没落屋

吉田太郎です。没落にこだわっています。世界各地の持続可能な社会への転換の情報を提供しています。

歩く社会主義革命

2006年07月16日 19時26分54秒 | 革命家
">■ゲリラ革命への情熱

 1916年3月、当時大学2年生であった20歳のある青年は悩んでいた。
「自分はヒマラヤにいって行者になるべきか。それとも、西ベンガルに行って英国人と戦うゲリラ活動に合流するべきだろうか(3)。



 青年の名は、ビノバ・バーヴェ(Vinoba Bhave)。日本ではほとんど知られていないが、後にガンジーをして「私の精神的後継者は彼しかいない」とまで言わしめた人物である。ガンジーの後継者の中で、ビノバほど真理や非暴力の崇拝者を作り出した人物はいない。その身をもって示す実践は、数え切れないほどの人々の心を揺り動かした(2)。

 ビノバは1895年9月11日に、インド、マハーラーシュトラ(Maharashtra)州、コラバ(Kolaba)地区のガゴダ(Gagoda)村に生まれた。母、ルクミニ・デビ(Rukmini Devi)は、信心深い敬謙な女性で、ビノバはその影響を大きく受けた(1)。10歳のときには、早くも霊的真理と実践行為を統合する生き方を求め、一生独身で、他者に無私で尽くすという誓いを立てる(2)。ビノバは若年にして聖典や哲学書に通じ、数学にも関心を持っていた。当然のことながら、普通の授業はビノバの知識欲を満たすのに十分なものではなく、内的な不安や葛藤を抱えていた。大学の中間試験を受けるためのムンバイへの道すがら、ビノバは学生証を火の中に投じ、ゲリラになるか、聖者になるか決断を下そうと、インドの聖なる市ベナレスに向かっていたのだった(1)。

 だが、それが運命の分かれ道だった。新設されたべレナス・ヒンドゥ大学で、ガンジーの講演記事がふとビノバの目にとまった。ビノバは衝撃を受けた。革命への熱情と内的平和とを統合する道を見出したのだ(3)。ビノバはすぐにガンジーに一通の手紙を出す。ガンジーは親切な男だった。20歳の一青年に対し、アーマダバード(Ahmedabad)のコチャラブ(Kochrab)にあるアシュラムで個人的に会おうとの返事をくれた。1916年6月7日。こうして、ビノバはガンジーと出会う。それが、ビノバの人生を変えた。後にビノバはこう語っている。

「ベレナスにいたときには私はヒマラヤにいく野心をいだいていましたし、ベンガルを訪れたいという切なる願いもありました。結局、どちらの夢も実現しませんでしたが、神の意志が私をガンジーに引き合わせ、私はガンジーの中にヒマラヤの平和だけではなく、課題解決への熱情も見出しました。私は二つの望みをかなえたのです」(1)。「ガンジーとすごした経験は、ヒマラヤの革命的な精神的平和の経験でした。平和への革命と革命による平和。二つの流れが全体として新たな方法でガンジーに結びついていたのです」(2)。

■ガンジーの後継者

 ビノバはガンジーのアシュラム活動に心をはずませ参加した。教え、学び、コミュニティの暮らしを改善していく。歳月を重ねるごとにガンジーとの絆は深まった。
 1921年4月8日、26歳となったビノバは、ワルダ(Wardha)村のアシュラムを担当するようガンジーから頼まれる。また、1932年12月23日には、ワルダ村から約3キロ離れたナルワディ(Nalwadi)村に移り、そこで自活思想の実践を行った。農村での産業づくり、新教育活動(Nai Talim)、公衆衛生。ガンジー建設プログラムは次々と進展していった(1)。
1940年10月5日、ビノバが45歳のとき、ガンジーは、ビノバを招き寄せ、非暴力・不服従主義者、サティヤーグラハ (Satyagraha)の第一の指導者としてビノバを選んだ(1)。ビノバは全国的には知られていなかったが、ガンジーは「ガンジー思想を本人以上によく理解しているのはビノバである」と絶賛し、英国政府に対する反対運動の指導者として、ネールではなく、ビノバを選んだのだった(3)。



