弱い文明

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『ペルセポリス』は絶対におすすめ

2008年01月05日 | 映画
 新年おめでとうございます。今年も憎み切れない(人によっては憎んであまりある)ろくでなしのレイランダーと、そのブログにお付き合いください。


 さて、去年1年間は、自分としてはちょっと観過ぎではないかと感じるくらい、映画を観に行く機会が多かった年だった。そんな中、最後に年末に観たアニメ映画『ペルセポリス』は、「一番」とまでは行かなくても、特別に心に焼きついた作品だ。

 イラン出身で、フランスで活躍するイラストレイター、マルジャン・サトラピの自伝的グラフィック・ノベルが原作*で、彼女と同じくイラストレイターのヴァンサン・パロノーが共同で監督した。
 観る前は、ヨーロッパ的な意味で「エスプリ」や風刺の効いた、サクッと軽快な調子のアニメかなと思っていた。確かにそういう調子が基調としてあるのだけど、それ以上に予想外に「泣ける」映画でもあったのである。
 僕自身は、今の日本で映画宣伝において連発される、この「泣ける」というフレーズのあざとさ・くだらなさにはウンザリしている。だが、この映画に関しては自身が本当に泣いてしまったのだから仕方ない。ポスターなどから受ける、一見「泣ける」とは無縁そうな、アメコミ風のシンプルな人物の絵をもってして、まさかここまで揺さぶられるとは思わなかった。

 この映画には、2つの意味の「泣ける」要素がある。一つは宣伝コピーにもあるとおり、「笑いと涙の─」という言い方で表現されるような、主人公の少女マルジと家族の絆にまつわるドラマ──日本のホームドラマでも体験できるような、“家族の愛”で泣かせる場面。これはまあ、誰でも普通にジ~ンとくるだろう要素である。
 もう一つはモノクロの、影絵のようなメランコリックで繊細な味わいの絵の美しさ、それによって描かれる、不釣合いなまでに残虐・過酷なイランの近現代史の描写という、「背景」から押し寄せて来るものだ。主人公がヨーロッパに留学中の数年間ですら、それは彼女に影のようにつき従ってくる。なので、基本的に僕は映画の全編を通して、ずっと目がウルウルしっ放しだった。

 とりわけ彼女の伯父、共産主義者(パンフではなぜか“反政府主義者”なる珍妙な紹介のされ方に取替えられている・・・なんなんだ)としてイランの近代化を夢見ながら、弾圧と亡命の人生を送らねばならなかった伯父と、マルジとの絆の深さが描かれる場面には、2つの「泣ける」要素が渾然一体となって現れる。79年の王政打倒によって、やっと自由な国ができると希望に燃えていたこの伯父は、イスラム革命政権によって、いっそう過酷な弾圧の餌食となった。
 彼がそのイスラム体制の発足時には、「今は過渡期だから/イランはまだ社会主義への条件が整っていないから」と、その政権を擁護していただけに、これは皮肉だった。しかし、そのようなマルクス主義史観に基づく判断が誤っていたからといって、彼の昔の亡命先・ソ連のような共産国家への不信があるからといって、この伯父さんを政治的にダメだった、ドジだったと断罪することは、僕にはできない。
 彼に限らず、多くの国民が少なくともシャー(国王)の時代よりはマシだろうと、この「革命」を歓迎してしまった精神的風土を、あざ笑うこともできない。一般に日本人はそうした判断を簡単に下しがちだけれど、日本人には想像もつかないような国際政治の悪意とプレッシャーとに長年さらされてきて、不意に訪れた権力の空白状態(非常に短い)を民主化のチャンスとして活かせなかったからといって、僕に言わせればいまだ民主化途上の我々に、何を言う資格があると言うのだろう。
 しかもイスラム体制発足から間もなく、欧米の後押しで仕掛けられたイラクとの戦争によって、国内の締め付けは当然のように激化し、新国家の統制力はガチガチに強化されてしまった。マルジたち一般の市民は、この戦争によって、イラクからのスカッド・ミサイルだけでなく、この国内体制の強化という、二重の災厄の直撃を受けたわけである。
 むしろ僕は、そんな条件の下のイランでも、マルジの伯父のような「夢を追いかける」人達がたくさんいた(いる)、ということをまざまざと知ることができて嬉しかった。それだけに、この伯父のエピソードを中心として、自由のために戦ったイランの人々に寄せるマルジの想いの強さこそ、この映画の芯の部分なのだと感じられた──地球上のどんな家族にも「背景」があり、「単なる家族ドラマ」というものはありえないのだ、ということを実感するとともに。

