没落屋

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貧乏人御用達専門銀行

2006年08月05日 22時16分34秒 | 経済学

 1974年、南バングラディシュは、数千人が餓死した深刻な飢餓に直面していた。この飢餓にショックを受けたのは、当時、南バングラデシュのチッタゴン大学で経済学を教えていたムハンマド・ヤヌス(Muhammad Yunus・1940~)教授だった。
 「私たちは、飢餓を無視しようとしました。ですが、骸骨のような人々が首都ダッカでも現れ始め、細流はすぐに洪水となり、どこも飢えた人々で満ち溢れました」。

 飢餓の悪化ともに教授は経済学を講義する自信を失っていく。



 「私は、社会問題を直ちに解決できる上品な経済学理論を学生たちに教えていました。ですが、私が教えていたどんな経済学理論ですら、周囲人々の暮らしに反映されませんでした。経済学の名にかけて、どう私の話を学生たちに信じさせられるといえるでしょう。私は、こうした理論や自分の教科書を捨て、貧しい人々が存在するという現実の経済学を発見する必要がありました」(1)

 ヤヌス教授は、1940年に当時の東パキスタン、東ベンガルのビジネス中心街であったチッタゴン(Chittagong)に生まれた。家は裕福であり、十分な教育を受けることができ、1960年にダッカ大学経済学部を卒業すると、翌1961年には同学で経済修士を得て、フルブライト留学生になる。奨学金をえて、バンダービルト(Vanderbilt)大学で1970年には学位を得る。1972年には、チッタゴン大学の経済学部長になっていた(2)。要するに、バリバリの留学エリート経済学者だったのである。だが、米国に7年間滞在した後、西パキスタン軍が首都ダッカを占領すると、教授はバングラディシュ自由化運動を支持し帰国する。そして、祖国で目にしたのは絶望的な飢餓と貧困だった(3)

 1974年、教授は、学生たちを引き連れ、経済の現実を学んだ貧しいジョブラ(Jobra)村を訪ねていた。一人の竹籠づくりをしている女性に尋ねると、こんな答えが返ってきた。

「私は細工をする生竹を買うのに15ルピーを借りなければなりません。週当たり10%の利率で借金を返すとほとんど利益が残らないんです」

 もっと低利で資金を借りることができるなら、彼女の暮らしは最低の水準よりも向上するだろう。自分が教えていた経済学には何かひどくまずいことがあるに相違ない。ヤヌス教授は、自分のポケットから金を取り出し17~42人分の資金を貸した(2)。後に教授は当時のことを想起している。

「私は人々の自助努力を理解するようには教育を受けてきませんでした。経済学のどの学生もそうであるように、あらゆる人々は成人になれば労働市場で就業の準備をするべきであり、失業すれば政府に求人登録をするべきだと信じてきたのです。ですが、バングラデシュの現実の貧困を前に、こうした信念はゆらぎました。彼らのほとんどにとり、求人市場は意味がないものでした。そして、生きのびるために、彼らは自ら経済活動を始めました。ですが、経済機関や政府は彼らの苦闘に注意を払いませんでした。それは、欠点なき公式の体制から拒絶されたのです。

 また、私は、貧しい人々がごくわずかの運転資金も手にできないことでいかに苦しめられているのかを目にしてショックを受けました。彼らが必要としていたのは一人あたりでは1ドル未満でした。それでも、何人かはひどい条件でしか資金を入手できず、貸し手の言い値で商品を販売しなければならなかったのです」(4)

 教授は貧しい人々を支援するためのプランをいくつか考えていたが、そのひとつが、起業のための小口融資をすることだった。このわずかの資金でも、彼女たちが生きのびる助けになるだけでなく、自ら貧困から抜け出すのに必要な動機や起業精神を引き起こすことがわかった。グラミーン銀行が誕生し、経済革命が始まった瞬間だった。

 教授は、銀行や政府の止めろという忠告にもかかわらず、小口資金を融資し続け、1983年には、信用と連帯感の原則に基づく「村の銀行」という意味を持つ「グラミーン銀行」を設立する(1)