 ガンジーから絶賛されただけあって、ビノバは非暴力・不服従運動のため、英国政府に何度も投獄されている。1923年には、ナグプール(Nagpur)でサティヤーグラハ運動を展開した咎でナグダ(Nagda)とアコラ(Akola)刑務所に何カ月も投獄された。1932年には、制度に異議を唱えた罪で6カ月ドゥーリア(Dhulia)刑務所に投獄される。だが、ビノバにとっては刑務所も読書と執筆の場だった。ドゥーリアでは、ギータについてのマラチ(Marathi)語の翻訳書、「Gitai」を書いた。刑務所の同僚たちになされたギータの講義は、後にサネ・グルジ(Sane Guruji)により本として出版される。自治についての著作(Swarajya Shastra)やGyaneshwar、Eknath、Namdevの聖歌バジャン(bhajans)も完成させた。
1940~41年にかけては、ナグプール(Nagpur)刑務所に3回も投獄された。最初は3カ月、次は6カ月、そして三度目は一年だった。ここでは、「Ishavasyavritti」を書いた。1942年にはベロール(Vellore)とセオニ(Seoni)刑務所に3年投獄をされた。ベロール刑務所ではインド南部の4言語を学び、セオニ刑務所では「Sthitaprajna Darshan」を書いた。
ビノバは多言語にも通じる優れた大学者だった。アラビア語を学びコーランも熟知していたし、聖書も学んでいた。仏教にも造詣が深く、キリスト教、ヒンズー教、仏教とどのジャンルの宗教でも論文が書けた。しかも、文章家としても優れていた。宗教、哲学、教育と様々な分野の本質を庶民にわかりやすく伝えることができた。例えば、1923年にワルダ村アシュラムにいたとき、早くも地元言語でマハーラーシュトラ・ダルマ(Maharashtra Dharma)を創刊しているが、それはその後、月刊誌、週刊誌となり3年も続いた。ビノバの文は評判となり、人々の人気を博した(1)。

■非暴力での共産ゲリラとの闘い

 1947年、インドが独立し、翌年1月30日にガンジーが暗殺されると、ガンジーの信者たちは、ビノバに指示をあおいだ。ビノバはこう諭した。
「いまやインドは、その目標たる独立を達成した。さればこそ、ガンジー主義の新たな目標はサルボダヤ(Sarvodaya)に捧げる社会でなければならない」(3)。

 日本では、サルボダヤ運動というと.アリヤラトネ博士により、1958年からスリランカで始められた農村自立運動が有名だが、ビノバは、それよりも10年も早く運動に着手していた。サルボダヤ思想(Sarvodaya Samaj)は、社会に受け入れはじめ、ビノバは1950年には、ゴールド、すなわち金銭への依存からの自由 (kanchan-mukti)とリシ・ケシ(Rishi-Kheti)、すなわち、古代の賢人により実践された雄牛を使わない耕作プログラムを立ちあげる(1)。だが、ビノバにはリーダーとなる望みはさらさらなく、むしろ、アシュラムでの暮らしを望んでいた(3)。1938年に一度病で倒れた後、ビノバはナグプール(Nagpur)近くのパウナル(Paunar)のパラムダハム(Paramdham)アシュラムに移ったことがある。そこは、本部として残っていた(1)。

 だが、時代はビノバが隠棲することを許さなかった。1951年4月、南部インドのハイデラバード(Hyderabad)市の数キロ南の村シバラムパリ(Shivarampali)で第三回サルボダヤ会議が開催されるのだが、アシュラムを出て、会議に参加するよう説得されたのである。ビノバはハイデラバードまで480キロを歩いていくことを決めた(1)。そして、最終日の4月11日に、「平和のメッセージ、非暴力を広げるため、テランガナ(Telangana)にまで旅する」と宣言する(2)。テランガナとは現在のアンドラプラデシュ州にある地区だが、なぜ、ビノバが旅することを決意したのかを理解するには、その背景状況を知らねばならない。当時、テランガナでは共産主義の武装闘争が引き続いていた。共産主義の学生や貧しい村人たちがゲリラ軍を結成し、富裕地主層をたたき出すか殺し、土地の独占体制を打倒しようとしていた。最盛期には3,000もの村をゲリラが占領し、それに対し、政府軍が派兵され、反テロ・キャンペーンを始めていた。ある日には政府軍に占拠され、その夜には共産ゲリラが再占領するという事態が、多くの村で続いていた。反体制支持派と疑われた村人は、ゲリラからも政府軍からも殺されるであろう。ほとんどの村人が両テロの狭間におかれていた。政府は弾圧の姿勢を明確に示していたが、ビノバは武力革命にはよらずに不公正を解決する方策を見出すことを望んでいた(3)。ガンジー主義かマルクス主義か。ビノバにとっては、それはインドの将来を左右する大きな闘いだった(1,2)。こうして、警察からの護衛も拒否し、ビノバは数人の弟子だけを引き連れ、徒歩で旅立つのである(3)。

