Fireside Chats

ファイアーサイド・チャット=焚き火を囲んだとりとめない会話のかたちで、広報やPRの問題を考えて見たいと思います。

大衆消費社会の変遷

2009年08月01日 11時06分32秒 | 広報史
焼跡からの復興
「りんごの歌」が流れる焼跡。瓦礫の中の壊れた水道管からは水が漏れ出し、その上には、ただ青い空が広がっていた。
そんな焼跡を舞台に、早くもユニークなPR作戦が敢行されている。
「結婚とは何ぞや」「角萬とは何ぞや」。
廃墟の壁のあちこちに、この不思議な問いかけが落書きのようにペンキで書かれ、なんだろうと話題になった。
大塚の結婚式場「角萬」のキャンペーンである。自由恋愛の時代の到来を告げるかのようなその文字は、最盛期には都内を中心に600ヶ所に書かれていたという。
「りんごの歌」と「角萬」。それは、戦争が終わった安堵感と新時代の幕開けを飾る奇妙な明るさの象徴だった。

とはいえ、国民生活はどん底である。なにしろ食べるものがない。
田を耕すべき人は兵隊に取られ、肥料や農機具は不足。折からの冷害で食糧生産力は落ちていた。45年の米の収穫量は大正・昭和期を通じ最大の凶作であり、漁獲量も昭和期最低を記録している。
さらに流通機能は壊滅的打撃を受けており、都会での食糧の配給は恒常的に滞っていた。郊外に買出しに行かなければ食糧は手に入らないありさま。
そこへ、戦地や外地から、復員兵・引揚者が戻ってきたのだから、食糧への需要は高まるばかり。
悪性のインフレや新円への切り替えなどにともなう経済の混乱が加わり、重度の食糧難に陥った。
46年5月にスタートしたNHKラジオ「街頭録音」の第一回は、銀座資生堂前からの生中継だが、司会の藤倉修一アナウンサーの質問は「あなたはどうして食べていますか」だった。職も無く、食糧も手に入らず日本中が飢えていたのだ。
この放送の2週間後に皇居前広場に25万人が集結した食糧メーデーでは、参加者の一部が皇居に突入し、食糧事情改善を訴える騒ぎだった。
食糧管理法により闇での食糧の売買は禁止されていたものの、誰もが闇経済に頼らねば生きてはいけない。そんな中で、裁判官の良心を守るため闇米に手を出さず、しかも配給食糧を2人の幼子に優先的にまわしたため、自らは栄養失調で餓死した東京地裁の山口判事の日記が朝日新聞に掲載され大きな話題となったのは、47年秋のことである。
このような日本の食糧事情を救おうと、サンフランシスコ在住の日系人が中心になり設立された「日本難民救済会」が日本に送った救援物資が「ララ物資」である。その中身は長期間の輸送を考慮し、衣類と脱脂粉乳だった。戦後に育った子どもたちの多くが忌まわしい思い出としてその不味さを忘れない脱脂粉乳の給食はこのときから始まった。

そんな食うや食わずの国民生活が成長への階段を上り始めるきっかけとなったのが朝鮮戦争特需である。
1950年6月25日。北朝鮮の奇襲に始まるこの戦争は、3日で首都ソウルが陥落し、米軍を主力とする国連軍と韓国軍とは、8月のはじめには釜山周辺にまで追い詰められた。
この戦争で日本は国連軍への補給や修理を一手に引き受け、兵站基地の役割を担ったが、これが日本経済へのカンフル剤となった。この年日本の実質成長率は対前年2桁の伸びを記録する。
これが引き金となり、1952年には、まず紙パルプ・繊維・砂糖産業などが潤いはじめた。これらはいずれも白色の製品であることから「三白景気(肥料を数えることもある)」と呼ばれ、将来への明るい展望をうかがわせた。
こうして1946年に吉田内閣が国策として採用し、基幹産業に重点的に資金を投ずるという傾斜生産方式は一定の成果を挙げた。
農林水産業の生産高は50年には戦前の水準に達し、翌51年には鉱工業生産も戦前水準を凌駕した。肝心の生活水準の回復は特に都市部においてなかなか進まなかったものの、やがて特需景気の余波は消費生活にも着実に及びはじめたのである。


