遅生の故玩館ブログ

中山道56番美江寺宿の古民家ミュージアム・故玩館(無料)です。徒然なる日々を、骨董、能楽、有機農業で語ります。

復元された高札場、中山道垂井宿

2019年09月11日 | 高札

 

中山道57番宿場、垂井宿に、高札場が復元されました。

設置場所は、宿場の中央、本龍寺境内です。

 

9月8日(日)に披露の催しがありました。

私も、復元に際して、少しお手伝いをした関係で、当日の催しに参加しました。

江戸時代、中山道に直面した場所(写真の植え込みあたり)にあったのですが、交通の関係で数メートル内側になりました。

  

 高さはほぼ同じ、横幅は2分の一強に縮小しています。

 

どんな高札を掲げるか議論がありましたが、結局、江戸時代を通じて、ずっと掲げられていた正徳の大高札になりました。

切支丹札、忠孝札、火付札、毒薬札、駄賃札の5枚です。

 

 定番の切支丹札。徳川幕府が、最も重要視した高札で、どの高札場でも、他の札に先んじて上位の位置に掲げられました。

 

 当日は、復元記念式典ということで、普段、閑散とした境内もにぎわっています。

 

 台風の影響で、季節外れの猛暑の中、熱心な人々が集まりました。

この日は、本来は、垂井宿場祭りで多数のイベントが行われる予定でしたが、台風の可能性があったので、早々と中止になりました。

また、当日は、共催イベントとして、本堂脇の時雨庵が無料開放され、芭蕉や美濃派俳人ゆかりの品なども展示されていました。

 

 

この高札場復元に尽力したのは、地元の団体、垂井宿の歴史と文化を守る会です。

私も、2年前、縁があって、垂井宿で、故玩館所有の高札を中心に、『江戸・明治の高札展』を1か月間行いました。

この展示が一つの契機となり、垂井宿に高札場を復元しようという機運が盛り上がったのです。


垂井には、歴史的名所が数多くあります。壬申の乱、美濃国府、南宮大社、軍師竹中半兵衛、関ケ原合戦、芭蕉などにまつわる名所旧跡です。

東海道線垂井駅前の観光案内所には、ボランティアが常駐しています。

 

しかし、中山道の宿場にちなんだものとしては、江戸時代から山車の上で子供浄瑠璃が演じられる曳山祭りなどの外、目ぼしいものがありませんでした。

 

垂井は、伊吹山系、養老山系のすそ野にあたり、古くから湧水が多いことで知られています。

現在も、7か所ほどの泉から水が湧いています。

https://blog.goo.ne.jp/chisei/e/a54ec85d1d45490370968895b7ca4e1e

そこで、この水の街の特色を生かした町おこしができないか、と考えられるようになりました。


中山道でも規模の大きな宿場町垂井は、家が立て込み、火事が多く発生しました。

火災時、豊富な水を生かした事柄が二つ伝わっています。

1)中山道脇を流れる水路の水を使って防火に役立てた。

この言い伝えに対しては、街道沿いの家の軒下にフックが残っていて、火事の時に流れに浸したムシロを実際に吊るして、類焼を防いだことが今でもわかります。

 

もう一つの言い伝え、

2)火事の時には、急いで高札場から高札をはずし、南にある池に高札板を浸した。

 この言い伝えに対しては、それを実証するものがこれまで見つかっていませんでした。

そこで、私は、もしやと思い、垂井宿に残されていた巨大な町絵図を詳細に調べてみました。

横7m、縦3mにもおよぶ巨大地図を調べるのは、まったくの体力仕事です。

でも、苦労は報われました。あるではありませんか、「御高札用心通」の文字が!高札場の向かいの細い路地に!

これで決まりです。確かに、火事の時、高札場から高札をはずし、向かいの細い路地(御高札用心通)を走り抜けて、高札を池(当時は、泉(清水))に浸したのです。

 

https://blog.goo.ne.jp/chisei/e/a90a8ceddcfa5db972caf8308244b5e5

 

火事の現場を、をシミュレーションレーションしてみましょう。

 

火事だっ!?