■非暴力史の大きな幕開け土地寄進運動

 4月17日に、ある村に立ち寄ったときには、ビノバは、村人たちが共産ゲリラだけでなく、警察も恐れており、村が階級闘争によって引き裂かれていることを理解する(1)。歩き始め3日目の4月18日(3)には、ビノバは共産主義活動の中心地であるナルゴンダ(Nalgonda)地区に入り、共産党の重要拠点ポチャムパリ(Pochampalli)村を訪れる。そこは、約700世帯が暮らす大きな村だったが、村人の3人に2人は土地がなかった。村人は暖かくビノバたちを受け入れ(2)、ビノバの滞在先には様々な村人が訪れた。その中には、40世帯からなる不可触民(アンタチャブル)の人々もいた。不可触民のことをガンジーは神の子 (ハリジャン= Harijan) と呼んでいた。不可触民たちはこう言った。
「私らは共産主義を支持せざるを得ないのです。なぜなら、共産主義だけが私らに土地を与えてくれるからです。それとも、あなたが土地を与えてくれるよう、かわりに政府に頼んでくれるというのですか」
ビノバはこう応じた。
「たとえ、政府から土地を得られないとしても、村人自身として何かやれることはないでしょうか」
 だが、答えたビノバ自身がその回答に満足しいなかった。ビノバは深く当惑した。
その午後遅く、村の脇にある湖岸では、近隣から何千もの村人が参加し、ビノバの祈りの会が催された。会を始めるにあたり、ビノバはこの不可触民の課題を提起した。さして、まともな回答があることを期待していたわけではない。だが、それでもビノバはこう言った。
「兄弟たちよ、友人たる不可触民を助けるものは、ここには誰一人としていないのか」(3)。
すると、驚いたことに、一人の傑出した農民、ラム・チャンドラ・レディ(Ram Chandra Reddy)が立ち上がり、かなり興奮した声でこう言ったのだった。
「この人々のために私には40haを与える用意がある」(2)。

 ビノバは自分の耳を疑った。いま、土地占拠の内乱が起こっている最中に、寛大なことに40haもの土地を手放してもかまわないと思っている農民がいる。だが、次にビノバはもっと驚かされた。不可触民たちは、自分たち40家族に必要なのは16haの水田と16haの畑だけで、それ以上はいらないと宣言したのだった(2,3)。



 この日こそが、土地寄進、ブーダン(Bhoodan) 運動がはじまった歴史的に記念すべき日となった。それまで聞かれたこともない出来事が、まったく計画されないまま起きたが、それは、インドの土地問題を解決する方向を示していた(2)。ビノバには、それは神からの啓示であるように思えた。祈りの会を終えるにあたり、ビノバは土地なし農民たちのため、土地の寄進を求め、全域を歩きたいと述べた(3)。

 こうして、運動がはじまった。ビノバは、テランガナの200人の土地なし農民のために農民や地主に寄進を求めた。
「インドの農地は、土地なし農民を満足させることが必要です。あなたが5番目の息子に土地を与えるのと同じく、土地をわかちあおうではありませんか」
 土地寄進運動は自然発生的に進んだ。初めに寄進したのは、0.5haとか1haとかわずかの土地しか所有していない農民たちだった。だが、農民たちにとっては、ビノバは聖者であり、ガンジーの息子そのものだった。ビノバは、より貧しい隣人たちに対する親愛という神のお告げをもたらすためにやってきたのだった。ビノバの祈りの集会は、宗教的な情熱を帯びることすらあり、ビノバは最も貧しい農民からの寄進さえ受け入れた。だが、そうした場合はその場で土地をさし返した。ビノバの目標は、寄進そのものではなく、土地を再分配するための心を開くためにあったからだった。

 やがて、もっと豊かな地主たちも寄進をはじめる。動機の多くは、共産主義への恐怖のためで、適当な土地を与えることで、貧しい農民たちから共産主義を追い払うことにあった。だが、全部が経済的な動機であったわけでもない。金持ちたちも、寄進を通じて精神的な恵みを得たかったし、威信も保ちたかった。だが、結局のところ、貧しい農民たち以上に土地寄進をした金持ちはいなかったし、ビノバのメッセージを本当に理解した金持ちたちはごく少数でしかなかった。