大衆消費社会の到来
日本人にとり、消費生活の憧れであり、お手本がアメリカである。
1949年から51年にかけて、朝日新聞朝刊に『ブロンディ』というアメリカの4コマ漫画が連載されていた。主役であるブロンディの夫ダグウッドは食べることと寝ることが趣味である。パンと具が何重にも重ねられたサンドイッチを食べる場面がよく登場した。当時の読者は空腹を抱えながらアメリカ流の生活への憧れを抱いたのだ。
後年、テレビが普及するなか、その勢いに危機感を覚えた映画会社は五社協定を結び、1961年10月1日を期してテレビへの劇映画提供を打ち切り、専属俳優のテレビドラマ出演も制限する。その穴を埋めるため、アメリカのテレビ番組が音声吹き替えで数多く放送された。「パパは何でも知っている」(54~63年)、「うちのママは世界一」(58~66年)、「サンセット77」(60年)、「サーフサイド6」(61年)、「ルート66」(62年)等がそれだが、ここに描き出されたアメリカンライフは当時の日本人にとってはまぶしすぎるシーンだった。大型冷蔵庫から取り出された大きな牛乳瓶は豊かさの象徴に感じられた。

電灯、ラジオは戦前から馴染んでいたが、アメリカの家庭をお手本とした電化生活は、アイロン、トースター、電熱器、ミキサー、扇風機、電話、洗濯機、掃除機、冷蔵庫、テレビなど多くの耐久消費財を次々に日本中の家庭に送り届け、ついには日本オリジナルとも言える電気炊飯器を生み出すに至る。
その先陣を切ったのが洗濯機。1953年に三洋電機が従来の半額の価格で角型噴流式洗濯機を発売したことで電化ブームに火がついた。この年にはテレビ放送が始まり、家庭用冷蔵庫も発売されている。
そんなことから評論家の大宅壮一は1953年を「電化元年」と名づけた。

翌54年に景気は一時足踏み状態となるものの、55年には空前の好景気が訪れる。初代の神武天皇即位以来の好況ということから「神武景気」名づけられた好景気の中、大量生産大量消費社会が本格的に幕を開けた。1956年の経済白書の「もはや戦後ではない」のことばは、大衆消費社会の開始を告げるファンファーレだった。
この当時、人気の電化製品は神武天皇になぞらえ「三種の神器」と呼ばれた。白黒テレビ・洗濯機・冷蔵庫がそれである。それぞれの品目の普及率を総理府の消費動向調査で見ると、白黒テレビの普及率が50%を越えるのが1961年、同じく洗濯機が61年、電気冷蔵庫が65年である。
これらの普及が一巡すると、カー(自動車)、クーラー、カラーテレビが新三種の神器、またはその頭文字をとり、3Cと呼ばれて消費生活を牽引した。それぞれの品目の普及率50%越えは、カラーテレビが72年、自動車78年、クーラー85年である。

大衆消費社会の定着の背景を整理してみよう。
1955年に生産性本部が派遣した「トップマネジメント視察団」(石坂泰三団長)が日本に紹介したマーケティングが理論的な裏づけを与えた。
消費生活の拡大を支える厚い中間層が存在した。なかでも団塊の世代に注目する必要があるだろう。アメリカのベビーブーマーが1946年から64年生まれまで19年の幅を持っているのに対し、日本の団塊世代は、49年の優生保護法改正で経済的な理由での妊娠中絶が容認されたことから出生数が減少し、1947年から49年生まれの3年の幅でしかない。しかし、この3年間の800万人に及ぶボリュームゾーンの存在は大きく、常にマーケットの中心ターゲットでありつづけた。
マスメディアの成長も大きな要因である。53年にテレビ放送がはじまり、56年の週刊新潮発売を契機に59年にかけて週刊誌の創刊が相次ぐなど、本格的メディア時代もまた幕を開けたのだ。
別項で述べるよう、この状況を背景に、50年代後半から日本にも専門PR会社が相次いで誕生する。しかし時代の花形はマスメディアを使った広告であり、広報はパブリシティを中心に広告の保管機能としての役割を求められることが多かった。
電通PRセンターの創立は61年だが、創立当初はそのようなパブリシティが売上の9割を占めていた。クライアントの依頼を受け、社員や嘱託の取材記者(その中には直木賞候補作家や、雑誌記者などが含まれていた。)が猛烈に筆を走らせて記事を書き、それを新聞社や雑誌社に送稿し掲載を依頼するスタイルが中心だったという。

朝日新聞が63年7月から8月にかけて「商品誕生」企画記事を連載している。この中から当時のPR活動の痕跡を探ってみよう。
62年12月、厚木ナイロンは「伝線しないシームレス」と名づけたストッキングを発売した。選考する競合他社に対抗するため、同社は新聞全ページ広告、雑誌18誌とテレビ広告も積極的に実施。さらに当時の費用で1.5億円を投じて、全国50万人の高校卒業する女性にサンプルを配布した。これにより「ノーランは厚木」という定評を確立した。

