Fireside Chats

ファイアーサイド・チャット=焚き火を囲んだとりとめない会話のかたちで、広報やPRの問題を考えて見たいと思います。

政府広報の基礎をつくった岸信介

2008年05月02日 08時54分47秒 | 広報史
GHQの行政PR導入戦略
昭和22年。GHQは各都道府県に対し「PRオフィス設置のサゼッション」を行った。
これを受けて各自治体は、相次いで広報主管組織を整備。このようにして、日本の近代的PRは行政から始まった。
ところで、なぜ政府でなく、都道府県に対しサゼッションが行われたのだろう。
どうやらGHQは、行政広報について、国と都道府県の分断を図っていたようなのだ。
というのも、軍国主義の一掃をめざすGHQにとり、内閣情報局から隣組に至る情報ピラミッドは排除の対象だったからだ。
GHQは、国の介入から自立化した自治体広報を育てることで、日本に国民主権の行政を根付かせようと意図したのである。

安保闘争と総理府広報室
政府広報は独立回復後も個別政策ごとのお知らせにとどまっていた。
そんな中、政府全体として広報への戦略的な取り組みを開始したのが岸内閣である。
安保条約改定を目指す岸内閣に取り、広報体制の構築による国民の支持の獲得は焦眉の急ともいえる課題だった。
危機感の引きがねを引いたのは、警察官職務執行法(警職法)である。
『デートもできない警職法』をスローガンにかかげた革新勢力のキャンペーンの前に廃案に追い込まれてしまった。
岸内閣は、福田篤泰総理府総務長官を担当に、総理府広報室の設立準備に入る。
しかし、その設立は、岸内閣の総辞職表明から8日後の昭和35年7月1日であり、安保闘争には間に合わなかったのである。

岸とアイゼンハワー
岸の秘書だった、川部美智雄は昭和35年に日本のPR会社の草分けである「ピーアール・ジャパン」を創業している。川部と同社の取締役であった大物ロビイスト、ハリー・カーンは、岸のイメージアップの仕掛けをしている。
開戦内閣の商工大臣でA級戦犯だった岸は昭和32年に首相として訪米した。この時アイゼンハワー大統領とゴルフをし、ラウンド後、ともに全裸でシャワーを浴びる。この裸の付き合いは両国で大いに話題となった。
さらに、ニューヨークに飛び、ヤンキースタジアムで日本の首相として初の始球式を行う。
後年、安保調印の訪米に先立っては、在日外人記者クラブの外人ジャーナリストに執筆を依頼し「KISHI & JAPAN」と題する洋書をニューヨークの出版社から発行させている。
行政広報の道を開いた岸信介だが、政治広報でも先鞭もつけているのである。