 本来ならもっと、少女から大人への“成長物語”ということを柱に語るべき作品、と思う人もいるかも知れない。ただそれだけだと、大人になるにしたがいパワーアップしてくる彼女のアクの強さというのが、単に「我の強い女」といったネガティヴな性格論(我が強いというだけでネガティヴと考える人の方にこそ問題があると思うが)に収斂してしまう。しかし、そこにあるのは間違いなく、過酷な運命の前に潰えた親族や友人、広くイランの同胞に対する「私は負けるわけにはいかない」という気持ちである(日本の配給会社の宣伝文句「ちょっぴりの反抗心を胸に」は、この意味でまったく不正確)。そのことをすっ飛ばして個人の性格の問題をどうこう言っても、意味がないだろう。
 また、逆にイランという、ある意味「今注目の」国を舞台にしていることで、その特殊性にばかり目が向いていれば、例によって「大変な国もあったもんだ/日本の私達は恵まれてると思いました」みたいな結論で終わってしまう。だけど、マルジの物語の重要なポイントの一つは、彼女がイランにいてもヨーロッパにいても「異邦人」である、という自覚を引き受けるところなのだ。
 それは、僕らにしたって同じことではないか。確かに酒を飲んだだけで逮捕されるような国では、日本はないけれど、深いところで自分の人生を生き切るということを阻まれる現実の中で、さまよっている僕らもマルジの同類ではないのか。そういう意味で、日本の私達の中にも、苦しんでいる人・闘っている人はゴマンといる現実をわきまえながら、「マルジが頑張るように、私も頑張りたい」という結論が出てくる方が、大人の人間としてむしろ自然だろうと僕は思う。

 ちなみに、この映画をして、反イスラムのプロパガンダとかオリエンタリズムとか評して事情通ぶっている人間をちらほら見かける。ここまで書いてきたことからだけでも、わかる人にはわかってもらえると思うけれど、間抜けもいいところである。
 マルジャン・サトラピはイラン人の一人に過ぎず、彼女が描かなかった、彼女の知らないイランというものだってあることは当然だ。加えて、彼女の生まれ育った環境というのは、イランの中でも首都テヘランが中心、しかも一族は西欧文明に慣れ親しんだブルジョワのインテリで、政治的には明確な左派。そんな設定は話の最初からくり返し強調されているのだから、彼女がイラン人の「変り種」であることくらい、たいていの人にはわかる。
 だからといって現在に至るイスラム体制を、彼女とは違う「真のイラン人大衆による、真に自発的な選択」によるなどとは、とてもじゃないが言えないはずだ(日本の現政権が「日本人の総意」だと評されたら、怒り出す日本人がどれだけいるか想像してみよう)。また仮に言えるとしてさえ、彼女がそれに従わず己の道を切り開こうとした姿勢を、「プロパガンダ」のようなごく狭い政治的文脈に当てはめることでしか受け取れない頭の構造は、どっちにしても悲惨という他ない。それは対象がイラン人であろうと日本人であろうと、同じである。
 第一彼女は、ヨーロッパ人やヨーロッパ文明に対しても、手放しで礼賛しているわけではない──どころか、くり返しになるけど、そこにも本当の居場所はない、はみだしっ子である自分を、クールに、時には感無量に、悟っているのである。この悟りがなければ、そもそも『ペルセポリス』は原作からして誕生しえなかっただろう。 

 まあこんなことばかり書くと、えらく重苦しい映画のように思われてしまいそうだけど、その重さが子どもの視線で描かれたような絵の中にすうっと溶け込んでいるので、重さとして意識することは案外にない。
 それに加え、たっぷりのユーモアと毒舌で笑わせてくれる映画である。個人的には、イラン・イラク戦争で国内の統制が強まる最中、マルジがテヘランのあやしい界隈に、「PUNK IS NOT DED」(Aが抜けてる・・・)と背中に書き込んだジャケットを羽織って、アイアン・メイデン(英国のヘビメタ・バンド。パンクじゃねえって)のカセットを仕入れに行くシーンは最高だった。
 年末~正月に、納得の行く面白い映画にめぐり合えなかったというような人、だまされたと思って観に行ってください。

*原作は、日本でもバジリコから全2巻で出ている。
 http://www.litrans.net/maplestreet/p/basilico/index.htm


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