 2006年5月現在、グラミーン銀行には2185 の支店があり、バングラディッシュにある69,140の村すべてをカバーし、639万人が利用している。うち96%が女性である。グラミーン銀行は、従来の銀行の発想をまったくくつがえした。まず、借り手として女性、かつ、最も貧しい人をターゲットとした。事実、銀行からローンを借りるには、村人が借り手の家族が2反未満の土地しかないことを示さなければならない(1)。だが、結果として、融資の98%以上は返済され、それ以外のどんな金融システムよりも償還率が高い。 グラミーン銀行の方法は、米国、カナダ、フランス、オランダ、ノルウェーを含め58ケ国のプロジェクトでも適用され(2)、ビルマやコソボでも成功を収めた(3)。教授は、グラミーン銀行の頭取を務め、1997年には、ワシントンで世界初の小口融資サミットを開催した(1)。そして、国連を通して、バングラデシュ以外の場所にもグラミーン銀行のノウハウを広め、貧困の根絶に向けて努力している(3)。現在、約100カ国の250以上の団体が、グラミーン銀行モデルに基づく小口資金プログラムを実施しており、それ以外の何千もの小口融資プログラムもグラミーン銀行を参考にしたり、元気づけられている。革新的なある政府の専門家はこう語っている。

 「ヤヌスによりグラミーン銀行で設立されたプログラムは、第三世界においてここ100年間で最も重要な開発です。そのことに誰も異議を挟むとは思いません」(1)

 ヤヌス教授の夢は世界から貧困をなくすことにある。教授はこんなことを語っている。

 もし、たった1日でさえ、他の人のお役に立てるならば、それはすばらしいことです。それは私が大学で得られたあらゆる偉大な思想よりもすばらしいことです。グラミーン銀行は、希望へのメッセージです。いつの日にか、私たちの子どもたちが博物館を訪れて『昔はこんなに惨いことが許されていたんだね」と尋ねるようホームレスや貧困を博物館の中にあるものだけにしてしまいたいのです。

 私たちの仕事は、金持ちや貧乏人、そして、彼らの義務と権利を基本的に再考するものです。最近、世界銀行は、貧困緩和へのこのアプローチが何百万人もの個人が威厳をもちつつ貧困から抜け出していることを認めました。

 グラミーン銀行で働いた経験から、私は人間の創造性への確固たる信頼感を得るようになりました。人間は飢餓や貧困の災いを受けるために生まれてくるのではない。そう考えさせられるのです。もしそうしたいと願うならば、貧困なき世界を創造できると深く堅く信じるようになりました。単なる夢物語としてではなく、グラミーン銀行でなされた仕事の具体的な経験の結果としてこの結論に達したのです。

 もちろん、貧困を終わらせるのは、小口融資資金だけではありません。資金は人々が貧困から抜け出せるひとつの扉であり、もっと多くの扉や窓を作り出せます。

 グラミーン銀行は、二つのことを教えてくれました。最初は、人々や人々の相互関係についての私たちの知識がまだとても不十分だということです。二つ目は、一人ひとりがとても重要だということです。一人ひとりには、ものすごい可能性があります。彼女や彼、たった一人だけでも、コミュニティ内のそれ以外の人々の人生や国、そして、彼女や彼の時間を超えたところまで影響を及ぼすことができるのです。もし、私たちのこの可能性の限界を発見できる環境を創り出さなければ、私たちは自分たちの内にあるものを決して知ることができません。

 とはいえ、どこに行くかを決めるのは、私たち次第です。私たちはこの惑星のナビゲータでありパイロットです。もし、真剣に私たちが役目を果たすなら、探す目的地にたどり着けます。もし、あなたが、グラミーン銀行の物語が確かで魅力的なものだと理解したならば、貧困なき世界を創設する可能性を信じ、そのために働くと決めた人々にあなたも加わるようお誘いしたいと思います。あなたが革命家であろうと、自由主義者でろうと、保守主義者であろうと、若者であろうと、年配者であろうと、私たちは皆この課題にともに取り組むことができるのです」(2)

著作に「貧乏人のための銀行マン:小口融資と世界貧困への闘い(Banker to the Poor: Micro-Lending and the Battle Against World Poverty: 1998)」がある。

(引用文献)
(1) Muhammad Yunus, Project: Grameen Bank.
(2) The autobiography of Muhammad Yunus, founder of the Grameen Bank.
(3) Muhammad Yunus
(4) 小口融資資金サミットでの講演2005年


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1 コメント

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Unknown (伊藤 嘉夫)
2006-08-22 19:58:56
初めまして

グラミーン銀行にとても感銘を受けました。

是非私の日記(ミクシイ)あるいはコミュニティーにて
紹介させて下さい。

日本にもこのような金融機関が出来たらいいのに。。。。と思いました。

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