中華街ランチ探偵団「酔華」

中華料理店の密集する横浜中華街。最近はなかなかランチに行けないのだが、少しずつ更新していきます。

鹿地事件

2016年05月24日 | レトロ探偵団

  戦後、講和条約が発効するまでの間には、訳の分からない事件がいろいろ起きていますが、昭和26年(1951)から昭和27年(1952)にかけて、作家の鹿地亘氏がアメリカ軍に拉致軟禁されていた事件もそのうちの一つ。

 どんな事件だったのか、wikipediaによると……

(以下引用)
 1951年11月25日午後7時頃、鹿地が藤沢市鵠沼の自宅付近を散歩中、軍用車から降りてきた数人のアメリカ軍人に突然殴り倒されて車で拉致され、当時キャノン機関が接収して使用していた東京湯島の旧岩崎邸などに監禁された。監禁場所は藤沢や沖縄のアメリカ軍施設など点々と変えられた。

 監禁中、ソ連のスパイではないかと疑われて執拗な尋問を受け、さらにアメリカ側の二重スパイになることを強要された。鹿地は戦時中、中華民国・重慶において蒋介石保護下で結成した日本人民反戦同盟に拠って日本軍兵士・捕虜に対する反戦プロパガンダ活動などに従事していた他、中国共産党とも近い関係にあった。その関係で当時からソ連やアメリカの諜報機関との接触があったと言われている。なお鹿地は監禁中、2回の自殺を図ったがいずれも失敗した。

 翌1952年に、不憫に思った監視役の日本人青年が鹿地の家族に連絡し、同年11月12日に家族は鹿地の捜索願を出している。同年12月6日には、家族の依頼を受けた左派社会党の猪俣浩三代議士などが解放に向けて尽力し、それが報道されるに至ると、鹿地は12月8日に神宮外苑において解放され帰宅した。
(引用終わり)

 冒頭の写真は昭和27年(1952)12月6日の朝日新聞。
 1年にわたって所在不明になっている鹿地氏が、どうやら米軍に軟禁されているという情報が明るみに出て来たことを伝えています。
 
 記事によると……

 監視役の日本人青年というのは駐留軍雇員の山田善二郎氏(23)で、彼が鹿地氏の軟禁先で見てきたことの一部始終を手記という形で発表したことにより、“ナゾの所在不明”の真相が初めて明るみに出されました。

 山田氏は予科練時代に終戦となり、その後、川崎市にあった東京銀行東川クラブで住み込みコックとして働いていました。ここは米軍が接収した建物で、総司令部第2課直属の情報機関の一種。日系アメリカ人が3人勤務しており、そのうちの一人、光田軍曹が責任者となっていました。
 そこに昭和26年12月上旬、一人の病人(日本人)が連れてこられました。それが鹿地です。
 ある日、山田氏は軍曹に呼ばれてその男の部屋に入ると、便所の中からゼーゼーという苦しそうな声が聞こえてきたそうです。

 トイレの上から入ってみると、クレゾールの臭いが充満する中で病人が倒れていました。彼の口元、シャツ、ズボン、床は多量の血痰や吐しゃ物で汚れていました。二人は男をベッドに戻すと、そこには遺書のようなものが置いてあったといいます。

 「内山完造様 信念を持って死にます鹿地、看守の方にご迷惑をおかけします」

 鹿地氏は大量のクレゾールを飲んで自殺を図ったのでした。 
 軍曹はその紙切れを持って出て行き、すぐさま燃やしてしまいました。山田氏がこの機関に大きな疑問を抱くようになり、鹿地氏に同情するようになったのはこの時からでした。その後、鹿地氏のことは一切、山田氏に任されるようになり、やがて二人は友好的な関係になっていきます。

 昭和27年正月、この機関は閉鎖されることになりました。と当時に、山田氏は鹿地氏が釈放されるかもしれないと思ったようですが、その期待はGHQのG大佐と機関の責任者C中佐によって潰され、鹿地氏は茅ヶ崎に移送されることになりました。

 山田氏はこのことを鹿地氏に伝え、家族の住所を教えてもらって留守宅を探したのですが探し出せませんでした。そこで山田氏は米軍に軟禁されている鹿地氏のことを内山完造に連絡。
 それ以来、鹿地氏は逮捕時の様子を山田氏に詳しく話すようになったそうです。

 山田氏は鹿地氏と一緒に6月10日まで茅ヶ崎にいて退職。7月1日からは横須賀のアメリカ海軍給与部に勤務したのですが、11月24日でここも退職することになりました。理由は鹿地氏と内通していたことが米軍関係者に感づかれそうになったからだといいます。


(昭和27年12月7日 朝日新聞)
 さて、鹿地氏軟禁事件の一部始終を手記という形で公表すると、すぐさま猪俣浩三代議士(左派社会党)がこの問題を人権擁護議員連盟に持ち込み、その扱いについて協議することになりました。

 記事には、猪俣議員が12月8日の法務委員会で質問に立つことが書かれています。サンフランシスコ講和条約が発効したのは昭和27年4月28日です。その日をもって連合国による占領は終わり、日本国は主権を回復しました。ですから、その後も鹿地氏が米軍に軟禁されているとすれば、これは大問題となるわけです。

 と、そのようなことが新聞記事になったからでしょうか、12月7日の午後8時過ぎに鹿地氏は突然解放され帰宅します。


(昭和27年12月8日 朝日新聞)
 この日、「私は訴える」と題した鹿地氏の声明文を猪俣議員が発表。その要旨は…

 「自分は1年余り米軍当局に監禁されていたが、7日夕方、ついに釈放された。山田君が事実を知って立ち上がってくれたことを今、知った。いきさつの大要は彼の手記のとおりである。監禁されたあとは、日本共産党員であるとか、ソ連共産党員であるとかの自白を強要された。さらに米軍スパイになるか、それとも誰にも知られず死を選ぶかとも脅迫された。自殺が失敗したあとは、妥協できる点は妥協したいと考えるようになり、やがて彼らからはお客さんとしての待遇を受けた」


