よみかけだった「幸福論」をとりあえず最後まで読んだ。蝉の声につられて少し眠って、その後、もう一度問題のblogを開いて、昨夜は気付かなかった他の人とのコメントのやりとりを見てさらに頭がこんぐらがった。
そしていま、この白い入力欄を前にして、フリーズしかかったPCで、慣れないアキュポイントによる操作を余儀なくされた状態で、いったい何が書けるのかというかんじだが、とにもかくにも今書けるだけのものを書いてみよう。
最近すごく引力を感じているblog『嘘の吐き方』で、「欲望が嫌いなんだよ」と「囁くゴーストに言葉なんか要らないんだよ」と「魔法の言葉を探そうよ」の3つの記事(特に3つめの記事)に、なぜかかなり触発を受けて、いろいろ思いが浮かぶのに言葉にならないという状況になった。
ひとつめの記事「欲望が嫌いなんだよ」は、私も自分自身の欲を嫌う気持ちを強く感じるときがあるのでタイトルに惹かれた。本文も、特に救いはなく、最後は『何も要らないよ』で終わってしまっている。
たしかに、何も要らない。
「どうするの」とか「どうしたいの」とか「何が欲しいの」という質問自体が意地悪に思えるときがある。まあ実際はこの記事を読んだ直後に、アイスココアをひと口飲んだけども。
ふたつめの記事では、―世界よ、飽きないのか?―のひとことにやられた。
最近モヤモヤとぶり返してきたこの気分を端的に表してくれたかんじだった。
―人間が居て世界が見えて それだけで恐ろしくなる人は 一体どうしたらいい―
この部分も。
この記事で死という言葉が書かれているために、生を肯定する人が励ましや説教をしていて、そのやりとりについても考えさせられるところはあるが、それを今書くのはやめておこうかと思う。次に行けない。
今すぐに書けるのは、blog筆者(はにゃさん)がコメントレスで「不可解なコメントが多い たぶん(コメント、理解、リアクションの)限界なんだろうな」と推測してたことについて、ホント限界だよと思ったことぐらいだ。
みっつめの記事は、ものすごく凹んでいたときに読んで、その呼びかけ形式の、ちょっとだけ光りが見えるような文体に少しほっとした。
タイトルの「魔法の言葉を探そうよ」の魔法という言葉はどうもピンとこないかんじだが、本文の大部分が共感しっぱなしで、とくに
―諦めたくは無い あきらめたくはないんだよ―
のところが好きだ。
―ただありとあらゆる虚像が目の前を通りすぎて だったらここで立ってる意味はなんなんだと―
ここの言葉にも触発を受けて、いろいろ思いめぐらせたのだが自分の言葉にならない。
ヘッセの幸福論をたまたま開いて、どうも希求しているものが重なるような感じを受けた。この短編は、前半が随筆で後半が小説なのだが、以下のような内容で書き出される。
―人間が生活の苦難や危険のただ中にあっても、芸術や自然の美しさや世界の全体としての姿を感じとることができるかぎり、自分というものにまつわる疑問を繰返し処理して、自分の存在に繰返し意味を認めることができるだろう。「意味」こそ多様なものの統一であるから―
実はその瞬間よりもだいぶ時間が経過してしまって、今となってはこの2つの文のどの点が重なるように思えたのか、自分に説明することすらできなくなってしまっているのだが、推理してみると3つめの記事単品でというよりは、このblog『嘘の吐き方』に繰返し書かれていた命題と、この文との重なりをみたのだと思う。
いや、もっと厳密に言うならば、私が『嘘の吐き方』を通して自分を見つづけてきたなかで、自然に欲し、自然に意識を強めるようになったテーマと同じことについて書いてあるように思えたのだ。
今プレビューを見て、あまりの字の量に呆れてしまった。もうこれ以上は書けそうにない。書き足りないけども、一旦切り上げる。
そしていま、この白い入力欄を前にして、フリーズしかかったPCで、慣れないアキュポイントによる操作を余儀なくされた状態で、いったい何が書けるのかというかんじだが、とにもかくにも今書けるだけのものを書いてみよう。
最近すごく引力を感じているblog『嘘の吐き方』で、「欲望が嫌いなんだよ」と「囁くゴーストに言葉なんか要らないんだよ」と「魔法の言葉を探そうよ」の3つの記事(特に3つめの記事)に、なぜかかなり触発を受けて、いろいろ思いが浮かぶのに言葉にならないという状況になった。
ひとつめの記事「欲望が嫌いなんだよ」は、私も自分自身の欲を嫌う気持ちを強く感じるときがあるのでタイトルに惹かれた。本文も、特に救いはなく、最後は『何も要らないよ』で終わってしまっている。
たしかに、何も要らない。
「どうするの」とか「どうしたいの」とか「何が欲しいの」という質問自体が意地悪に思えるときがある。まあ実際はこの記事を読んだ直後に、アイスココアをひと口飲んだけども。
ふたつめの記事では、―世界よ、飽きないのか?―のひとことにやられた。
最近モヤモヤとぶり返してきたこの気分を端的に表してくれたかんじだった。
―人間が居て世界が見えて それだけで恐ろしくなる人は 一体どうしたらいい―
この部分も。
この記事で死という言葉が書かれているために、生を肯定する人が励ましや説教をしていて、そのやりとりについても考えさせられるところはあるが、それを今書くのはやめておこうかと思う。次に行けない。
今すぐに書けるのは、blog筆者(はにゃさん)がコメントレスで「不可解なコメントが多い たぶん(コメント、理解、リアクションの)限界なんだろうな」と推測してたことについて、ホント限界だよと思ったことぐらいだ。
みっつめの記事は、ものすごく凹んでいたときに読んで、その呼びかけ形式の、ちょっとだけ光りが見えるような文体に少しほっとした。
タイトルの「魔法の言葉を探そうよ」の魔法という言葉はどうもピンとこないかんじだが、本文の大部分が共感しっぱなしで、とくに
―諦めたくは無い あきらめたくはないんだよ―
のところが好きだ。
―ただありとあらゆる虚像が目の前を通りすぎて だったらここで立ってる意味はなんなんだと―
ここの言葉にも触発を受けて、いろいろ思いめぐらせたのだが自分の言葉にならない。
ヘッセの幸福論をたまたま開いて、どうも希求しているものが重なるような感じを受けた。この短編は、前半が随筆で後半が小説なのだが、以下のような内容で書き出される。
―人間が生活の苦難や危険のただ中にあっても、芸術や自然の美しさや世界の全体としての姿を感じとることができるかぎり、自分というものにまつわる疑問を繰返し処理して、自分の存在に繰返し意味を認めることができるだろう。「意味」こそ多様なものの統一であるから―
実はその瞬間よりもだいぶ時間が経過してしまって、今となってはこの2つの文のどの点が重なるように思えたのか、自分に説明することすらできなくなってしまっているのだが、推理してみると3つめの記事単品でというよりは、このblog『嘘の吐き方』に繰返し書かれていた命題と、この文との重なりをみたのだと思う。
いや、もっと厳密に言うならば、私が『嘘の吐き方』を通して自分を見つづけてきたなかで、自然に欲し、自然に意識を強めるようになったテーマと同じことについて書いてあるように思えたのだ。
今プレビューを見て、あまりの字の量に呆れてしまった。もうこれ以上は書けそうにない。書き足りないけども、一旦切り上げる。