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遅生の故玩館ブログ

中山道56番美江寺宿の古民家ミュージアム・故玩館(無料)です。徒然なる日々を、骨董、能楽、有機農業で語ります。

三輪田米山の書3.『萬事不如杯在手』

2024年05月11日 | 文人書画

今回の書は、やはり楷書的草書ですが、文字数が多いです。

 

『萬事不如杯在手百年幾見月當空』 全体 : 53.2㎝ x192.5㎝、本紙(紙本):40.5㎝ x 108.9㎝。明治。

 

『萬事不如杯在手
 百年幾見月當空』

萬事如かず、杯の手に在るに。
百年幾たびぞ見る、月の空に当たるを。

どんな事だってかなわない、杯がこの手の中にあることに。
百年のうち何度だろう、月が空に光輝くこんな夜は。

『萬事不如杯在手・・・』は、明の『三岡識畧』卷一「福王淫昏」に載っている句です。オリジナルは、『萬事不如杯在手百年幾見月當頭』です。それを、『萬事不如杯在手百年幾見月當空』としたのは、米山の創意でしょうか。それとも、記憶違い?私は、「頭」より「空」の方が雄大で、この詩には合っていると思います。

 この句が載っている『三岡識畧』は、日本人にはあまりなじみのない本でした。米山が、当時、大家の詩書や警句ではなく、このようなマイナー資料まで目を通していたとは驚きです。

『萬事不如杯在手、百年幾見月當空』は手放しの酒飲賛歌です。酒豪の三輪田米山が書くとなおさらリアリティがましますね(^.^)

 


三輪田米山の書2.『文章可立身』

2024年05月09日 | 文人書画

先回に引き続き、三輪田米山の書です。

草書『文章可立身』:全体:53.7㎝x176.3㎝、本紙(紙本):40.4㎝x105.2㎝。明治。

三輪田米山は、楷書、行書、草書、いずれの書体の書も多く残しています。そして、草書を楷書のように書くのが、米山の書の特徴の一つです。

また、落款はほとんど「米山書」ですが、

その書体は、本文の書体と対応しています。

各文字を拡大してみると、

カスレや墨の濃淡がよくわかり、力の入れ方やスピードなど筆の運びを読み取ることができます。

文章可立身

文章身を立てるべし。

文章によって身を立てることができる。

「文章可立身」は、中国の古い童蒙書『神童詩』に出てくる言葉です。本来の語句は、

「少小須勤学,文章可立身。」
   少小すべからく学に勤しめば、文章身を立てるべし。

幼少から勉学にはげめば、文章によって身をたてることができる。

このように、『神童詩』は、児童に勉学・出世を説く啓蒙書です。北宋の汪洙が原型を作ったとされ、中国では幅広く流布しました。しかしその内容は、読書や立身出世を説く通俗的なものであり、荘子や老子の教えや文人の漢詩を尊んだ日本の知識人が一瞥をくれるものではなかったのです。

三輪田米山は、和漢の典籍を広く学んだと言われています。『神童詩』のような児童向けの物にまで目を通していたわけですから、彼の漢学知識は幕末知識人の枠を越えたものであったことがうかがえます。


三輪田米山の書1.『思無邪』(再掲)

2024年05月07日 | 文人書画

先回のブログで、軍人、仙波太郎の書を紹介しました。彼の書の師が、同郷の書家、三輪田米山です。

しばらく、孤高の書家、三輪田米山の書を紹介していきます。

今回の書『思無邪』は、すでに「コロナに負けるな」シリーズで紹介しましたが、この書は、私の米山コレクションの最初の品であると同時に、米山を考える上でも良い品なので、再掲します。

全体:51.6㎝ X 166.5㎝、本紙(紙本):38.7㎝x94.0㎝。明治。


【三輪田米山】みわたべいざん、文政四(1821)年ー明治四一(1908)年。伊予(現、松山市)生れ。名は常貞。伊予、日尾八幡神社神官。王羲之の書を独学で学び、何ものにもとらわれない独自の書法を確立した。豪放無欲な性格で稀代の酒豪、奇行でも知られる。弟、三輪田高房は、儒者、藩校教授、神官、下の弟、三輪田元網は国学者、妻三輪田眞佐子は三輪田女学校創設者。

 

 

三輪田米山(文政4( 1821)年-明治41(1902)年)は、伊予国久米(現、松山市)の人です。幕末~明治期、神官をつとめながら、独力で研鑽を重ね、雄渾の書を完成させました。米山の前に米山なし、米山の後に米山なし、といわれるほど個性的な書を多く残しています。稀代の大酒のみで、1升、2升と呑みすすみ、酔い倒れる寸前に筆をとった書が最高のものと言われています。そのほとんどは、地元の人々に請われてしたためたものです。ですから、この地方の家々には、米山の書が大切に残されています。ちなみに、お礼は、飲んだ酒(^.^)

