没落屋

吉田太郎です。没落にこだわっています。世界各地の持続可能な社会への転換の情報を提供しています。

ローザムステッド

2007年06月19日 22時44分33秒 | 土の科学
 腐植説か。それとも無機栄養説か。決着を付ける壮大な研究が、リービッヒが理論を提唱した3年後の1843 年に始まる。この実験を始めたのは英国の地主、ジョン・ベネット・ローズ(John Bennet Lawes:1814~1900)だった。ローズは、ハートフォードシア(Hertfordshire)近郊のローザムステッド(Rothamsted)に地所を有する地主の一人息子として生まれた。オックスフォード大学を卒業したが、若い頃から、自分の領地で様々な薬用植物を育てることに熱中していた。ポットの中で色々な植物を栽培しては、肥料の効果を実験し、その後に研究は作物にまで広げられた。そして、1842年に29歳の若さで骨粉やリン鉱石を硫酸で処理した化学肥料の水溶性の「過りん酸石灰」製法特許を取得し、化学肥料の最初の工場の運営も始める。

 ローズは、起業家としても成功したが、ビクトリア時代を代表する科学者でもあった。事業であげた利潤を元手に、作物への化学肥料の施用効果を圃場試験で確かめるため、化学者ジョセフ・ヘンリー・ギルバード(Joseph Henry Gilbert:1817~1901)を雇い入れ、小麦の栽培試験に着手する。これが、世界最古の農業試験場、ローザムステッド農業試験場(Rothamsted Experimental Station)の誕生へとつながる。



 以降、ギルバートとの協働研究は57年も続いた。二人は狭い区画で様々に条件を変えた圃場試験を始めたが、これは農業で最も重要で、かつ、近代的な実証的な試験方法である。その目的は、有機肥料と化学肥料の作物収量への影響を調べることにあった。まず、ローズは石灰の施肥効果を見るため試験を始めたが、その後は、リービッヒの無機栄養説に疑問をいだき、窒素肥料の試験も始める。結果として、窒素が肥料として必要なことが示された。この試験場で得られた結果を基に、リービヒと10数年にわたる大論争をしたことでも知られるが、厩肥を施用した区の収量は高いが、化学肥料でもそれに劣らぬ収量が得られた。つまり、リービッヒの窒素肥料不要説は誤りであり、厩肥と化学肥料の持つそれぞれの有効性が明らかになったのだった。

 ローズは、1854年には王立学会特別研究員に選出され、1882年に准男爵(baronet)の爵位を得る。以降は、卿と呼ばなければなるまい。卿は、死後も試験場を存続させるため、10万ポンドの遺産を残し、ローズ農業トラスト(Lawes Agricultural Trust)を設立した。ギルバートは卿の翌年死ぬが、最後まで試験所にとどまった。ローザムステッド農業試験場は、その後も昆虫の農薬抵抗性やピレスロイド殺虫剤の発見・開発、ウィルスや線虫学など全世界の農業専門家を着目させる研究を生み出し続けている。

(引用文献)
The Origins of Rothamsted Research
http://www.rothamsted.bbsrc.ac.uk/corporate/Origins.html


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