没落屋

吉田太郎です。没落にこだわっています。世界各地の持続可能な社会への転換の情報を提供しています。

中世化する世界~ロシアから愛を込めて(9)

2012年11月29日 23時20分04秒 | インポート


統計が産み出した壮大な論理

  レーニンは驚嘆すべき大秀才であった。演説の名手で語学にも秀でているうえ、数学的能力でも卓越していた。そして、この天賦の才を駆使し、統計的数学処理に基づき、壮大な論理体系を構築してみせた。不破哲三氏は、マルクスを悩ませた課題をレーニンが見事に解決してみせたと絶賛し、こう語っている。

 「再生産論のレーニンの理論展開を見ていると、彼の理論的才能の大きさにくわえて、レーニンが数字に強かったことを感じますね。レーニンは、数字や統計が好きで、『資本論』への書き込みをみても、マルクスが工業統計など合計を出さないまま、項目別の数字だけを羅列したりしている個所に出会うと、たいてい自分で合計を計算して書きこんでいます。また、『資本論』に残っている数字のミス、計算や校正のミスは手書きで訂正しています。再生産表式でも、マルクスはコツコツ計算に苦労しながら表式をつくりあげてゆくのですが、レーニンは、簡潔で要領のいい計算方式をあみだすんですね(略)。マルクスの到達した最前線をしっかりふまえ、さらにそこから前にすすむ仕事ができたと思います」

 そして、レーニンが統計処理にも秀でていたと指摘する。

「レーニンの最初の亡命のときの話ですが、ロシアにいる母に本を送ってくれるようたのんだ手紙があるんです。そのなかで「統計にかんするものは別の箱で送ってください、統計がすこし恋しくなりはじめたので、全部計算しなおしてみようと思っていますから」といっている。気分転換に統計を読んだり、いろいろ計算のしなおしをしたりする、というんですから、この統計好きは相当なものですよ(略)。だから、レーニンの研究には、経済学以外にも統計を縦横に使ったものが、いろいろあるでしょう(略)。レーニンの統計好きは、どんな問題でも、徹底した事実の分析を議論の根底におく研究ぶりと結びついて、レーニンの理論活動の大きな特徴になったんですよ」(1)

 ああ、なんというレーニンの能力であろう。なんという端倪すべからざる頭脳の持ち主であろう。驚くべき能力といっていい。このレーニンの頭脳を持って構築された論理体系をもってして、ソ連は4000万人もの農民の暮らしと生命を奪うという悲劇を引き起こしてしまった。だが、レーニンとまったく同じ統計データを用いながら、まったく別の結論を出した人物がいる。チャヤーノフである。

マルクス主義は搾取国家を産むだけである

 レーニンの見解に対し、チャヤーノフは、原則から挑戦してみせた。チャヤーノフは、必然的たるべき資本家階級の極性化をレーニンが用いた農業統計は示していないことを実証し、ソ連において将来社会主義が構築されるとすれば、そこでは、小規模農民が重要な役割を果たすであろうと主張してみせた(2)。農民の中には豊かな者がいて、それ以外の農民を労働者として賃金雇用していることは事実である。だが、その事実があるとしても、小規模農民の経済には、資本主義の論理では対応できないそれ自身の論理を持つと、チャヤーノフは主張した。ロシアの小規模農民の中には資本家の胎児がいる。したがって、革命の同胞としては頼りにならない。ボルシェビキのこの主張に対し(3)、チャヤーノフは、小規模農民は協同組合に基づき、社会主義社会を発展させることが可能であり(2,3)、そのためにも、小規模農民は個人農家として近代化のための支援を受けるべきであって、都市のプロレタリアート階級の敵として見なすべきではないと主張した(2)

 レーニンを批判しただけではない。チャヤーノフは、マルクス主義者たちの農民の見方に対して、ことごとく挑戦してみせた。例えば、マルクスは、小規模農民のことを「文明内における野蛮を代表する階級」と呼び、小規模な農民社会を不安定なものと見ていた。マルクスの枠組みによれば、それ以外のあらゆる経済活動と同じく小規模農民たちもお互いに搾取しあい、ある農民が土地や関連する生産手段を資本主義的に蓄積すれば、それ以外の農民は資産を失い農村プロレタリアートに陥っていくのであった。そして、封建制度が終焉した以降も生きのびている小規模農民は、資本主義の発展が不十分な証にすぎず、階級として家族農家は死滅すべき存在であった。未来の選択肢として残されているのは、ただ大規模アグリビジネスか大規模社会主義型農業のいずれかしかないのであった。