(昭和27年12月9日 朝日新聞)

 鹿地事件のことが新聞記事に出たり、国会で審議されるようになってくると、アメリカ当局の談話も発表されてきます。
 しかし、見出しにもあるように「留置はしたが短期」、「講話発効後 日本人拘禁せず」と、鹿地氏の話や山田氏の手記とはまったく異なっています。
 はたして真相は……

 国会では法務大臣、外務大臣、国家地方警察長官らが出席し、謎の解明に向けて話し合いが始まりました。12月10日に鹿地氏、山田氏、内山完造氏を参考人として招致することも決まりました。


(昭和27年12月10日 朝日新聞)
 12月10日、鹿地氏が証人として衆院法務委員会に登場しました。

 その証言によると……


 自分は昭和2年に東京帝国大学文学部を卒業し作家として生活をしてきたが、昭和9年(1934)、治安維持法違反で逮捕され懲役2年(執行猶予5年)の判決を受けた。
 昭和11年(1935)に中国文学研究のため上海に渡り、そこで戦争を迎えた。現地で反戦運動に加わり、昭和21年(1946)に帰国。以来、日本の民主化のために働いたが、昭和23年(1948)、結核のため入院し手術を受けた。

 自分が拉致されたのは昭和26年11月25日。鵠沼駅付近で制服、私服の軍人に殴り倒され自動車の中に引きずり込まれた。1時間ほど走ったところで建物の2階に担ぎ上げられた。

 そこでキャノン中佐(のちに大佐)の尋問が始まったが、結核のため息切れがして肺が悪いというと、「治してやる」というようなことを言われた。少佐は「俺も尋問は嫌いだが、場合によっては仕方ない。静脈に麻薬を入れて無意識のうちに喋らせてやる」とも言った。

 拉致から5日目、目隠しをされて病院に連れて行かれ、レントゲンを撮った。あとで分かったことだが、そこは横浜市中区の病院だった。

 建物に戻ってからは、キャノン少佐が看護と監視のため付けたのが光田軍曹だった。

 昭和26年11月29日、目隠しをされ建物を移動。あとで分かったことだが、そこは川崎市内だった。そこで再び監禁されたのだが、光田軍曹が怠け者だったようで、日本人の山田君を代わりに私の看護と監視にあたらせた。

 この人が良い青年であることが分かってきたので、いろいろと打ち明け、内山完造さんに手紙を渡してもらうよう頼んだ。その後は、山田君が私の使者として動いてくれた。

 自分は一室に鍵をかけられて監禁されていたため、逃げようがなかった。
 監禁中の責任者は、最初はキャノン少佐で、のちにガルシェー大佐とワトソン大尉に替わった。

  
 以上が鹿地氏の証言の一部ですが、ほかに山田氏、内山完造氏も証言台に立ちました。そこから分かってきたことは…

 鹿地氏を監禁していた機関は、元CIC(アメリカ陸軍諜報部隊)に属していた軍人たちだったようです。キャノン少佐もかつては横浜のCICに所属していたといいます。

 しかし、それはCICと同じような仕事をする別個の、GHQ所属の機関であったようで、のちにキャノン機関だったということが判明してきます。
 鹿地氏を監禁していたのはキャノン機関でしたが、それは4月28日までで、それ以降の7か月間はCIA(中央情報局)だったということが、ニューヨークタイムスの報道で明らかになりました。


(昭和27年12月12日 朝日新聞)
 事件はだんだんと複雑な様相を示してきます。
 
 12月11日、米軍は鹿地氏の拉致を「本人がソ連のスパイと自白したため保護した」との声明を出したのです。
 これに対し鹿地氏は、「自分はソ連のスパイだった」という内容の自供書を書かされたと反論します。それは自殺に失敗したあとの意識朦朧の状態の時に書かされたというのです。

 そんな状況の中、鹿地氏と関連のある三橋正雄という男が電波法違反で逮捕されました。彼はソ連のスパイの疑いがかけられており、鹿地事件はさらにソ連も巻き込んで国際問題に発展していきます。
 
 最終的には三橋氏も鹿地氏も電波法違反で起訴されました。
 三橋氏は懲役4ヶ月の実刑判決。
 鹿地氏は懲役2ヶ月、執行猶予1年の判決が下りましたが、昭和44年(1969)の二審で無罪判決となりました。
 
 はたして鹿地氏はソ連のスパイだったのか…
 それともアメリカの二重スパイだったのか…

 まぁ、その後の新聞記事を探していけば何か分かるかもしれませんが、そのうちどなたかが調べてくださるのではないでしょうかね。

 
 以上、長々と鹿地事件のことを書いてきましたが、実はここに登場するキャノン中佐は中区山手町に住んでいたことが分かったので、次回はそのことを報告しようと思います。


(つづく)


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2 コメント

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Unknown (冬桃)
2016-05-24 10:54:31
怪しい事件(下山事件)などが起きた時代ですね。
そう思って山手あたりを見上げると、緑の木立さえ
闇の色に見えてきます。
返信する
Unknown (管理人)
2016-05-25 05:38:35
>冬桃さん
今回は別の調査で昔の新聞を調べていたのですが、
たまたまこんな記事が目に飛び込んできて…
この時代の記事を眺めていると、
面白いですね。
返信する

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