遅生の故玩館ブログ

中山道56番美江寺宿の古民家ミュージアム・故玩館(無料)です。徒然なる日々を、骨董、能楽、有機農業で語ります。

「筑豊文庫」と「無名通信」

2021年12月02日 | 故玩館日記

 fc5551さんが、先日のブログで、「筑豊文庫」について書いておられました。それに触発されて、昔の記憶をたどってみます。

「筑豊文庫」は、ルポルタージュ作家、上野英信と妻、上野晴子さんが、筑豊の炭田地帯に住み着いて、様々な活動を展開した自宅の名称です。
上野英信は、青年期、広島で被爆します。その後、京都大学に入学するのですが、中途退学し、筑豊で炭鉱夫として働く傍ら、様々な運動を展開しました。その拠点となったのが、「筑豊文庫」です。代表作に、『地の底の笑い話(岩波新書)があります。

実は、50年前の夏、私はここをおとずれました。当時は、青春彷徨の真っ只中(先がない今もその延長?(^^;) 『無名通信』の集まりに参加したのです。
『無名通信』は、上野らとともに、筑豊での活動をつづけた森崎和江が1959年に創刊した雑誌です。「女性が1人の人間として自立する」ための交流誌が「無名通信」でした。その前年には、炭鉱労働者のための機関誌「サークル村」が、谷川雁、森崎和江、上野英信らによって創刊されています。石牟礼道子もサークル村で活躍した一人です。そして、詩人、谷川雁(民俗学者、谷川健一の弟)、パートナー、森崎和江、上野英信、上野晴子らは、筑豊の地で、新しい文化運動を起こし、やがて、三池闘争、大正闘争に深くかかわっていく事になります。

1970年夏、列車、船、バスを乗り継ぎ、たどり着いた筑豊には、ボタ山の間に、半ば廃墟と化した炭鉱長屋が続き、その中にポツンと取り残されたように、上野夫妻の拠点はありました。上野晴子さんによると、「筑豊文庫」は、運動をカモフラージュするためにつけられた名称だということでした。会社側に雇われた右翼や暴力団の襲撃から守るため、「文庫」は頑丈に補強されていました。激烈な闘争の時代あすでに終わり、炭鉱も廃坑になっていた当時、「筑豊文庫」は、北九州の文学、思想、社会運動の拠点として、いろいろな人が集まり、熱い議論を交わす梁山泊となっていたのです。
この日、上野英信は中南米へ取材で出かけて不在。現地の主要メンバーは、上野晴子、森崎和江、河野信子(女性史研究者、当時の「無名通信」の発行者)。今は伝説となった木の大テーブルを囲んで、夜を徹した議論は、運動の中の男と女へと収斂していきました。
上野英信に近いところにいる人たちの間で、彼は、天皇と呼ばれていたらしい。
社会の隅の弱い無名の人たちにやさしいまなざしを送っていた上野ですが、その意思をつらぬき、激烈な闘いを続けるには、天皇としてふるまうより外は無かったのでしょうか。
谷川雁も、土着の思想に立って、自立する一人一人の人間を基盤とする先進的な組織論を展開した優れた指導者でしたが、その理想を実現するためには、女性よりも組織を優先せざるをえませんでした。そして、谷川雁は筑豊を去りました。
戦争体験を経て、天皇から最も遠い世界をめざした二人だったのですが、その理想を追っていく中で、皮肉にも、自分の中に天皇をつくってしまったのです。それは、男のもっている限界、弱さの裏返しでもありました。
筑豊の女性たちは、それを感じ取り、女性が1人の人間として自立する事の意味を、野太い声で問い始めていたのです。
それから、50年。巷にジェンダーはあふれていますが、ひ弱な男性群と逞しさを増した女性たちとの間の溝は狭まったと言えるのでしょうか。

コメント (4)
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