 とはいえ、寄進運動にははずみがついた。ビノバは人々の恐れや緊張をほぐし、それまで集会を開くことが恐れられていた場所ですら、数千人がビノバの肉声を聞くために集まり、その中には共産主義者もいた。7週後にはビノバは5000haもの土地を集めていた。そして、ビノバが立ち去った後も、サルボダヤ運動のワーカーたちは、ビノバの名で土地を集め続け、さらに5万haの土地寄進を受けていた。

 ビノバは、平和的な非暴力革命を通じて、インド社会の完全な改革を望んでいた。貧困問題の最大にして唯一の原因である土地占有を解決することを望んでいた。ビノバは、人民が苦しむ根には強欲があると考えていた。もし、人民が所有欲を克服するよう導けるならば、社会的な分断や排除状況を一掃できる。テランガナの行進は、土地寄進の全国キャンペーンの立ちあげになった(3)。

 ビノバは足で歩く(padayatra)ことの強みがわかっていた。1951年9月12日、ビノバはパウナル・アシュラムからインド全土への旅をはじめた。テランガナでは、寄進は日平均80haにすぎなかった。だが、パウナルからデリーまでの行進では、日平均120haに伸びた(1)。

 すでに、ビノバは57歳と老年の域に入っており、病身でもあった。慢性の赤痢やマラリア、胃潰瘍に苦しんでいた。だが、ビノバの日々のパターンは同じだった。旅は土日もなければ休日もなかった。毎朝、午前3時には起きて瞑想する。胃に負担をかけないよう、はちみつ、ミルク、ヨーグルトを食べ、村から村へと15~20キロも歩く。この旅にはいつも随行者たちがいた。ほとんどが町や都会出身の理想主義の若者たちで、サルボダヤ・ワーカー、地主、政治家、あるいは関心を持つ西洋人もいた。だが、こうした随行者たちも息が切れるほどのペースで先頭を歩んだのはビノバだった。



 招待を受けた村では、音楽や花輪、村長による正式な歓迎を受け、「聖人ビノバ」の叫び声が集団を迎えた。
朝食後は、新聞を読み、寄せられた手紙に返事を書き、来客と会見する。陽が傾けば、祈りの集いが催され、近隣から何千人もの村人が参加する。詠唱の後は、ビノバは、高いが落ち着いた声で群衆たちに語りかけた。説話はいつも即興だったが、ヒンズー教の経典や日々の暮らしから得た深い知恵に満ちていた。ビノバは、村人たちに愛の人生を薦め、集会が終われば、多くの寄進が得られた。ビノバたちは日あたり500ha、1000ha、1500haを集めていた。その一方で、サルボダヤ・ワーカーやボランティアたちの数100もの小さなグループが、インド全土で村から村まで旅をし、ビノバの名で土地を集めはじめた(3)。ビノバは1957年までにインド全土で2000万haを得ることを目標に掲げた(2)。

■土地寄進から村寄進へ

 土地寄進ブーダン運動は、その後、村寄進運動グラムダンへと発展していく。グラムダンはブーダンよりも、さらにラディカルなプログラムだった。グラムダンとは、村人全員か、少なくとも75%以上の村人が土地を寄進する運動を言う。土地は村全体によって法的に所有され、各家族はその必要性に応じて土地を分配される。きっかけは、1952年5月に、ウッターパラデッシュ州を歩く間に、マングラー(Mangrath)村全体の贈与を受けたことだった。それは、人民たちが、個々に寄進するのではなく、コミュニティとして村全体の利益を考え、村の家族のために所有権を放棄し、土地を平等に再配付できるまでパワー・アップできたことを意味していた(1,2)。

 ビノバは、1954年以降は、個々の土地だけでなく村全体の寄進を求めるようになり、この新プロジェクトをグラムダン(Gramdan)と名づけた。グラムダンに参加した村では、村は、村の成人全員が参加する委員会により管理され、委員会は全員のコンセンサスが得られるまではどんな決定も下さない。だから、一人や数人だけが他のものを踏みにじり利益を得ることは難しい。これが、人々の協力を確実にした。ブーダンは必要に応じた非暴力な革命手段だったが、ビノバはグラムダンを「革命そのもの」だと見なしていた。ガンジーと同じく、ビノバはインド社会の停滞の根本原因が、その階級社会にあると考えていた。村が発展するには、村人たちがともに働き、学ぶ必要があった。
「グラムダンを通じて、土地が共有され、協同組合的に意志決定がなされれば、統一がもたらせる。ひとたびこれが成し遂げられれば、人民の力は解放され、どんなことであれ、可能になるに違いない」ビノバはこう考えた(3)。
「私たちは、人民の自律力を確立しなければなりません。言うならば、暴力や人を罰するパワーを除きつつ、抵抗するパワーを示さなければなりません。人民は私たちの神なのです」