大急ぎで、燃え盛る高札場から、高札をはずします。 

 

向かいの細い路地(御高札用心通)に突入します。

   小林家住宅(重文)横の御高札用心通の入口

 

 高札を抱えて、この通りを走り抜けます。

      御高札用心通(ほぼ当時のまま)

 

 突きあたりの藪の下、池の水に高札板を浸します。

今も残る 高札用心池。50mほど上の大きな泉(西の泉)から水は流れて来ます。

 

 火事で焼け残った高札(明和の徒党禁止令、本来の所在地は不明)

 https://blog.goo.ne.jp/chisei/e/c2cff34a564d075e50beaa455ed8823d

 

火事の時には、真っ先に高札場へ駆けつけ、高札をはずして、高札用心通りを駆け抜け、高札用心池に高札板を浸し、高札を守った。

垂井宿の言い伝えは本当だったのです。

高札場と火事、これは、どこでも深刻な問題でした。

しかし、火災時の高札のやりとりを物語る歴史的な細道や池が現存している場所は、日本中で、ここしかありません。

 

垂井町は、今後、高札場、御高札用心通、高札用心池の3点セットを目玉に、あらたな町おこしを行っていく予定です。

 

 

 なお、記念式典当日、私がまとめた小冊子を配布しました。

 

 

今年の夏は猛暑で、一歩も外に出られませんでした。そのおかげで、デスクワークがはかどり、ギリギリで当日に間に合いました。2年前の『江戸・明治の高札展』をベースに、今回発見した資料などをまじえて、高札の概要がわかるようにまとめたつもりです。

パンフレットに毛のはえたような、100頁ほどの小冊子ですが、高札についての成書はありそうでないので、多少の貢献はできるでしょう。一応、ISBNとってますから、本屋やAmazonで入手できます。


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6 コメント

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遅生さんへ (のびた)
2019-09-11 17:01:01
ただの町おこしと違って 埋もれ行く郷土の史実を次代に継承して行くことは大切なことですね
垂井の町 湧水の故郷と併せ 観光客も増えると良いですね
遅生さんの集められた資料が活きてきます
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のびたさんへ (遅生)
2019-09-11 18:30:27
垂井宿は、観光にもよい所です。最近は、中山道歩きで、クラブツーリズムなどの団体がよく通ります。
今後、垂井宿では、中山道ウォーキングの人たちが、高札場、御高札通、高札用心池に足をとめてくれると思います。
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遅生さんへ (Dr.K)
2019-09-11 20:26:00
遅生さんは、中山道の垂井宿に住んでいるんですか。
地域に根差した活動もされているんですね。
高札に関する100頁にもなる小冊子も発行されているんですか。
素晴らしいことですね。
これからの町おこしにも貢献することでしょう。

軍師竹中半兵衛は、私の好きな一人です(^-^;
垂井には、彼の名所旧跡があるんですか。
遅生さんは、そこに身近に接して住まわれているんですね!
羨ましい限りです。
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Dr.kさんへ (遅生)
2019-09-11 21:03:21
私は垂井宿の人間ではありません。垂井宿には、故玩館の兄貴分にあたる、中仙道ミニ博物館を開設しておられる郷土史家の方(非常に高齢)がいらっしゃって、そんな関係から、町興しのお手伝いを少ししています。
竹中半兵衛の居城は、少し山手、垂井町岩手にあります。また、いつか山城跡のレポートします(結構きついので、キャンセルの可能性も(>|<))。黒田官兵衛の子、松寿丸をかくまったという五明神社もあります。
大河ドラマ人気に乗っかって、これまで、半兵衛一本やりで観光ピーアールしてきたのですが、もうじり貧。そこで、何かないかと考えたところ、高札場に行き着いたというわけです(^^;)
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高札 (ことじ)
2019-09-11 22:10:56
研究の成果ですね。
出版もされておられるのですね。
地道な研究が地域おこしに繋がり素晴らしいですね。
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ことじさんへ (遅生)
2019-09-12 05:47:05
研究というほど、大げさなものではないです。
興味の糸をたぐっていくと、思わぬものに出くわしたり、おおそうだったのかと興奮したりして、自分で満足しているのです。
骨董とおなじです(^|^;)
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