スペインの町なかを歩いていると、しばしば「Bar」というネオンを見かける。ホステスが接客する日本の「バー」とは違って、子どもでも、酒を飲まない人でも利用できる「バール」だ。 ボクが初めてバールに足を踏み入れたのは18年ほど前のこと。それは、アルハンブラ宮殿からの帰り道、グラナダの旧市街地にあった。 入口で中を覗いていたら、オヤジが出てきて「一杯やっていかへん?」と言う。恐る恐る入ると、そこはスペイン式の立ち呑み屋。大男が多いのか、カウンターはボクの胸ぐらいの高さだ。飲物やツマミを注文するにしても、なんだか変な感じだった。 すべてが高めに造られているようで、バール内のトイレもそうだった。「アサガオ」の位置が高く、つま先立ちしても届かない。洗面所と間違えるほどなのだ。 しかし、店の造りは大振りだが、ビールの泡は細やかだった。カウンターに立つ真鍮のスタンドコックから注いでもらった生ビールの味は格別だった。 ツマミは寿司屋のネタケースのような中に並んでいた。ほとんどが魚介類を使ったもの。ケースの横には大皿料理も置いてあり、好みの肴を取り分けてくれる。 そんな中からボクが選んだのは、イカのリング揚げ、ニンニク、名前の分からない魚フライなど。ニンニクは丸揚げで旨かったが、食べたあとの皮の処理に困った。皿も何もないので、皮を置く場所がないのだ。指でつまんだまま困惑していたら、隣の客が教えてくれた。 皮を床に捨てながら、「こう、やるんやでぇ」。 なんのことはない。床がゴミ箱なのである。そして、よくよく見ると、カウンターの下にタオルが吊してあった。油で汚れた手を拭くためのものだ。 ここまできて、ボクは野毛にあったある立ち呑み屋を想い出した。その店は、銭湯の軒先での営業という特別な立地だったので、ご記憶の方も多いことと思う。 × × × 敗戦の混乱もひと息ついた1950年、「横浜国際港都建設法」が公布され、工業地帯と直結した港湾整備が始まった。そんな港で働く労働者が一日の汚れを落とすため利用したのが野毛「柳湯」だった。 70年代になると、銭湯を舞台としたTVドラマ「時間ですよ!」がヒット。「柳湯」にも会社帰りのサラリーマンなどが来るようになる。ボクもそんな中の一人だった。 そして、ひと風呂浴びたあとは、ビールだ。「柳湯」のノレンをくぐり外に出ると、軒下に焼き鳥の立ち呑み屋があった。向かいの加藤商店で買った酒を持ち込んでいたので、正確には立ち食い屋と言ったほうがよいかもしれない。立ち呑み、屋台などの多い野毛のなかでも、特異な存在だった。 ここでは、油にまみれたニンニクの皮や、噛みきれない肉は、そのまま下に捨てるのが普通で、床がヌルヌルしていた。しかも、その床が傾斜しているため、ズルッと滑って車道に飛び出さないよう注意して呑まなければならなかった。 カウンターの下にタオルが吊してあり、みんな、タレや脂で汚れた手を拭いていた。 ボクはほとんど毎日、ここで呑んでいたが、あるとき「柳湯」の方が閉鎖になってしまった。全国的に銭湯が減少していく時代、この野毛も例外ではなかった。 閉鎖のあとにやって来たのは解体工事だ。あっという間に本体が消えてしまった。そして「柳湯」の軒先と、その下で営業を続ける立ち呑み屋だけが残った。 広い空き地の一画にポツンと建つその姿は、かつて焼け野原に残った「柳湯」の釜と湯船のようだった。 ←素晴らしき横浜中華街にクリックしてね |
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