先日、礼拝時に牧師を通して、神様が示してくださった聖書箇所に
私の全ての悪癖の源はこれだと、はっきり感じました。
前々から、牧師に言われていたし、判ってはいたのですが
頭だけでの理解で、養育期や青春時代期の痛み、心の傷からと思い
どうしようもないこと・・・と思っていたのです。
『律法(聖書)の全体は
「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ」
という一語をもって全うされるのです』(ガラテヤ5:14)
『あなた自身のように愛せよ」・・・は
私が自分を愛していないと、人は愛せないということに他ならない
自分の身を守るのは、本能的に理解できる、
自殺したくなっても出来ないのは、
主が与えてくださった命の尊さを感じているから。
だが頂いた命の中にあるのは
自分の性格、感情、環境、状況、容姿全て。
しかし、何故かそれが受け取れない。
自分を愛していない自分が私の中に渦巻いています。
今ずーっと考えています。
神様が作ってくださったわたしを好いてくださっているのに
(私の目には、あなたは高価で尊い。
わたしはあなたを愛している)(イザヤ書43:4)
その私を私が好きでない・・・という事実。
ここを、打破できれば私の全てがクリアーされるのです。
神様が一番私に合った環境、容姿を定め
わたしをこの世に置かれた・・・・
それらのことが何の意味もなくて
私は今現在ここに居るはずがないのですから。
そして、私が生まれる前から、主は一緒に居て下さり
辛かったその横にも居てくださった。
イエスキリストを我神と信じ、
主の十字架刑の意味を知り
三日目によみがえられ今も働いておられる主を信じながら
この世の肉の想いから離れられない自分。
主は、その流された血によってわたしを救ってくださり
祈れない私の代わりに祈ってくださり
私が背をむけても、決して私をつかんで離さないで居てくださる。
なんと愛深い神様なのでしょうか。
そうなんですよね。
愛とはそういうものなのですよね。
『人生の道はいつも主と共に歩かされている、
足跡はふたり・・・。
しかしわたしが辛いときだけ足跡はひとつになるのは
その時は主がわたしをおぶって歩いてくださっていた』
(詩、『足跡』より)
きっと私は私を愛せるようになり、好きになれます。
主はわたしを愛してくださって
「大好きだよ」って言って下さっているのですから・・・。
『自分を愛する』=今ある全てを感謝して受け取ること。