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遅生の故玩館ブログ

中山道56番美江寺宿の古民家ミュージアム・故玩館(無料)です。徒然なる日々を、骨董、能楽、有機農業で語ります。

埋木細工菓子皿

2019年12月09日 | 漆器・木製品

埋木細工の菓子皿、5枚です。

仙台埋木細工です。仙台の骨董屋で入手しました。

戦前の品だと思います。

    10.6cm  x 10.2cm x 0.9cm

 

拭き漆処理がなされています。

 

埋木としては若い方で、圧縮炭化があまりすすんでいません。

手取りも、少し堅めの木とそう変わりません。

 

有名な景勝地、松島が彫られています。

よく似た図柄ですが、5枚とも、微妙に異なっています。

 

仙台埋木細工は、文政5(1822)年、仙台藩の下級武士、山下周吉が青葉山で埋もれ木を見つけ持ち帰って、細工物を作ったのが始まりといわれ、下級武士の内職として作られました。そして、明治になると、仙台、松島の名産物として全国的に有名となり、多数の埋木細工が生産されました。

なお、仙台埋木細工は、広瀬川流域の山中の亜炭層からの埋木(山の埋木)を用いています。流木などが長年土中に埋もれて名木となった名取川埋木(川の埋木)とは異なるそうです。古くから和歌に詠まれてきた埋木は、もちろん、名取川の埋木です。

今回の品は、旅先で立ち寄った骨董屋で求めたものです(2枚割れ直し)。値段も手頃(他の品は高価すぎて手が出なかった(^^;)。

たくさん生産された品ですから、まだまだ入手できます。

来客時、埋木皿にのせたお菓子をさりげなく出せば、「ほー」感心されることまちがいなし(^.^)

 

【参考】みちのく伊達の香り へ ようこそ(伊達の香りを楽しむ会) 

  松浦丹次郎「阿武隈川の埋もれ木」「埋もれ木に花が咲く」(土龍舎)

 


古い埋木菓子鉢

2019年12月07日 | 漆器・木製品

先日のブログで、能『頼政』を紹介しました。クライマックスは、平家打倒の旗をあげるも、敗退した源頼政が、辞世の句を残し、自刃する場面です。

平等院の庭で、鎧を脱ぎ、扇を敷いてその上に座し、刀を抜いて果てる。平家物語がどの程度史実を伝えているかはわかりませんが、介錯人もいたといわれていますから、おそらく、切腹でしょう。武士道の代名詞のように言われる切腹の、最も初期のものであるのかも知れません。しかも、77歳という高齢。

埋木(むもれぎ)の 花咲く事もなかりしに 身のなる果は あはれなりけり

 埋れ木の花が咲くことがないように、我が身がこのように終わりを迎えるとは、まことに哀れだ・・・・・・自分の人生を埋木にたとえて、最期をむかえたのです。
 
 
埋木は、樹木が土中に長期間埋もれてできた物です。そのうちの質の良い物は、珍重され、様々な品に加工されました。また、世間に埋もれた自分を埋木になぞらえて、古来より、多くの和歌にうたわれてきました。

 

江戸時代の埋木菓子鉢です。

 

   「奥州名取川名木 御菓子鉢」とあります。

 

 

共箱です。江戸時代の埋木細工は、非常に珍しい。

 

           25.0cm x 14.5cm x 0.7cm

表は、丸く彫り込んで、菓子鉢(皿)に仕立てています。

 

裏側は、ざっと削ってあります。

 

木目が出ています。

 

節も生かされています。

 

埋木とは、樹木が、地殻変動や火山活動、水中の堆積作用などが原因で土中に埋もれ、長い間に変化した物です。水分が多い場所では、腐敗や風化が進みにくく、圧力や熱で圧縮変化し、炭化がある程度すすんだ物になるのです。土中の鉄分が浸透して黒褐色をおび、細工物に用いられます。神代杉も一種の埋木です。

 

名取川流域では、古くから良質の埋木がとれ、埋木と名取川がセットで、和歌に詠まれてきました。

詠み人しらず「名取川 せせの埋もれ木あらはれは いかにせむとか 逢見そめけむ」古今集 

藤原定家「名取川 春の日数は顕れて 花にぞ沈む 瀬瀬の埋もれ木」続後撰集

寂蓮法師 「ありとても 逢はぬためしの名取川 朽ちだに果てぬ 瀬々の埋木」新古今和歌集


 埋木はまた、「世間から捨てられて顧みるものもなくなった境遇の者。たよる所のない身」を象徴するものとして、和歌にも好んで取り入れられました。

冒頭の、源頼政の辞世の句は、そのうちで最も有名なものです。


他によく知られているのは、井伊直弼の埋木舎です。直弼は、十四男。彦根藩の藩主になれる身ではありません。そこで彼は、自ら埋木舎(うもれぎのや)と名付けた居所(現存)で、能、茶道、和歌など趣味に没頭し、出世や競争とは無縁の日々を過ごしました。茶道は本を出版するほどに極め、小鼓も相当の腕だったようです。