 だが、チャヤーノフによれば、小規模農民は互いに搾取しあってなどはしていなかった。小規模農民の生産形態は十分に成功しており、「小規模農民の家族農場は常に状況に適応し残るであろう」と述べている(4)。小規模農業は大規模農業よりも効率的であって、大規模工業型農業への転換がロシアにおいては経済的意味をなさないのであった(5)。なればこそ、社会主義の指令型経済(command economy)も批判し、集産化の「水平的統合(horizontal cooperation)」は、地元農村の指導力を破壊し、官僚的惰性へと結びつき、国家主義経済は新たなヒエラルキー化を産み、そのオリジナルの高い理想を失い、新たな盗奪政治(kleptocracy)、国民から収奪し私腹をこやす政治形態を産むだけだと予言した(4)。ソ連が都市化に向けた努力を前から、高度に都市化された工業化社会が、それに呼応する権力集中もあいまって、地方分権化された農民社会よりも、残忍な全体主義的統治に向かうであろうことは明らかなのであった(5)

 チャヤーノフのビジョンや小規模農民、農地に関する見解や理論はレーニンとは劇的なまでに対照的であった。以下のレオニド・シャラシュキン博士がまとめた表がそのことをよく示している。


 歴史家ダニエル・ターナー(Daniel Thorner)はこう述べている。

「家族農場をロシアの典型的な単位とみなし、家族農場のサバイバル力を評価するチャヤーノフのアプローチはまったくレーニンと正反対のものであった」(4)

古典派自由主義経済の見方は一面的

 チャヤーノフの経済学は、複雑な数式、曲線と交差する直線や入念なグラフと、近代経済学と関連するあらゆるものを備えていた。「主観的評価(subjective evaluation)」「限界労働支出(marginal labor expenditure)」、「限界効用」といったスキームすら使っていた。チャヤーノフは自分や同僚が「組織や生産学派は、マルクス主義的やり方を用いず、本質的にオーストリアの限界効用学派の子孫だ」と共産主義から批判されていると述べ、新古典派の自由主義経済学、オーストリア学派の影響を受けていたことを認める。だが、同時にチャヤーノフは決定的な点でオーストリア学派からは距離を置いていた。それは、金融資本主義に対するチャヤーノフの次のコメントからもわかる。

「もし、ロシアの子どもたちが、ある農業国へと逃れたならば...、そして、その地で小作労働に従事しなければならないとすれば、彼に心理的にはブルジョア的取得欲があったとしても、組織と生産学派により確立された行動ルールに従うように思える」

 組織と生産学派とは、チャヤーノフらが確立した学派のことだ。チャヤーノフは言う。

「マンチェスターの自由主義(Manchester liberalism)」は資本主義に基づいており、科学的調査には適切である。とはいえ、それ以外の経済生活の組織的形式にまで拡充することはできないし、拡充すべきではない」

 チャヤーノフは、新古典派のホモ・エコノミカス(homo economicus)の理解は一面的なものにすぎず、ミクロ経済学における「効用の主観的な評価」を「国家経済の全システム」へと拡張したり、小規模農民たちの農場に新古典主義の分析を課すことも深遠な誤りだと指摘した。

 チャヤーノフは、慣行の経済理論では不可解な合理的な小規模農民の多くの行動事例を提示し、「自然な家族農場」の上で暮らしている大多数のロシア人には、スミスやリカードの新古典派経済学もマルクス主義も適用できないと主張する。チャヤーノフによれば、小規模農民が姿を消すこともなければ、歴史は資本主義にも共産主義にも向かっていないのであった(4)

農業経済学の第一人者

 ここで、チャヤーノフがどのような人物であったのか、改めてそのキャリアを確認しておこう。アレグサンダー・チャヤーノフ(Alexander V. Chayanov:1888~1937年)は1888年にモスクワで生まれた。幼少や青年期のことについてはほとんど知られていない(4)。だが、1906年にモスクワ農業研究所(Moscow Agricultural Institute)に入学してからのキャリアははっきりしている。モスクワ農業研究所とは1917~1923年にはサンクトペテルブルク農業アカデミー(Petrovsky Agricultural Academy)、1923年以降にはチミリャーゼフ農業アカデミー(Timiryazev Agricultural Academy)となる名門大学である。同学では、農業経済学を専攻し1911年に卒業している(6)。そして、21歳となった1909年には農業経済学の最初の論文を出版。翌年には「20世紀の始まりでの小規模農民圃場の3つのコース・システムの南側の限界(The Southern Limit of the Three-Course System of Peasant Fields at the Start of the Twentieth Century)」の学位論文で、モスクワ農業研究所から博士号を授与されている。また「民衆にアドバイスする農学者(Agronomists Advising the Public)」(1911)や「農業技術系公務員の育成課題(The Problem of Training Agricultural Officers)」(1914)を執筆(4)、1913年に準教授となり、1918年には終身教授となった。1911年から外国を旅し、国際的にも認められる専門家となり、60カ国以上と交流を結んだ(6)。1919年には、チミリャーゼフ農科大学(Timiryazov Agricultural College)の農業経済セミナーの責任者となり、1922年に、このセミナーは、シンクタンク農業経済政治研究所となった(4,6)。所長として、著名な研究者を集め(6)、ソ連の農業経済学の第一人者となっていたのである(4)

