没落屋

吉田太郎です。没落にこだわっています。世界各地の持続可能な社会への転換の情報を提供しています。

中世化する世界~ロシアから愛を込めて(7)

2012年11月24日 18時15分07秒 | ロシア

 ずっとブログが中断している。本来業務の仕事が忙しくゆとりがなかったのだ。

 さて、10月30日にはkanzan氏から次のようなコメントをいただいていた。

 『シャラシュキンやチャヤーノフといった人たちが「トンデモ」でなく「本物」らしいというのは理解できます。もともとロシアには、バクーニンやクロポトキンなどアナーキズムの系譜もあるわけで、共産主義に圧倒されて日陰に追いやられていたものが、ソ連崩壊で復活してくるというのは十分ありそうな気がします。中沢新一などもそんなことを言ってるようです。機会があれば調べてみようと思っているのですが』

 アナスタシアがロシアで爆発的に受けて売れたことはわかる気がする。「懐かしい未来」という言葉を作られた鎌田陽司氏の言葉を借用すれば、それはまさに「懐かしさというデジャブ感を呼び起こすストーリーだからだ。キリスト教とボルシェビキ革命という千年にも及ぶ迫害と弾圧を受けてても、ずっとロシア人たちが信じ続けてきた懐かしい過去。その過去を思い出させてくれる未来だからだ、と私は思っている。

 シャラシュキン博士は、100年前はおろか、千年前からもロシアの農業生産の大半は、個人菜園からもたらされてきた。各家族が食料を自給するという歴史文化の長い伝統をたどらなければ、現在のロシアのダーチャやエコビレッジ運動の本質は理解できない。はるか古代の狩猟採集、中世の農業、19世紀から20世紀前半にかけての小規模農民経済、ソ連時代の補完地(subsidiary)やダーチャ、そして、いま広がりつつあるロシアの帰農運動には、社会文化的にみて驚くほどの連続性があると指摘する。千年に及ぶ伝統と比べれば、現代の大規模工業型農業やグローバル経済は、ごく最近の現象にすぎない。
そこで、チャヤーノフやアナスタシアのメッセージにどのような現代的な意味があるのか、今日はロシアの農業史をたどってみることとしよう。

伝統的自給コミュニティを破壊し余剰食料を生産させる

 ヨーロッパ・ロシアの定住史は驚くほど古い。例えば、中部ウラジミール市近郊のSungir遺跡は2万2000~2万5000年前の上部旧石器時代のもので、狩猟器具や宝石が見つかっており、既にかなりの文化が発展し、工芸や芸術を行えるだけのゆとりをもっていたことがわかる。

 だが、Sungir遺跡からは農業の痕跡は見つかっていない。農業は紀元前3000年には始まっていた。その後、5~10世紀にかけては、小麦、大麦、雑穀、豆、エンドウ、亜麻、麻、ライ麦が栽培され始める。最も初期の農作物は小麦で、次にライ麦が重要となり、エンバクは11世紀以降にはライ麦に次いで重要となったし、13~15世紀には蕎麦も登場する。そして、野菜や塊茎類も初期から栽培されたかもしれない。さらに、5~15世紀にかけては家畜も重要となっていった。

 だが、ロシアにおいては農業が盛んになるには10世紀半ばまで待たなければならない。意外に思えるが、ロシアにおいては、それまでは狩猟採集や漁撈の方が盛んで、驚くべきことに20世紀までは狩猟採集が農畜産業と共存していた。

 少なくとも2万年はロシアの領域では採集狩猟や漁業の村が存在していたはずだが、彼らは考古学上の痕跡を残さないようなライフスタイルを送っており、人々の需要もほぼ環境収容力内にあって、定住の跡さえほとんど残されていない。しかも、家族や部族のニーズを満たすことが、農業や狩猟採集、漁撈の目的であって、部族間、あるいは、種族内のクラン間でさえも交換は限られていた(1)

 ロシアで農業が盛んになったのは、北方から「ルス(Rus)」と呼ばれたノルマン人、リューリックがやってきて以降のことだった。それは都市の誕生とも並列する。リューリックによって、862年に初めての交易都市、ノヴゴロド公国が誕生し、リューリク一族が東スラヴに支配を広げていく中で、いくつかの都市国家が形成されていく。こうした国々があったこの地域は、リューリクの部族名「ルス」にちなみ、ルーシと呼ばれるようになる。この「ルス」という言葉を語源に「ロシア=Russia」という言葉が生まれた。

 882年には、リューリックの息子イーゴリが、一族のオレーグの助けを受けて、ドニエプル中流域の交易都市キエフを征服し、キエフをルーシの中心に定める。こうして、キエフからノヴゴロドにわたる統一国家、キエフ・ルーシが産まれた(2)

