Fireside Chats

ファイアーサイド・チャット=焚き火を囲んだとりとめない会話のかたちで、広報やPRの問題を考えて見たいと思います。

GHQが主導した日本の行政広報

2009年10月13日 18時48分07秒 | 広報史
1947(昭和22)年から翌48年にかけて、各都道府県単位に置かれたGHQの軍政部は日本政府の頭越しに都道府県に「PRO設立のサゼッション」を行った。
PROとはパブリックリレーションズオフィスのこと。このサゼッションが、一般の日本人がPRを知る最初のきっかけであった。
GHQは、行政施策を国民にきめ細かく周知するとともに国民の声を行政に反映させるために、各都道府県に対しPRに本格的に取り組むことを推奨したのである。
しかしPRの概念は当時の日本人にはまったくいっていいほど浸透していない。「いったいGHQは何をしろといっているのか?」とその意図を探ることが、日本における近代的広報導入にあたっての最初の課題だったのである。
ところでGHQはGeneral Headquartersの略で、連合国最高司令官総司令部を意味する。GHQは日本の占領にあたり、沖縄県を除く日本本土では間接統治方式を採用した。すなわち、「命令は一括して最高司令官が日本政府に出し、日本政府が責任をもってその命令の施行を代行する」という方式である。
この間接統治方式の中で、都道府県単位に置かれた軍政部の役割は、地方レベルでの占領政策の履行の状態を監視し指導することであった。チェック機関である軍政部が、中央政府の頭越しに都道府県にサゼッションを行うということはGHQの建前からはイレギュラーな状況である。
ただし、このように、軍政部がその分限を超えて直接地方行政に介入することはしばしば見られたという。例えばPTAの導入や婦人運動の活性化には有形無形で軍政部の示唆があったとされる。
ではサゼッションとは何なのか、GHQの統治は、総司令官のメモランダム、指令、命令、セクションメモ、口頭命令、示唆(サゼッション)などさまざまな形式をとってなされたが、その中でも最も強制力の希薄なものが示唆(サゼッション)である。
しかし、都道府県の行政マンにとってはサゼッションは単なる示唆にとどまらず、指示・命令と同様に受け止められた。占領当時はGHQの権力は絶大だったのである。
当時富山県渉外課長でこのサゼッションへの対応を行った樋上亮一が著した「官庁PR草分けのころ」から富山県が受け取ったサゼッションの内容を見てみよう。
・ 当軍政部ハ、県行政ノ民主的ナ運営ヲ推進スルタメニ、知事室ニP・R・Oヲ設置サレルコトヲ希望スル。
・ P・R・Oハ政策ニツイテ正確ナ資料ヲ県民ニ提供シ、県民自身ニソレヲ判断サセ、県民ノ自由ナ意志ヲ発表サセルコトニツトメナケレバナラナイ。
・ P・R・Oハ知事が外来者トノ面接ニ要スル時間ヲ、可及的ニ少ナクスルコトニツトムベキデアル。
・ P・R・Oノチーフハ、次ノヨウナ条件ヲ備エルコトヲ必要トスル。
 .. 知事ノナソウトスル施策ガヨクワカル人デアルコト
 .. 人好キサレ、押出シノキク人デアルコト
 .. 新聞報道ニ理解ガアリ、新聞記者ニ親シマレル人柄デアルコト
. . アル程度、英語ガワカルコト
このように富山県に対するサゼッションは具体的であり、PROのチーフの資質についても言及している。
しかし、これは特殊例のようだ。富山県には知事室にPROを設置していることを求めているが、群馬の軍政部は群馬県に対してPROを知事部局に設置することを拒否している。知事の宣伝機関になる懸念があるというのがその理由である。
このように、GHQの指導は地区や軍政部の担当者により、かなりの差がみられる。
GHQのサゼッションの時期は件によって異なる。早い部類に入ると思われる埼玉県には6月中か遅くとも7月初めにはサゼッションを受けている。石川県も同じ頃のようだがが、先ほどの富山県は暮れも押し詰まった12月。隣同士の県でも半年近い時間差がある。
ところで、サゼッションのなされた1947年とはどのような年なのであろう。日本国憲法が前年11月3日に発布され、この年5月3日から施行される。新憲法の着地に向け、4月1日からは63制の義務教育がスタートし、5日には初めての知事の公選や市町村長の選挙、20日に第一回参議院議員選挙等が行われている。いわば日本の民主主義体制のスタートの時期にあたる。
PRO設立のサゼッションは、この時選ばれた公選知事により具体化され、49年ごろまでにはほとんどの都道府県に広報担当組織が置かれることになる。。