ソニーが画期的なテレビを開発しているとの噂は61年春から兜町でささやかれていた。その年の暮れになりソニーは突如テレビ工場の見学ラインを閉鎖する。天皇皇后の本社工場見学の折にも視察ルートからはずす念の入れようだ。
62年4月になり、ソニーは僅か5インチの白黒テレビの発売を発表した。百人を超えるアメリカからの証券視察団の来日直後だったこともあり、ソニーの株価は劇的に上昇した。
また、テレビが一家に一台の時代から2台目のテレビが家庭に入り始める時期だったこともあり、国内でも輸出でもこの商品は爆発的な反響を呼んだ。
同社は、前年10月にニューヨーク五番街にショールームを開設している。これはアメリカ市場攻略のためのマーケティング拠点であることはもちろんだが、国際資金調達のためのIRの一環でもあった。国際銘柄ソニーの先見性を示すPR事例といえよう。

かつて家の前には、コンクリート製や黒いタールで塗られた木製のゴミ箱が備えられていた。オリンピックを契機に東京の街からはゴミ箱が消えポリ容器に替わった。
このポリ容器は積水化学の製品である。同社の専務がニューヨーク出張の折に目にした金属製のゴミ容器にヒントを得て試作を行っていたものだ。
61年正月、東龍太郎東京都知事はオリンピックまでに町をきれいにしようと都民に呼びかけた。これを聞いた積水化学は仕事始めの1月5日にポリ容器を知事室に持ち込む。たまたま、東京都ではニューヨークの清掃局長からゴミ容器の改善が機械化の大前提とのアドバイスを受けていたとのことで、直ちにテストを行い、8月にはポリ容器を推奨する都の方針も決まった。
これを受け積水化学は社内に「街を清潔にする運動推進本部」を設け、パンフレットやPR映画を作成。東京都にとどまらず、市町村、教育委員会、婦人会などに対し「ゴミ箱はハエや蚊の巣となり不衛生なばかりか、悪臭のもとであり、都市の美観を損ね、交通の障害ともなる」と働きかけ、一挙にポリ容器を普及させた。こうして企業と行政の連携は生活習慣を変えた。

人並み消費から差別化消費へ
『オリンピックをカラーで見たいカラーで見せたい』。
1964年の三菱電機の新聞広告のキャッチフレーズである。この年、テレビの普及率は87.8%。皆がカラーテレビで見るなら我が家もカラーテレビを買いたい。横並び発想の『人並み消費』がこのころの消費の特徴である。この年に若者向けの週刊誌『平凡パンチ』が創刊されるが、この影響で男子大学生はみなアイビールックで着飾るようになる。
女性ファッションを見ると、1965年英国のマリー・クワントが発表したミニスカートは67年イギリス出身のモデル、ツイッギーが来日すると日本でもブームとなり、老いも若きもミニスカートを着用するようになる。
美空ひばりまでがミニスカートで『真っ赤な太陽』を歌う始末だ。

ミニスカートの大流行が終わると、多様化の時代に突入する。スカートでいえば、ミディやマキシなどそれぞれの個性に応じ裾の長さを選択する時代に入った。いわば差別化消費の時代の到来である。
『となりの車が小さく見えます。』は、70年の日産サニー1200の広告のキャッチフレーズである。となりの車とはライバルのトヨタカローラ。カローラが1100CCのエンジンを搭載し『プラス100の余裕』をキーワードに市場を席巻したのに対抗し、排気量をそれまでの1000から1200CCに増強し、巻き返しを図ったのだ。

