Fireside Chats

ファイアーサイド・チャット=焚き火を囲んだとりとめない会話のかたちで、広報やPRの問題を考えて見たいと思います。

既存メディアとインターネットとの融合

2005年03月12日 18時38分26秒 | 参加型ジャーナリズム
ホリエモンに対する批判のひとつとして、「既存メディアとインターネットとの融合」を標榜するにもかかわらず、その具体像が明らかではないという指摘がある。
しかし、これに対する明快な解答をひとりホリエモンに求めるのは酷ではあるまいか。

日本のテレビ草創期のことを振り返ってみよう。
テレビだってテレビ表現の具体的イメージ無しでスタートしたのだ。
テレビの本放送開始は昭和28年2月1日。
当日の番組表を見たことがあるが、式典の中継にはじまり、菊五郎劇団の中継があったり、落語があったり、ニュース映画をそのまま流したり、ラジオの音楽番組を同時中継したり、・・・。
テレビらしい映像表現はいまだ初歩にとどまっていた。

やがて、NTVの井原高忠が、「光子の窓」でアメリカに学んだバラエティの手法を日本に根付かせる。
NET(現在のテレビ朝日)が、アメリカの人気番組「TODAY」に範をとり「木島則夫モーニングショー」をスタートさせたのが今なお猛威をふるうワイドショーのはじまりだった。
カラー放送のスタートはテレビの表現の幅を広げたし、VTR技術の発展は、テレビドラマの制作現場を、生放送の制約と過剰な照明がもたらす灼熱地獄から救い出した。
このようにしてテレビ独自の表現形態は、技術革新と、さまざまなひとの暗中模索の中から出来上がってきたのだ。

こうして、テレビがメディアの王座を占めると、必然的に他のメディアに影響を与えずにはおかない。
それまで娯楽の王座を占めていた映画は、「五社協定」と呼ばれる映画スタアの囲い込みをすることでテレビに対抗しようとしたが、結果的に長い低迷の淵に沈んでしまった。

ラジオはダイレクトにテレビ急成長のあおりを受けた。テレビが茶の間の中心にどっかり座り込み、ラジオは子どもの勉強部屋に追いやられた。
それまで「みなさん」と呼びかけていたラジオはいつの間にかリスナーに「あなた・きみ」と呼びかけるようになったのだ。いわば「ラジオのパーソナルメディア化」である。これによりラジオは命脈を保ったわけだが、この流れをリードしたのが、ニッポン放送の看板番組「オールナイトニッポン」だった。
この番組のパーソナリティとして斉藤安弘氏とコンビを組み、「カメ&アンコー」のグループ名で「水虫の歌」を歌っていたのが亀渕昭信社長だから、振り返れば隔世の感がある。

新しいメディアの登場に遅れて新しいメディア表現が生まれる。
同時に新しいメディアの登場は、近隣メディアに表現形式の変貌を促すのだ。
テレビに限らず、既存メディアはインターネットの登場を受け、インターネット時代にふさわしい独自の表現を模索しなければならない。ちょうどテレビの登場を受けてラジオが変貌したように。
そしてそれは一人の天才が生み出すのではなく、多くの心あるものの営みの中から生まれてくるのだ。