世の中を よそに見つつもうもれ木の 埋もれておらむ 心なき身は

しかし、皮肉にも上の兄たちが次々と死去したりして、直弼に藩主の座が回ってきたのです。その後、老中となり、安政の大獄をへて、桜田門外の変で命を落とします。この悲劇は、思うようにならない埋もれ木の身ながらも、「埋もれておらむ 心なき身は」(埋れ木も、うもれたままではいないぞ)と詠んで、捲土重来を期していた直弼の屈折した心情の中に潜んでいたのかもしれません。

井伊直弼は、本来、政治には向いていない人だったのでしょう。もし、埋木舎でそのまま一生を過ごしていれば、江戸後期の傑出した文化人として名を残したに違いないと思うのです。

直弼には、埋木が良く似合う。





 


初期伊万里、それとも藍九谷? 三山風景中皿

2019年12月05日 | 古陶磁ー全般

初期伊万里の中皿です。非常に味わい深い品です。

以前のブログで紹介した漁村風景中皿とよく似ています。

ズッシリと手取りが重く、甘手でジカンが縦横に走っています。

        径 21.2㎝、高 2.7㎝

 

       高台 径 10.0cm


中央が厚く、端は急に薄くなっています。

生がけ焼成で、初期伊万里に定番の降りものと陶工の指跡がみられます。さらに、窯の天井から滴れた雫によってできたと思われる丸い疵跡もみられます。

高台は低く削り出されていて、以前紹介した初期伊万里草花虫紋中皿に似ています。高台の内側には、わずかに砂が付着しています。

また、非常に鉄分の多い陶土が使われています。李朝の宝城手かと思えるほどの風合いです。

 

 

味わいのある山水絵付けですが、これは李朝の焼き物に多く見られる「三山風景」といわれるものではないでしょうか。

 

       料治熊太他『日本の絵皿』(昭和48年)

料治熊太氏によれば、三山風景とは、道馬里窯から漢江、北漢山を望んだ光景のことです。伊万里焼は、秀吉の朝鮮出兵時に、日本へ連れてこられた陶工たちによって始められたわけですから、伊万里焼の初期絵付けに、彼の地の風景が描かれても不思議ではありません(骨董屋は、美保の松原と富士山だと言いますが、それはないでしょう)。この風景が、次第に和様化され、その後の陶磁器絵付けの定番、山水図になったとも言われています。

また、料治熊太氏は2匹の鮎が激流を遡る中皿を紹介しています。ジカンの入り具合なども含め、今回の品とよく似ています。そして、別の著書の中で、このような品が、初期伊万里から藍九谷へと移行する時期の皿だと述べています(本を探したのですが、見あたりません(^^;)。今時こんな分類は流行らないのですが、世間から遅れて生きている遅生には、こちらの方がピンとくるのです。

 

先に紹介した漁村風景中皿と同じく、今回の品で面白いのは、裏側のジカンです。

炎と土の芸術とは、このようなものではないでしょうか。

 

 

 

 

 

陶工の指跡もアートの一部?!

 

むらむらとした釉薬の下に、クッキリとした線で黒点を結んだ模様が浮かび上がり、古地図を見るような趣。

 

 


おもてなしの木皿で四字熟語

2019年12月03日 | 漆器・木製品

故玩館へ来ていただいた人には、せっかくですから、手持ちの器で一服をしていただいてます。

まずは、和菓子とお茶でおもてなし。

 

そして、1階、2階と展示品を見ていくうちに ・・・・・・・ 疲れがたまってきます。

なぜなら、あまりにも多くの物、もの、モノ。しかも、脈絡なくあれも、これも。

だんだん、ゴチャゴチャしてきて、頭グラグラ。

リフレッシュしないともちません(^^;)

 

そこで、今日は、木の器で珈琲タイム。

 

のみ終わって・・・

右の小皿に一言・・・・・・「かわいいわね」

 

 

                   径 9.1㎝

 

「よかったらどうぞ」ということで、

1枚、2枚、・・・・

20枚ほどあった木皿は、9枚になってしまいました。

 

書かれているのは、4種の文字、

雪、月、風、夢

 

この4文字は、4字熟語なのでしょうか?

雪月風夢、雪風夢月、風月雪夢 ・・・・・・・


どれも、ありそうで、ありません(^^;)