 では、自らを「大公」を称したルスがやってきたことで農業が盛んになったのはなぜなのだろうか。それは、ルスたちは自ら食料を生産していなかったため、農業を盛んにすることで、農民から食料を調達する必要があったからだった。

 だが、これは容易なことではなかった。スラブ部族は、狩猟採集をメインに自然生態系から食料他の生活物資を得ていたため、余剰生産を行うためのインセンティブがほとんどなかったし、農業生産性も低かった。そこで、ルスがスラブ部族に対して行ったのは、年貢を科すことで商業化を促進し、自分たちが必要とする以上の労働をさせることであった。

 当然のことながら、この年貢徴収という搾取にスラブ部族たちは抵抗し、それに対抗するため、大公側も傭兵を養い、軍事力を高めなければならなかった。これが、さらに年貢を増やしていく。もともと年貢は農作物ではなく、自然生態系から得られる産物でまかなわれていた。例えば、10世紀に大公によって徴収された最初の年貢は、農作物ではなく、野生動物の毛皮や野生の蜂蜜だった。だが、年貢が増えれば、生態系にプレッシャーがかかり、野生生物他の資源が枯渇することにつながる。増え続ける年貢を支払うため、自給のための狩猟採集活動は抜本的に変わっていく。それが、農業への依存を産み出した。それは、自給よりもずっと労働集約的なやり方だった。森林生態系は、豊かな森の恵みを幅広く提供していたのに比較し、農業は食料を得るためには極めて非能率的で多くの労力を要したからである。

 13世紀の食料システムについてロシアにおける農業の起源(The origins of farming in Russia, 1959)で、R. E. F. Smithはこう記述している。

「この時期に、食料の確保やその関連活動は、国民の労働時間の大半を占めていた。13世紀の町の住民たちの多くは、農地を持ち、食用家畜を飼育し続けた。食料の交易は贅沢品、最も重要な塩を除いて、比較的狭いエリア内に限定され続けていた」
13世紀のこの都市農業は、20世紀や現在のダーチャと著しい類似点を持つ。

 そして、この年貢の賦課が、スラブ人たちが自由ではなくなり、段階的に農奴へと転換していく始まりであった。R. E. F. Smithは「私財の概念を私有地として土地にまで拡張したことが、封建制度や農奴制につながった」との結論を下している(1)

伝統的世界観の破壊

 だが、武力だけでは、土地を支配したり、住民を統制するには不十分だった。早くも10世紀には小規模農民たちの反乱が起こり始め、それは20世紀まで継続する。したがって、古い伝統を打ち壊し、集合的な記憶を消し去り、民衆を心理面からも統制するためのイデオロギーが必要であった。この武器がキリスト教であった。では、古い伝統とはなんであったのか。次にロシアの宗教を見てみよう。

 Sungir遺跡からは、太陽から八つの光線が放射されるイメージを刻んだ儀式に用の小板が見つかっている。そして、驚くべきことに、この初期文化の太陽のイメージは、二万年後にスラブ人たちが描いた太陽のデザインと驚くほど類似している。

 スラブ人という言葉そのものが宗教と関連している。スラブという単語は、動詞「slavit」に由来し、文字通り「神をたたえる」を意味する。つまり、スラブはもともと民族名ではなく、宗教の言葉だったのである。

 考古学や民族誌学から見た古代スラブ人たちのライフスタイルや宗教観は、今日の理解されるものとはかなり違っていた。ロシアの古代宗教には、聖職者もいなければ、宗教的儀式もなく、一神教の「神」もいなかった。彼らの世界観は、誕生、成長、成熟、死、そして、再誕生というサイクルの中で、人間も自然もともに循環するという世界観だった。それは、言葉からもわかる。

 「家族」(sem'ia)を意味するロシア語は「種子」(semia)とほぼ同じで、「親族」(kin)を意味する言葉は、現在の家族だけではなく、先祖や未来の家族の子孫もすべてを含まれ、人間と自然の双方が誕生する力を意味していた。したがって、祖先や先祖の叡智を尊重することが、スラブ的世界観では重きをなしていた。さらに、宇宙に生命をもたらす原理、「Rod」がスラブ民族の究極の先祖と見なされ、この原理が自分たちの親であるだけでなく、全生命の親として認識されていた。

 そして、大地の肥沃さは、女性と結び付けられ、「母なる地球(Mother Earth)」として神聖視された。一方、肥沃さが女性原理と関係する一方、男性原理は、太陽、ラー(Ra)、あるいは、エネルギー「火」とされ、それが女性の肥沃さを可能にしていた。伝統的な儀式は、年間の太陽のサイクル(冬至、春分、夏至)と結びつき、音楽、踊り、歌によってこの肥沃さをたたえるものだった。

