エッセイ -日々雑感-

つれづれなるままにひくらしこころにうつりゆくよしなしことをそこはかとなくかきつくればあやしゅうこそものぐるほしけれ

 “モンパルナスの灯”

2016年10月14日 | 雑感

2016年10月14日

 

数日前、Tのグループ展を見に行った。Tは油絵を始めて14年ほどだが、センスがいい方だし、このごろかなり上達している。

 

 絵を見ているうちに、ちょっと前にTとYとで、ある絵画展に行ったときのことを思い出した。両方とも高校時代の友達だ。

 絵を見てあと喫茶店に行った。歩いている途中に画廊があり、小倉遊亀という表示が出ていた。Tがふいと入っていったので、私ら二人もついていった。

 小倉遊亀の菖蒲の絵、Yが「これ高いんでしょうね、1000万?」と聞くと、店にいたお兄さんが750万という。

 T、「素人はすぐ値段に換算する」と笑うが、私も“なんでも鑑定団”を面白がって見ているから、どちらかと言えば“これ、なんぼ(いくら)?”側の人間だ。

 「これは?」とYはまた別の絵を指す。「750万です」とお兄さん。

 どうも絵の値段はわからない。

 

喫茶店に入って、しばらくしてまた絵の話にもどる。

 “ゴッホ、ゴーギャン、モネといっても、あれだけの値段がつけられてるのはどうもわからん。

“結局好きやったらいいのやないか?

“まあ、あそこまでいけば、文化遺産的価値なんやろ“ 、などなど。

 

Yが、“さっきの展覧会の中で欲しい絵があったが、どういって頼めばいいのかね・・・・、相手は専門家やないから売るつもりはないやろ、失礼ですが額縁代だけでも払いますから、と言ったらええのやろか?”というと、

Tが笑って、「お前、額縁代ということは、画の値打ちはゼロということや、お前やったら怒るやろ」

                           

私はTの絵を気に入っているから、特別に描いてもらった。我々高校時代の山岳部の仲間が何度も植樹に失敗したあげくやっと育ったたった一本の桜が満開となっている。その向こうの山小屋のベンチに私が座っている構図だ。

この絵のお礼として、私は額縁代にも満たない程度のお菓子をTに送った。

 

さて、喫茶店での話はモジリアニに移った。なぜかYが「モジリアニは女性だ」と云う、女性の画が多いから勘違いしたのだろうか。

 

 そこで、私は昔見たモジリアニの映画の話をした。

結核になり、酒におぼれ、薬物におぼれ、そして酒場をまわって酔客に似顔絵を描いてなにがしかの金を得ようとするが、だれも相手にしない。

それをモジリアニの絵の値打ちをわかっている画商がじっと見ている。

 画商はモジリアニをつけまわし、彼が死ぬのを見届けてから奥さんのところに行って、すべての作品を買いとると云う。

 奥さんは、“あの人が喜ぶ”と狂喜するが、その時にはもうモジリアニはいない。

 

映画の最後は圧巻だった。酒場をさまようモジリアニ、瀕死の状態のモジリアニをハイエナの眼で見つめる画商、そして画商とモジリアニの奥さんとのやりとり。

 

 私が、その映画を見たのは何十年も前だった。1958年・ジャック・ベッケル監督作の「モンパルナスの灯」という映画だ。

 モジリアニの奥さんの名前はジャンヌ。

ジャンヌはモジリアニの死の二日後にアパートから身を投げて死んだ。

 この映画は史実に基づくものではないらしいが、ジャンヌが身を投げたのは実際モジリアニの死んだ二日後だ。

 

               

 

私はモジリアニの“青い眼の女”が好きだ。

あの青い眼はいったいなにを見ているのだろう。