 チャヤーノフは、ロシアの農民たちの未来ビジョンを『私の兄弟アレクセイの小規模農民のユートピアの地への旅(Journey of My Brother Alexei to the Land of Peasant Utopia)(1920)』というユートピアで小説に述べた(6)。このユートピア小説には登場する人物のあだ名は、彼が同僚たちから借用したものであった。A.N.Chelintsev、N.P.マカーロフ(N.P. Makarov)、A.A.Rybinkov、G.A.Stundenski、A.N.Minin等だ。さらに、チャヤーノフは、コンドラチャフの波で知られるマクロ経済学者ニコライ・ドミートリエヴィチ・コンドラチエフ(N.D.Kondratiev)とも仕事をしている。チャヤーノフが「小規模農民の生産と組織の分析学派(School for Analysis of Peasant Production and Organization)」、すなわち、「組織と生産学派(Organization and Production School)」として知られる新人民主義の知的運動(neo-Populist intellectual movement)をリードし、最も卓越した理論家となっていたのはこの時期であった(4,6)

事実をして語らしめる

 チャヤーノフが用いたのも、レーニンと同じ基礎的統計データである。だが、チャヤーノフは、農村における資本主義の発展の証としてレーニンが見た分化パターンを全く別の切り口から説明してみせた(3)。そして、レーニンが見た農村での格差拡大にはもっと別の自然な説明ができるとした(4)。では、同じ統計データを用いながら、まったく正反対の二人の見解の差はなぜ生じたのであろうか。

 「地球を救う新世紀農業」でも書いたのだが、私流に解釈すれば、これは、マインド・マップ型思考法を取るか、Idea Fragment2型思考法を取るかによる。別の言い方をすれば、トップダウン型の演繹的な思考法を取るか、ボトムアップ型のKJ法的な思考法を取るかによるであろう。統計データ処理は帰納法的手法といえる。とはいえ、当初の仮説設定の段階が違っていれば、いくら統計データを用いても、結論が変わってしまうのだ。

 故川喜田二郎博士は「データをまとめる」ではなく、「データがまとまる」と語られていた。より哲学的には「己を虚しゅうして事実をして語らしめる」となる。

 これは極めて本質的なことである。己が虚しゅうなければ、自分のイデオロギーに都合がいい事実だけを構築することになる。あるいは、事実すら消滅させてしまうことができる。

 レーニンはマルクス主義者であり、かつ、プロの革命家だった。主な関心事は、ボルシェビキ党の戦略・戦術として、ロシアにおける革命の条件や見通しを分析することであった。なればこそ、レーニンは、『ロシアにおける資本主義の発展』(1899)は、古典的なマルクス主義に基づいて、産業資本主義を中心に周辺後進国でいかに資本主義を発展させるかを説明してみせた。すなわち、レーニンには、マルクスの体系が刷り込まれていた。したがって、それに基づき、都合がいいデーター解釈をしてしまったのではあるまいか。

 一方、チャヤーノフは、類まれな知的教養と独創力を持ち、具体的な活動にもかかわっていたが、ある種のテクノクラート、組織・生産学派の中心的な農業経済学者ではあった(7)。すなわち、イデオロギストではなく、観察に基づいて分析する科学者であった(4)。その見解は、マルクス主義者とは異なり、ある種のイデオロギーによるものではなく、20年以上にわたる経験的な観察に基づくものであった。『農地問題とはなにか(Chto takoe agrarnyi vopros), 1917)』他の仕事を通じて、小規模農民を残す農業改革を提案したが、それもロシア農民に対する幅広い知識と理解に基づいていた。農業統計に関する広範な研究や経済計算からの実証的証拠に基づいていた(5)。1910年にロシア西部スタロベリスク(Starobel’sk=現在ウクライナ)において、101戸の小規模農民世帯を詳細に調査していたし(4)、1925年に研究した地域においては、亜麻や小麦等は市場向けに発展していたが、ジャガイモ、野菜、ライ麦、エンバク、ミルク、肉を含めた作物の90%以上は、家族自給のためにだけ生産されていた。チャヤーノフは『小規模農民の経済に関する理論(Organizatsiia krest'ianskogo khoziaistva)』(1925)において、自給経済の機能や小規模農民と非資本主義的な市場とのかかわりを記述して分析してみせたが(5)、その前提として、チャヤーノフは市場にかかわる農民たちと様々なやり方で語り合っていたのである(3)