高度成長期は、各社が技術革新や新商品開発により差別化をはかり、熾烈な競争を繰り広げた時代であった。時計市場を見てみよう、この市場のトップリーダーはセイコー、そしてチャレンジャーはシチズンだった。
三愛グループの総帥でリコーの創業者である市村清は、59年の伊勢湾台風で甚大な被害を受け業績低迷していた名古屋の時計メーカー高野精密工業の再建に乗り出し、リコー時計に社名を変更の上先行するセイコー、シチズン追撃にかかった。
当時はまだ竜頭でゼンマイを巻いて動力とする機械式の時計の時代。進みすぎたり遅れたり、時計は狂いやすいものだった。時間を正確に刻むためには磨耗しやすいムーブメントの軸受けにダイヤモンドなどの宝石を使っており、各社は14石や21石などと、使用している宝石の数を表示することで正確であることをアピールしていた。
リコー時計の市村清は、先行するセイコー、シチズン追撃のため、当時欧州で出始めていた、カレンダー機能と自動巻機能に加え、国産品最多の33石を使った「リコーダイナミックオート33」を62年に思い切った低価格で市場に投入する。
新発売に合わせ広告やPRを集中し、また百貨店での販売促進に注力したことが図にあたり、発売直後にある都内主要百貨店では1日59個の売上新記録を達成しヒット商品に名乗りを上げた。
技術革新という点ではシチズンも負けてはいない。
衝撃に強い耐震性能を「パラショック」と名付け、1956年6月10日の時の記念日に、大阪でヘリコプターから10個の時計を投下しその性能を証明した。この成功に気をよくした同社は、以降、全国各都市で市役所・公会堂・新聞社などの屋上から、あるいは試合開始前の野球場でセスナやヘリコプターから投下実験を行い、止まらなかった時計の数を当てる懸賞企画などを連動させPRにつなげた。
60年には、名古屋のテレビ塔からの投下実験がCBCからニュースとして全国18局のネットで放送された。たまたま、安保騒動の節目の一つである「ハガチー事件」の当日の放送だったことから、期待を上回る視聴率だったという。またこの日、北海道で行った実験の模様は、後日、週刊文春でパブリシティ記事として掲載された。
シチズンは防水機能を「パラウォーター」と名付けている。このPRのためにシチズンが防水性の実証および黒潮海流調査を掲げ実施したイベントが太平洋横断テストである。
1963年「フレンドシップくろしお’63」と名付けた木製ブイ合計130個に調査票とパラウォーターの時計を取り付け、房総半島野島崎沖から黒潮に投下した。また翌年3月には日本海を流れる対馬海流に、6月にはプラスチック製に改めたブイを犬吠岬沖から再び黒潮に投下した。これらのブイのうちいくつかはアメリカ大陸など各地に漂着し黒潮の動態データを明らかにするとともに、パラウォーターの機能を証明することに成功した。このブイ投下キャンペーンは1974年まで続くが、1983年になりオーストラリアのロングリーフビーチでフジツボが付着した同社の時計が動いたままで発見されたという。

シチズンやリコー時計からの挑戦を受けてたつ時計業界のリーダー企業はいうまでもなくセイコー=服部時計店である。1881年創業の服部時計店は、1913年には国産初の腕時計を発売。以来一貫して業界トップの地位にあった。1953年8月初の民放テレビとして日本テレビが開局した折には、日本初のテレビCMを放送している。まだ技術が未熟なテレビはCMのフィルムを裏返しに映写機にかけてしまい、時報の秒針が逆周りとなり、日本初のCMは日本初の放送事故だったという笑えないエピソードも残している。
また、昭和時代の大晦日から元旦にかけては、民放テレビはすべて「ゆく年くる年」という共同制作の同じ番組を放送していた。NHKも同じ題名の番組を編成しているが、民放のものとは別である。この「ゆく年くる年」のスポンサーは、第一回から最終回までセイコーの一社提供だった。つまり昭和時代のセイコーは、時計業界だけでなく、広告主としてもリーダーの一社だったのである。
そして、そのセイコーが国内にとどまらず国際的にも時計業界のリーダーとなったのが、東京オリンピックの公式計時である。それまで戦後一貫して担当していたオメガに替わりセイコーが担当したのだ。セイコーの時計の品質と計時の正確さの賜物である。
そのセイコーが1969 年に世界の時計業界に更なる激震を与えたのが、水晶振動子を精度の核として据えたクオーツウオッチの発売である。これをきっかけに時計の精度は飛躍的に向上し時間が狂わなくなった。
技術の平準化により時計が狂わないようになり、カレンダー表示、防水機能、耐震機能、自動巻などの付加機能も一般化してくると、時計を技術や機能で差別化することが困難になっていった。デザインや企業イメージ、ブランドなどモノそのもの以外の要素で差別化せざるを得なくなってくるのだ。企業イメージの確立を目指すCI=コーポレート・アイデンティティブーム到来の背景の一つがここにもある。


