中華街ランチ探偵団「酔華」

中華料理店の密集する横浜中華街。最近はなかなかランチに行けないのだが、少しずつ更新していきます。

B級グルメの食べ過ぎに注意 その3 コーヒー牛乳

2006年07月15日 | B級グルメの食べ過ぎに注意

 幕末から戦前にかけて、横浜では酪農・乳業が盛んだった。近世の庶民にとって無縁であった牛乳が、急速に消費されるようになったのは、開港とともに来浜した外国人の要望、指導による。昭和の時代になっても、牛乳関連の業者は約60軒、乳牛は1000頭もいたという。

 横浜で最初に牧場を開いたのは、リズレーというアメリカ人である。1866年、6頭の牝牛と1頭の子牛を連れてきて、居留地112番で始めた。そして、同時に牛乳の販売も開始している。

 その後、欧米人による牧畜が居留地内で行われるようになると、周囲の住民から「悪臭をなんとかしろ」という苦情が寄せられ始めた。そこで神奈川県は、牧場を郊外へ移すよう指導。その移転先が横浜の根岸方面だった。何年か前まで中区簑沢あたりにあった石川牧場が、その最後の名残だったと思う。

 欧米人から技術指導を受けた日本人も、やがて畜産・牛乳販売を行うようになった。写真開発で有名な下岡蓮杖も牧場を持ち、明治5年ころ、横浜公園前で牛乳屋を開業している。

下岡牧場の主任だったのが中沢源蔵で、彼ものちに本牧で牧場を始めている。そして、この中沢牧場の従業員に、高梨庄三という人がいた。彼の創立した会社が、皆さんご存じの高梨乳業である。

 下岡蓮杖と同じころ、仮名垣魯文も太田町で牛乳の販売を行っていた。自ら書いた宣伝文には、「香ばしい味を出すため、濃く煎じたコーヒーを入れると良い」とある。明治初期に、早くもコーヒー牛乳を紹介しているのだ。

 さて、コーヒー牛乳といえば、想い出すのは昭和30年代の銭湯である。というのも、風呂上がりにいつも飲むのが、コーヒー牛乳だったのだ。
 大相撲の場所が始まると、脱衣所に星取り表が張り出された。お客の話題は、まわしのずれた安念山、お尻がブツブツの栃錦、ブラウン管が真っ白になるほど塩を蒔いた若秩父などだ。
 そうそう、人間起重機といわれた明武谷というのもいた。千秋楽が近づくと、「誰が優勝するか」湯船の中で真剣に議論されたものである。

 が、銭湯に集まる町の人々を熱くさせたのは、相撲よりも、あの街頭テレビに登場した力道山対シャープ兄弟の対決であった。目潰しやチョークの反則攻撃にもじっと堪え、ついには伝家の宝刀空手チョップに正義の怒りをみなぎらせ、悪役レスラーをことごとく倒してしまう姿に、脱衣所の誰もが拍手をしたものだ。

 メキシコの巨像オルテガ、殺人鬼ブラッシー、人間発電所サンマルチノ、鉄人ルーテーズ、人間風車ビルロビンソン、覆面凶器のデストロイヤー…いま思い起こすと、そうそうたるメンバーが揃っていた。ボクたち子どもは、風呂上がりの一本、名糖のコーヒー牛乳を飲みながら、いつまでも彼らの技について話し続けた。

 あれからン十年、手に持つのは牛乳ビンから缶ビールに変わったが、今でもときどき、名糖のコーヒー牛乳が飲みたくなる。
 

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