 グラムダンは、オリッサ(Orissa)州、タミル・ナドゥ(Tamil Nadu)州、ケララ(Keral)州と各地でかなり進んだ。何千キロも歩き、何千回も集会を開き、カースト、階級、言語、宗教の壁を越え、人々を集めていく。1960年5月には、北インドの強盗団の巣窟チャムバル・バレー(Chambal Valley)からビノバに自首してくる者まででてきた。ビノバにとっては、それは非暴力の勝利だった(1)。

 ビノバはさらに様々な関連したプログラムも進めていく。富寄進(Sampattidan)、労働寄進(Shramdan)、協働労働者による運動への一生のコミットメント、人生の寄進(Jeevandan)、平和軍隊(Shanti-Sena)、農作業のための農機具の寄進(Sadhandan)、あらゆる家庭に毎日一握りの穀物を与える運動(Sarvodaya-Patra) (1,2)。
インドの教養あるエリート階層にとっては、ガンジー思想は拒絶しないにしても、無関係とする傾向が強かった。だが、ビノバは、ガンジー思想を、土地なし農民への土地の公正な再分配という基本的な経済問題の解決策に取り入れ、社会経済的な村の再建にガンジー思想を生かし続けた。運動はガンジーの大衆動員を想起させ、ガンジー思想を学び、深く考える人々の心に火を焚きつけた。運動は、協働者たちのライフスタイルにも直接影響を及ぼした。例えば、インド独立前後に最前線の政治指導者であった、ナーラーヤン(Jayaprakash Narayan)は、著名なマルクス主義者、社会主義者だったが、運動と密接にかかわることで、非暴力のガンジー思想に基づき人間革命を引き起こす大きな努力であることを理解した(2)。1954年、ナーラーヤンはビノバにサルボダヤ社会構築に生涯をささげることを誓った(1)。こうした個人的の啓発は大衆運動の形をとりはじめ、サルボダヤ社会、社会的・経済的・政治秩序を高め、インドやインドの外で広まる大きな運動の一部となっていく(2)。

 ビノバの努力は西洋でも関心を呼んだ。インド外部でも多くの思想家の関心を自然に引き付けた。米国では、ビノバについての大きな記事がニューヨーク・タイムズ乗り、さらに、タイム誌の表紙も飾った(3)。



有名な米国人の通信員ルイス・フィッシャー(Louis Fischer)はこう言った。
「グラムダンは近代において東洋から来た最も創造的な思想だ」

 英国のジャーナリスト、デヴィッド・グラハム(David Graham)は、創造的な反逆者としてビノバを評価したし、アーサー・ケストラー(Arthur Koestler)も、西側の開発モデルにインドのブーダン運動は、オルターナティブを提示していると1959年のロンドン・オブザーバー(London Observer)に投稿した。
著名な英国詩人、アルフレッド・テニソン(Alfred Tennyson)の孫息子ハラム・テニソン(Hallam Tennyson)は本を書いた。ビノバとともにインド農村を歩いた経験を著作「The Saint on the march」に書いた。駐印米国大使チェスター・ボールズ(Chester Bowles)は、本を読みこう述べた。
「平和のディメンジョンだ。ブーダン運動はインドでルネッサンスへのメッセージをもたらした。人間としての尊厳が確立されるとき、それは共産主義への革命的なオルターナティブを提供するだろう」
英国の工場社長、アーネスト・ボーダー(Earnest Barder)は、ブーダン運動とガンジー思想に深く影響され、自分の会社の90%の株を工員たちとわかちあった(2)。

