エッセイ -日々雑感-

つれづれなるままにひくらしこころにうつりゆくよしなしことをそこはかとなくかきつくればあやしゅうこそものぐるほしけれ

年寄りの遊び―鴨川散歩ー

2016年11月08日 | 雑感

 2016年11月7日

  今日はぽかぽか暖かくよい天気だったので、いつものように高野川から鴨川、そして四條まで散歩した。

比叡山がきれいだ。カモ、シギなどが川の中であたかも遊んでいるかのように生活の糧を求めている。

                         

                        

                       

 鴨川でオジイサンがチョウチョ網で水たまりを引っ掻き回している。なにをしているのかのぞいてみたら小さな魚をとっていた。

オジイサンというが、私と同じくらいか若干年下だ。

“メダカですね”というと、“メダカに見えるがそうではない。水槽でメダカを飼っていて、それと一緒にこの小魚を入れるために獲っている"という。

                       

                       

 メダカは眼が出っ張っているとオジイサンは言う。

そうか、メダカは眼がでているからメダカと云うんだ、と納得したが、帰ってネットで調べたら、メダカの眼がとびだすのは病気で、名前の由来は目の位置が高いから目高というそうだ。

 “メダカは丈夫だけど、この魚は弱くてすぐに死にます。だからときどきこうやって獲りにくるのです”とオジイサンは言う。

“一日遊べますね”というと、“いや、退屈します”

オジイサンは魚とりが趣味ではなくて、あくまでもメダカ水槽を充実させるのが趣味だから、やむなく網をふりまわしているだけらしい。

“有難うございました頑張ってください”と云って散歩をつづける。

 お年寄りたちがペタンクをして遊んでいる。

                           

 ベンチで昼寝しているお年寄り、思索にふけっているお年寄り、 体操しながら散歩している年寄りは私だ。

                            

  四條に到達、まず“カツオの塩辛”を求めて高島屋の地下に行く。カツオの塩辛を使った焼き飯がおいしいと聞いて探したが、そこらのスーパーでは売っていない。

ところが高島屋にもなかったので三条の明治屋に行こうということになった。

 明治屋に行く途中、六曜社に立ち寄る。

                               

 ここは昔は芸術家気取り、文学かぶれの若者のたまり場だった。私はなににもかぶれていないが、絵にかぶれた友達とよくここに来た。

それにしても、六曜社も頑固な年寄で、まったく時がとまっているような場所だ。  

内装は昔と同じ、テーブルにはいまはほとんど見られない灰皿とマッチが置いてある。出てくるコーヒーは角砂糖つき、今の私には歯が立ちにくいほど固いドーナツ、そして飲み水が少なくなるとすぐに女の子がつぎたしてくれるやり方、すべて変わらない。

                                

 六曜社を出て、明治屋に行ったが、ここにもカツオの塩辛はない。明治屋は昔の明治屋ではなかった。どこにでもあるスーパーにちかい。

もう“カツオの塩辛仕込みのチャーハンはあきらめた。ネットで取り寄せるほどのことでもない。

ということで、家内との年寄り二人の散歩は終わり。7キロほどの行程だった。

これで、今日の1日は終わり。

 

 


地球温暖化パロディー

2016年11月07日 | 雑感

                                 

                                 

 

 去年のことだが、家の近くを散歩していて気になるものを見つけた。

飲料品の自動販売機だ。 その販売機の側面にプラカードを持った白熊の絵が描かれていて、プラカードには 「温暖化が進むと氷が溶けちゃうよ」 と書かれている。

前にまわると“省エネ大賞”、“エコプロダクツ大賞” という表示があり、さらに “ふむふむ。ピークをシフトしているってこと?” という表示があった。


ネットで調べると、このタイプの自販機はある飲料会社が2013年に開発したもので私が知らなかっただけだった。

電力消費がピークの日中を避け、稼働を夜間にシフトして省エネするという。

それはそれでいい。エコな自販機、結構だ。自販機が必要なら。


しかし問題は、日本の自販機が極端に多すぎるということだ。全国で550万台をこえるという。あれっ、だれも来ないんじゃないの!というようなところでも突っ立っていて、せっせと昼夜をとわず電力を食って地球温暖化に貢献している。

日本中の自動販売機をすべて原発からの電力で稼働させるとすると、原発1.5基がいるらしい。

わかりやすいように原発単位で示しているが、消費されたエネルギー(この場合電力)は大雑把に云えばすべて地球温暖化を促進する炭酸ガスとなる。

エコを唱える人たちおよび環境学者の多くは自販機には好意的ではない。エネルギーの無駄な消費機器の代表格だというわけだ。ただしこの人たちも時には自販機を利用する。

 

 さて、問題の自販機にもどる。


自販機は蔓延しているから、“省エネ大賞受賞”、“エコプロダクツ大賞受賞”の自販機は結構なことで、それを宣伝するのは大いに結構だ。

しかし、白熊さんの云っていることは、どう考えても“地球温暖化”という真摯なキーワードに対するパロディーとしか私には思えない。


白熊さんが「温暖化が進むと、氷がとけちゃうよ!だから自販機やめて!」と云っているのなら話はわかるのだが。

 

 

 


“単位”と“数値”はどちらも大事 

2016年11月06日 | 雑感

 

                               

時間、長さ、重さなどの数値にはあとにつける単位が必要だ。たとえば“3歩いた”といっても何のことかわからない。3キロなのか、3分なのか、あるいは3時間歩いたのか。

そして、それらの単位が表す数値そのものも大事だ。

圧力を例にとって、まず単位の話をする。

圧力単位は“気圧”が古典的には一番簡単だ。平地に住む我々は、だいたい上空の空気の重さで1気圧という大気圧の中で生活している。エベレストなどの高地では空気が薄いから当然1気圧より低い。