三輪田米山の書は、一部の人々の間では、極めて高く評価されていましたが、2008年、NHK日曜美術館で紹介され、一般に広く知られるようになりました。

近代書の先駆者と言ってよいでしょう。

 

さて、書軸『思無邪』です。

『思無邪』は、島津斉彬の座右の銘としても知られ、斉彬をはじめ多くの人が書を残しています。

米山も、この語が気に入っていたらしく、いくつか揮毫しています(書体はすべて異なる)。本作品もその一つです。

『思無邪』は、孔子の論語・為政篇にある一文、「子曰、詩三百、一言以蔽之、曰、思無邪」の一部です。

「子曰わく、詩三百、一言以て之を蔽(さだ)む、曰わく、思い邪(よこしま)なし」

『思無邪』の文字通りの読みは、「しむじゃ」ですが、普通は、「おもい(思)よこしま(邪)なし(無)」と読みます。

偽りや飾るところがない、純粋な心をあらわしている言葉です。

昨今、政治家の無能無策は目を覆うばかり。何より問題なのは、彼らの言葉が私たちに届かないのです。

彼らが『思有邪』の人間だと、誰でも知っているからでしょう。

重なる不祥事は、彼らのこころの有り様をあぶり出しているのです。

今、コロナやAIは、経済社会などの現象を飛び越えて、人間の内面に向かって問題を投げかけているような気がします。

困難な時代を生きることができるかどうか。私たちの『思無邪』が試されているのではないでしょうか。


仙波太郎『天行己過来萬福』

2024年05月05日 | 文人書画

軍人、仙波太郎の書です。

全体:46.4㎝ X 196.5㎝、本紙(紙本):34.7㎝ X 131.8㎝。戦前。

【仙波太郎】(せんばたろう、安政二(1855)年ー昭和四(1929)年)伊予(現、松山市)生れ。没落した庄屋の出身で、苦学して陸軍士官学校、大学校を卒業し、職業軍人となる。同郷の秋山好古と同期。陸軍中将。桂太郎・宇都宮太郎とともに陸軍の三太郎と称された。衆議院議員。

中国の南宋時代の政治家、詩人、范成大(1126-1193)の「臘月村田楽府十首」の一節です。

『天行己過来萬福』

天行已(すで)に過ぎ、万福来る。

天の運行が順調に進んでいて、あらゆる福がやってくる。

太陽、月、星など天体は、太古から現在に至るまで,絶え間なく,整然と正しくめぐりつづけている。人間も、このように、絶えることなく、自ら努め、励んで、健やかで確実な歩みを続けることが肝要だ。

仙波太郎の名を知っている人は多くないと思います。同郷の秋山好古とは友人で司馬遼太郎の小説『坂の上の雲』にも登場します。質実剛健の軍人ながら、幅広い見識をそなえた人物であったようです。退役後は、岐阜市に住み、社会活動に貢献しました。書は、子供の頃から郷土の鬼才、三輪田米山に学んだだけあって、玄人はだしです。今回の「天行己過来萬福」は、自分に言い聞かせていたフレーズかも知れませんね。

ちなみに、私の妻の実家と彼の出身家は、すぐ近くです。地元の家々では仙波太郎の書が大切にされ、人々からは、今も、仙波太郎さんとよばれ尊敬されています。

 

 

 


山澤道人『道歌「身のせまる」』

2024年05月03日 | 文人書画

道歌の掛軸です。

道歌は、道徳的な教えをうたった和歌です。

全体:47.6㎝x109.2㎝、本紙(紙本):44.8㎝x27.8㎝。天保十一年。

山澤道人

身のせまる
 鐘とも
  しらす(ず)
   入逢に
おなし(じ)事して
 日をくらし
     けり

ササっと髑髏が描かれています。

 

古来より、入相の鐘は歌に詠まれてきました。新古今和歌集には、いくつかの歌があります。

西行
またれつる入相の鐘の音すなりあすもやあらばきかんとすらん
                       
春の夕暮れに響くもの悲しい鐘の音が、日本人の無常観に合うからでしょう。


能『道成寺』では、シテが最初に次の曲を謡い、邪鬼となって、女の哀しさと人の世の無常をうったえます。 

                  
能因
山里の春の夕暮きてみれば入相の鐘に花ぞ散りける

    
今回の道歌は、寂然の歌を意識してつくられたものと思われます。

けふ過ぎぬ命もしかとおどろかす入相の鐘の声ぞ悲しき

 

作者の山澤道人については、不祥です。

この掛軸は、美濃の大乗寺にあったものです。

大乗寺は二つあって、どちらかはわかりません。

人々は、お寺でこの道歌に接し、一日の有難さを噛みしめ、心して生きねばなりない、と自省したのでしょうか。