歌ではない。ビートルズをやめた──ビートルズを否定し、「ビートルズの自分」から果敢に脱却を果たした時期のジョン・レノンの歌である。メッセージとしてはむしろオノ・ヨーコの発想を汲みいれた、共作のような歌である。
 こんなこと、ビートルズ・ファンなら誰でも知っている(ファンでなくても知っている、僕のような者もいる)。それを知らない落合氏が、英語でビートルズを歌っていたビートルズ世代だというのは、リアリティがないにもほどがある。今となっては落合氏よりもビートルズに詳しい人など無数にいるこの日本で、今頃こんな話をのうのうとできるとは、ずいぶん大衆をナメくさった人だな、というのが僕の思いだ。


■おまけ2
 アンジェロさんの「東京に原発を!」デモ、ひとまず成功だったみたいだ。行きたかったな。
 http://www.labornetjp.org/news/2011/1316994367304JohnnyH

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