1気圧の圧力は水銀を760ミリメートル押し上げることができる。だから1気圧は760mmHg(ミリメートル水銀柱)とも表示される。Hgは水銀を示す記号だ。

その後パスカルという単位が正式表現になったが、“気圧”も“mmHg”もわかりやすいからまだ使われている。

 

私の友人の一人、Mは理屈好きだ。わからないことがあればなんでもとことん調べる。

あるとき彼は眼の検診に行った。三十歳半ばと見える医者が眼圧を測って「あなたの眼圧は○○です」と言った。

 Mはすぐに「単位は何ですか?ミリメートル水銀柱ですか、それとも・・・」と聞いた。すると医者はオタオタとして「はー!!・・、いや、次までにしらべておきます」

 

Mは決して意地悪で聞いたわけではない。単なる彼の、正確でないと気がすまないという癖が出ただけだ。

 

多くの検査項目にはそれぞれの単位があるが、患者はそんなことに関心はない。正常値と比較して自分の数値がどうかということだけが問題だ。

次回の診察で、その医者は「やはりmmHgでした」と言った。

 Mは、「そうですか。その○○mmHgに大気圧(760 mmHg) を加えたのが私の眼圧ですね、でないと目玉がペシャンコになる」と言った。 当然のことながら、○○mmHgだけの眼圧なら760mmHgの大気圧中に置かれれば目の玉は押しつぶされる。

この時は少しはからかう気持ちもあったと彼は言った。

上の写真の目玉焼きは約760mmHgの大気圧に耐えている。

 

血圧の単位もmmHgだ。

  

次は数値についての話だ。

遠い昔の話である。

長い間、私の家内は近所の店で化粧品を買っていた。そこのおばさんの応対が好きだったからだ。

おばさんは決して強引に商品をすすめない。この一人で頑張っていたおばさんのお店に、娘さんが戻ってきた。娘さんは商売熱心で、いささか強引だ。

 

さて家内が使っていた化粧品の中に粉白粉(コナオシロイ・私でも古い表現と思うが)があった。

店のおばさんがすすめたそれは、その昔、自分の母親も使っていた見覚えのあるものだった。なつかしさもあって以来ずっと愛用していた。

 

ところがある日、娘さんは新製品を出してきて熱心にそれをすすめた。家内の手の甲につけ、「いいでしょう、肌にすーと馴染みますからね。それに値段も今まで買ってもらっていたのと変りませんしね」

勧められるまま家内はそれを買った。

家に帰ってから気がつくと、たしかに値段は今までと同じだ。しかし量が極端に少ない、つまり重さが数分の一だった。ということは値段が数倍高いということになる。比較の基準となる重量が全く違っていた。

なにか釈然としない家内は、おばさんには悪いがこのお店に行く気がしなくなった。 

 

スーパーなどでは「数値」×「単位」それに加えて「品質」を瞬時に判断して買い物をする。○○円と書いてあって、「おっ、安い」と思うと、“100g当たりという表示があって、あれは一瞬詐欺にかかったような気がする。

 


 味覚と視覚

2016年11月05日 | 雑感

 

                                 

 

写真は、我が家にある二つの茶碗だ。

右側は母親の実家にころがっていたお薄茶碗で、箱書きも銘も何にもない。他にもお薄茶碗はあるが、わたしはこれが一番好きだ。

 

しっとりとした手触り、すわり具合、形。

この茶器で飲むとき、おうすの黄緑の泡と茶碗の黒さの調和にほれぼれする。

私の美的感覚がすぐれているならこれはすごい逸品、利休の作だと言って家内に笑われている。

 

さて、左側の湯飲み。

私たちは以前毎年のように京都、五条坂の陶器市にかよった。

新進気鋭の陶芸家が自分の作品を出している。

 

あるときこの湯飲みが目についた。ずいぶん昔のはなしだ。

 

この湯飲み、先客が “お茶の色が・・・” と言っているのを、売り手が、“いや、それはこうすれば・・・” と湯飲みを傾けたりして対応していた。

しかし、私はその会話を気にせず、デザインと形が気に入って買い求めた。

 

先客は賢かった。

これは湯飲みだ。

黒い湯飲みに入ったお茶は、茶の色が消えてしまって味までわからなくしてしまう。まずい。

全く失敗だった。

味覚は視覚が大事、という基本的なことに、私はそのとき思い至らなかった。

 

料理の味も盛り付けの器によって感覚的に違ってくるが、これほどひどい例ははじめてだ。

日本酒とか焼酎の水割り用ならまだいいのだが、お茶用にと考えた、こちらが馬鹿だった。

 

 

 

 


 アメリカ大統領選 -“良くない”か“悪い”か、どちらかの選択肢 

2016年11月04日 | 雑感

 2016年11月4日

アメリカのデンバーにいるM子さんから久しぶりのメールが来た。

 

我々とM子さんとは30年来の友人だ。

 

デンバーでは毎年暖かい日がどんどん長くなって、日ざしが強いから今年はいまでも庭でパラソルの下で食事をしている、これから地球がどうなっていくか恐ろしい、というあとに、

 

「恐ろしいといえば米国の行く末もそうです。“良くない”と“悪い”の選択肢、、、。せめて“良くない”方になって欲しいものです」という文面が続いていた。

 

“良くない“か”悪い”か、のどちらかの選択肢という今回の大統領選。

思わず笑ってしまったが、深刻な問題だ。世界情勢にものすごく影響する。

あっちでもこっちでもろくなことがない。