個性化消費の進展と大衆の消滅
1973年と79年の二度のオイルショックにより、日本経済は高度成長から安定成長へと軌道を変える。
実質経済成長はそれまでの2桁成長から1桁に落ち込み、74年度は-1.2%にとどまる。耐久消費財がすでに普及していたこともあり、消費生活は足踏みを余儀なくされる。
国民生活の需要喚起のためにはこれまでのマーケティングは通用せず、新たな取り組みが模索されるようになった。こうしていくつかの新しい考え方が注目を浴びる。
例えば、ライフスタイルマーケティングであり、モノ消費からコト消費への転換である。
いずれも60年代から一部で取り組まれていた手法が安定成長時代のマーケティングとして浮上したものだ。

井関利明が1975年に『ライフスタイル発想法』を上梓し紹介したライフスタイルマーケティングは、商品を売るより商品のある生活を売ろうという発想で、企業はこの考えに立って、消費者に生活提案を行うようになった。
サントリーは1970年ごろから「二本箸作戦」と称して、サントリーオールドをこれまで日本酒しか置いていなかった、寿司屋、天ぷら屋、割烹などの和食店に置き、さらには家庭にも浸透させようとした。この戦略が成功し、70年に100万ケース前後だったオールドは、74年に500万ケース、78年に 1000万ケースの大台に到達する。「和食にも洋酒を」という生活提案が受け入れられた事例である。
また、キッコーマンの吉田節夫(後に専務取締役を務めた)は、食を、「食糧」「健康」「文化」の3つのレベルでとらえ、食文化戦略の推進を広報戦略の柱に据えた。料理教室の開催や野菜など素材の特性を訴える広告の展開などを通じ、キッコーマン流の食文化の訴求によるキッコーマン商品の拡販を狙ったのだ。

総理府(現内閣府)は『国民生活に関する世論調査』を毎年実施し、その中で物の豊かさと心の豊かさのどちらをより重視するかという項目を設けている。1972年のアンケート結果では物の豊かさを重視するもの40.6%で、心の豊かさの37.3%を上回っているが、76年頃から79年にかけて、両方の答えがいずれも40%前後で拮抗し、80年代に入ると心の豊かさの回答が一貫して増加し始めた。低成長下のものあまりの中、精神的な充実が求められるようになったのである。こうしてモノ消費からコト消費が注目されるようになったのである。大阪万博後の旅客の落ち込み対策として当時の国鉄が展開したディスカバージャパンキャンペーンが火をつけ、アンアンやノンノなどの女性誌が積極的にとりあげた旅行は代表的なコト消費である。

日本楽器は1959年以来、ピアノ、オルガンやエレクトーンをはじめとする楽器の拡販のため、ヤマハ音楽教室を開設していたが、コト消費のニーズに応えるため身近な音楽を普及させようと、69年には「ポピュラーソングコンテスト(ポプコン)」を開催。また、三重県志摩市に「合歓の郷」、静岡県掛川市に「つま恋」、縄県竹富町に「はいむるぶし」等のリゾートをオープンした。さらに、スキー板やレジャーボート、アーチェリーなど余暇関連商品を次々に開発、雑誌やテレビのタイアップなどを駆使してコト消費の旗手となった。

ライフスタイルマーケティングやコト消費の旗手といえば、セゾングループを忘れるわけにはいかない。
西武百貨店池袋店は1975年に9期リニューアルを行い新装オープンするが、当時ニューファミリーと呼ばれた団塊世代を意識し、これまでの百貨店の常識を打ち破る店作りを行った。
百貨店から専門大店への転換を標榜したこの改装で、デザイナーブランドのショップインショップや、書籍やスポーツ用品の圧倒的品揃えを行い、さらには西武美術館やスポーツ施設を店内に開設。「遊休知美」をテーマに「モノ」から「コト」に至る品揃えを充実させた。また、アメニティを重視し、百貨店の新しい方向を示した。
この店作りの延長線上で、糸井重里のコピーを前面に出したイメージ戦略を展開する。
「じぶん、新発見。」(81年)、「不思議、大好き。」(81年)、「おいしい生活。」(82-83年)と続く同社のキャンペーンは、消費そのものが自己実現の手段として個性化の時代に入ったことを指し示すものだった。
個性化が行き着くところは、マスの論理の破綻である。電通の藤岡和賀夫は1984にその著書「さよなら、大衆。」の中で少衆論を展開した。85年には博報堂生活総合研究所が「分衆の誕生」を上梓する。大衆消費社会を支えた大衆そのものが転機を迎え分衆・少衆に再編されたのだ。
そしてメーカーは大量生産方式から多品種少量生産へと舵を切る。
かくして大衆消費社会は解体され、時代はバブル景気を迎える。