■晩年とその評価

 結局のところ、ビノバは13年も絶え間ない行進を続け、インド全土を歩いた。アシュラムに戻ったのは、1964年4月10日のことだった。そして、1965年7月には乗り物を利用し、高速度で旅する「Toofan Yatra」を始めた。それも約4年間続き、最終的にアシュラムに戻ったのは1970年6月のことだった(1)。1966年6月7日、ガンジーと初めて出会ってちょうど50年、ビノバは、活動から退き、内なる霊的修行に入ると発表。1970年10月7日に、一ヶ所にとどまる決意を述べた。だが、それでもビノバの社会活動は終わったわけではない。女性の解放を訴え、インド農村の慣習である牛の反対キャンペーンを提唱した。1974年12月25日から1975年12月25日までの1年は沈黙業を行い、1976年には牛の虐殺に反対して断食をはじめた。

 社会活動から身を引いた晩年、ビノバは、パウナルのアシュラムで日々をおくり、霊的修行に専念した。そして、このアシュラムで自ら食を断ち、治療を拒絶し死んだ。1982年11月15日没。人々は、これを「入定」(sallekhana)とした。

 非暴力運動史におけるビノバの貢献は際立っている。だが、ブーダン、グラムダン運動は期待された目標を達成できなかった。ビノバは1954年のサルボダヤ会議には、全国で120万ha以上の土地を集めた。そして、最終的にはその面積は170万haにも達した。だが、1975年の統計によれば、実際に分配された土地は52万にすぎなかった。この土地の大部分は役に立たないと判明し、多くのケース地主で誓約を破った(1,3)。運動は1957年までは熱狂的に続いたが、その後は低下した(2)。グラムダン活動もその登録数は公式統計では16万、インド全村の3分の1にも及んだが、宣言するのは簡単でも実際に実践することは難しい。1970年前半までに、土地名義を村議会に移した村は数千にすぎず、ほとんどの村では進展がとまっていた。グラムダンが実践された村のほとんどは小さいか、カーストがひとつしかない村であり、実施されない地区では思想も一般化せず、これが1950年代末からの衰退の原因となった。こうして1971年には、運動としてのグラムダンはそれ自身の重さで瓦解した(2,3)。

 長期的には、運動の成果は疑問視され、ビノバも批判された。だが、それでも、ビノバは、インド政府の土地改革をうわまわり、土地なし貧民たちに50万ha以上の土地を分配することができ、約50万家族が恩恵を受けた(1,3)。グラムダン運動も何百もの村で100人以上のサルボダヤ活動家が移住し、こうした村は今もガンジー運動のベースとなっている。現場では、ガンジーが提唱したコミュニティ開発や非暴力運動キャンペーンを組織化することで最貧の人々を助けている(3)。

 ブーダン・グラムダン運動は、インド社会の土地問題を非暴力的なサルボダヤ運動を通じて解決しようとした。その限界にもかかわらず、ビノバの運動は、非暴力への信頼を再燃させ、暴力へのオルターナティブや非暴力社会のビジョンを示した。そして、不平等という社会問題に対しても重要な疑問をなげかけた。

 ビノバは、空気、水、空、日光のように大地も神の贈物であるとみなしていた。国家権力よりも人民の力の方が上だと考えていた。そして、世界的な運動を通じ、精神性を村の自治再生運動と結びつけた。平和には程遠い現在、ビノバの思想は、人々をインスパイアーするものとして今もその価値は失っていない(1)。

「すべての革命は根源はスピリチュアルなものです。私の活動のすべては、ハートの統一を達成する唯一の目的があります」
「平和はメンタルでスピリチュアルなものです。一人ひとりの内側に平和があれば、それは全世界に影響するでしょう」
「私たちが目指すべきものは、人民のパワーの創設です。それは暴力とは反対のもので、国の圧政的な権力とも異なります」
「国家は、武器によってではなく、倫理的な立ちふるまいにより防衛されるべきものです」
「私には政府の欠点を抗議する必要はありません。私が抗議すべきは、その善に対してです」
「政府の力により、革命的な思考を広められると考えることはおやめなさい」
ビノバは、死んだ翌年1983年にインドの最高の市民栄誉賞であるBharat Ratnaを受賞している。

(引用文献)
(1) Usha Thakkar, Vinoba Bhave - A life Sketch
http://www.mkgandhi.org/vinoba/bio.htm
(2)Subhash Mehta, Bhoodan-Gramdan Movement-50 Years:
http://www.mkgandhi-sarvodaya.org/vinoba/bhoodan.htm
(3) By Mark Shepard
The King of Kindness Vinoba Bhave and His Nonviolent Revolution
http://www.markshep.com/nonviolence/GT_Vinoba.html


最新の画像もっと見る

コメントを投稿