 要するに、革命以前のロシアの農民たちに共通していた特性は、経済的な自給と高度な自立性だった。1920年までのロシアの農民は、無料の家族労働力、家族やコミュニティによる土地所有、住居に付随する自給地、資本的動機づけの弱さ、大半の作物における自給志向といった価値観で特徴づけられていた(5)

 事実、帝政ロシア政府は1870年代から、小規模農民の社会経済的な生活の多くの統計を集めていた。そして1910年には、すでに農業経済学者は、ロシアの農村における小規模農民の経済行動が、古典経済学のシンプルな配分モデルと一致していないことを知った。小規模農民は利益を最大化したり、「限界効用」を認識しているようには思えなかったのだ(4)

 マルクス主義者は、農民たちが疎外されていると主張した。そして、チャヤーノフも同じことを主張した。だが、チャヤーノフが、小規模な家族農業と大地と共生関係にある暮らしの中心と見ていたが、マルクス主義者も封建制の擁護者のいずれもが、伝統的家族を破壊し、小規模農民がいない農業を考えていた。マルクス主義者や教会にとっては、自ら食料を生産しない人を養う余剰を生むのが農業なのであった。しかし、実証的証拠から、チャヤーノフは、小規模農民たちがキリスト教の到来以前の時代特性をいまだに保持していることをから目の当たりにしていた。例えば、家族が耕作する以上の土地を「資産」としての所有できるという概念は、キリスト教徒以前には存在しなかった。スラブ部族によれば、土地は家族や家族のクランに「所有」されるものであった。チャヤーノフが見た農民たちの生産の原動力は、古代スラブ人と同じく、自給だった。何世紀に及ぶ農奴制を受けて、小規模農民たちは自分の土地では勤勉に働きながら、領主や地主の土地で働くときは怠惰だった。チャヤーノフは1925年に調査した地区において、小規模農民の多くが、年にたった118日しか働いていないことを見出す。農民たちは、小規模農民たちは農作業を美徳として見ていた。だが、暮らしに必要な仕事は認めても、ハードな仕事自体は、苦役(drudgery)や不運であって、美徳とはならないとみなした。農業に美徳を産み出すのは、仕事のハードさではなく、農作業の多様性と創造性なのであった。そして、この特性は、ソ連の集産化農業において再出現してしまうのである(5)

 さて、話がいきなり現代に飛ぶ。素人の乱5号店・店主日記で松本哉氏は、2012年08月30日に「ボブ・ブラックの『労働廃絶論』を読むしかない!。知る人ぞ知る、『労働廃絶論』。どこの馬の骨かわからない、謎のアメリカ人が書いたとんでもない論文!出だしと、最後がすばらしすぎる!」と書いている。
 そして、このボブ・ブラックが書いた労働廃絶論(1985年)をひも解くと、シューマッハー、ウィリアム・モリス、シャルル・フーリエ、イワン・イリイチらと並び、こんなフレーズに出くわす。

「搾取される小作農さえ、地主からかなりの労働時間を奪い返している。チャヤーノフが調べたツァーリズム下のロシアの村―ほとんど進歩から取り残された社会―の数字も同じように、貧農の日々の4分の1から5分の1は休息の日であった。生産性至上主義のために、我々が、彼らよりはるかに遅れた社会にいることは明白ではないか。搾取されるロシアの貧農は、なんのためにこんなに働くのかと思ったであろう。我々もそう考えるべきなのだ」

 ああっ、チャヤーノフの新しさはこんなところにも飛び出す。では、チャヤーノフは具体的にどんな理論を構築したのであろうか。

【引用文献】
(1) 雑誌『経済』連載の「レーニンと資本論」をめぐって、不破哲三さんに聞く(5)再生産論の展開でのレーニンの貢献、『しんぶん赤旗』1998年9月20日
(2) John Gledhill,Classical Marxism and the Agrarian Question
(3) John Gledhill, The Chayanovian Alternative, The Family Labour Farm
(4) Allan C. Carlson, Alexander Chayanov, Peasant Utopia, "The Family in America" Volume 20 Number 12, December 2006.
(5) Leonid Sharashkin, The socioeconomic and Cultural Significance of Food Gardening in The Vladimir Region of Russia, May 2008.
(6) Gale Encyclopedia of Russian History: Alexander Vasilievich Chayanov
(7) Henry Bernstein, V.I. Lenin and A.V. Chayanov: looking back, looking forward, Journal of Peasant Studies, 36 (1). pp. 55-81,2009.