 例えば、キリスト教の年代記はスラブ人についてこう指摘している。

「スラブ部族はまるで獣のように森に住み、不潔なものを食べていた。恥ずべき言葉を平気で口にし、結婚もしていないのに踊り、極悪非道な歌を歌って村祭りに集まった。ここで、彼らは合意の後、自分たちの妻を得た。彼らは、2人または3人すら妻帯している」
スラブ部族が森に住んでいたことはそのとおりであった。だが、「獣」という表現は、誇張だった。考古学的証拠からすれば、彼らが鍛冶や宝石づくりを含めて高度な文化を手にしていたことは明らかだった。「不潔なもの」という表現もキリスト教たちと食習慣が一致していなかっただけだ。「恥ずべき言葉」はおそらく、男性生殖器のことである。さらに、村祭りは、若者たちが自分の伴侶を見つけるための重要な社会的機能があった。「結婚」は、毎年の肥沃さの儀式や祝賀のサイクルと編み込まれ、ダンス、歌、民衆の演劇、占星学(農業計画の鍵)とセットとなっていた。

 キリスト教にとっては、女性の肥沃さやセクシュアリティを神聖なものとあがめ、「母なる大地」と結びつけることは、キリスト教にとっては、不潔で、罪深く、洗礼する必要がある異教そのものであった(1)

 988年にキエフ・ロシアのウラジーミル大公は洗礼を受け、ビザンティン帝国の皇帝の妹と結婚し、キリスト教を公式宗教として採用する。以降ロシアは、キリスト教文化の導入に際してビザンティン帝国の東方正教文化がロシア文化の基盤となっていく(2)。大公は逆らう人々を迫害すると脅迫し、キエフ全市民にドニエプル川で洗礼をうけるよう命じた。異教の人々は、この迫害を避けるため、キエフから逃げ、森林や湿原に隠れることを強いられた。だが、国家権力をもって導入されたこの新たなイデオロギーを人々が簡単に受け入れず、「剣と火」によって洗礼を強制しなければならなかった。

 だが、それでも、人々はなかなか自分たちのライフスタイルや信仰を捨て去らなかった。異教の世界観や価値観は、とりわけ、農業、家族生活、儀式、信仰、歌、遊戯に残り続けた。事実、2~4世紀後も以前の信仰は活発だった。異教の完全な根絶に失敗したことから、教会は異教のシンボルや信仰を吸収し始めた。スラブの神々は「悪魔」とされたが、例えば、妊婦と肥沃さ一般を保護する精霊ロジャニツァ(rozhanitsy)は聖母マリアに形を変え、雷神ペルーン(Perun)は、キリスト教の聖人エリア(St. Ilia)となるように、人々はキリスト教の聖人になぞらえることで、信仰を続けた。

伝統農業の喪失と飢餓の発生

 また、古代宗教の儀式は、家族の最年長のメンバーが取り行い、聖職者がいなかった一方、volkhvy(魔法使い、あるいは賢人)と呼ばれる階級があった。伝統宗教の根絶運動は、当然のことながら、異教の指導者、volkhvyの殺戮にかかわっていく。キエフ・ルーシの大公、ウラジーミル1世の息子、ヤロスラフ1世(978年頃~1054年)は、1024年にvolkhvを処刑した。また、1071年にはvolkhvsに率いられた300人の人民の反乱が記録され、この際にも、volkhvsは処刑された。volkhvsの指導力は大公の権威にとって脅威であり、この処刑は国家によってなされたが、その罪状は宗教的なものであった。彼らは教会によって「悪魔の召使」されたからだ。キリスト教を通じて、古い儀式等を含めた以前の世界観や価値体系を一掃する。伝統を体系的に破壊するため、国家は教会と協力しあっていた。

 殺害されることを避けて、volkhvsたちは、北へ、東へ、あるいは、森の中へと向かったが、その後も数世紀にわたって、人々は火刑に処され続けた。だが、volkhvsは単なる伝統宗教の指導者、コミュニティのリーダーであるだけではなかった。彼らは、自然の働きに対して特別な洞察力を持つ、知恵の人であり、その特別なステータスは、ハーブ薬品の適用を含めた、自然に対する深遠な理解から生じていた。そして、このVolkhvsの古代農業の智恵が消え失せると、農業の循環や肥沃の儀式の理解も失われる。13世紀には、民衆はいまだに秘密に古い神を崇拝していたが、古い儀式の意味は徐々に忘れられていった。儀式やシンボルの多くは残存したものの、その内面的意味が失われたその結果は、ロシア史上最初に記録された飢饉なのであった。

 だが、Volkhvsがいなくなったことは、教会にとって決定的な勝利とは言えなかった。異教の信仰は根づよく20世紀まで、迫害は続いた。異教徒、魔女等は生きたまま焼き殺され続けた。しかも、教会は、大公と同じ収入源、農民たちからの年貢に依存していた。1761~1767年にかけて、農村人口の13.8%が教会に所有されるまでに至ったが、そこでの搾取は、とりわけ、厳しかった。なぜなら、農民たちは、国から科されるさらに増える年貢に加え、領主のためのアンペイドワークcorvéeに加え、教会からも課された義務を支払うことを求めらたからだ。農民たちの生活水準は最低のものとなり、自由と自立を失い、農奴となっていた。さらに、キリスト教化以降、住民たちは商品として国際的奴隷売買の対象ともなった。

 ロシアの村での記憶の物語(Solovyovo: The story of memory in a Russian village, 2005)で、M.Paxonはこう指摘している。

「ロシア帝国の宮殿はベルサイユ宮殿と同じほど贅沢だった。だが、ロシアは確実にフランスとは違う。土壌と気候の違いのため、ロシア人民からベルサイユを搾取するために必要とされる力は指数関数的に大きかった。税は法外だった。暴行と性的放縦があたりまえだった」

 国と教会による圧政で、村の全住民が一団となってシベリアへと逃亡し、老人を除き、誰もいないからっぽの村。真っ赤に焼けた鉄のピンセットで拷問される農民。若い小規模農民の娘でハレムを形成する領主。農民たちの大量逃亡や反乱、集団自殺がロシアの習慣となったのも無理からぬことであった(1)

ナマケモノ革命

 ここで、大前提に立ち返り、食料が人間の社会構造にもたらす影響について考えてみよう。当然のことながら、食料なくしては人間は命を保てない。したがって、採集狩猟であれ、漁撈であれ、農作物の栽培であれ、家畜飼育であれ、食料確保はずっと人々の中心課題だった。そして、長い歴史を見れば多くの人々はずっと自給してきた。しかも、数多くの伝統社会は、スピリチャルな活力の源を地球に見出していた。必要以上な消費欲を持たず、かつ、他人を養うために食料を増産するインセンティブを持たない自由で自立した家族ほど扱いにくいモノはない。そして、自ら何ら生産しない人が、生産者から農産物を強制的に徴収することが矛盾を誘発することはあたりまえであろう。大公とキリスト教が到来して以降のロシア史は、圧制、限りなき暴動と反乱、小作農民の戦争、残忍な処刑、統治者の「神の権威」とキリスト教のイデオロギーの押しつけで彩られ続けた。

大公が用いた手段は以下の二つだった。
●先住民であるスラブ族の家族の絆や社会的つながりを解体し、自給自足型経済を破壊することで、余剰生産を強い、彼らを労働力へと変える
●地球を聖なるものとしてあがめる信仰を根絶し、先住民であるスラブ族を心の面でも自由でなくし、新たな秩序の下で、奴隷となれるように、新たな宗教キリスト教を課すことで、古い習慣や伝統、信仰、そして、世界観を根絶する

 だが、このロシアの物語は、決してユニークなものではない。以前には独立し、自給していた人々を統制するための手段は、中世英国のエンクロージャーから、アメリカの征服、今日の第三世界における「開発」まで、歴史や世界を通じて類似しているからだ。私有地や所有権の概念の導入、家族の絆を解体することで移動性の労働力へと人々を変える、様々な税と欲望の創出を通じてマネーへの需要創出、そして、これらを正当化するためのイデオロギーの導入。これらは、持続可能で自給志向の伝統社会を破壊するための共通のレシピだった。

 一方、奇妙なことがある。当時の小規模農民たちは、農業機械も化学肥料も用いることなく、有機農業だった。だが、この時期の農村は「遅れ」ていたはずであるにもかかわらず、貿易もできるほどの莫大な余剰を産み出し、かつ、集産化されたソビエト近代農業が1950年代までは匹敵できなかったほどの産出水準に到達していたのだ。

 さらに、ロシアの多くの民話は、生活必需品のすべてが、さほど努力をしなくても供給されることを示唆している。そして、興味深いことに、現在のパーマカルチャーの実践者も、農業での集約労働を農業生態系の機能の理解度の低さとみなしている。ロシアには、今も都市的暮らしが農村にとって有害だ、という考え方がある。これは、ロシアにおける都市の起源や目的が搾取のためであったという集合記憶に根ざしているのである(1)

 こうしたことをふまえると、生きていくために必要以上の欲望を持たず、自給自足を志し、マネーへの依存を極力減らし、企業的農業も目指さず、地球を聖なるものとして崇拝するというアナスタシアが目指す態度こそが、近代社会にとって最も危険極まりない反国家的な革命行動であることがわかる。なぜならば、それは国家の存在そのものを否定しかねないからだ。だが、ロシアは、その後、アナスタシアとは違うレーニンによる「社会主義革命」を経験してしまうのである。

【引用文献】
(1) Leonid Sharashkin, The socioeconomic and Cultural Significance of Food Gardening in The Vladimir Region of Russia, May 2008.
(2) ウィキペディア