Fireside Chats

ファイアーサイド・チャット=焚き火を囲んだとりとめない会話のかたちで、広報やPRの問題を考えて見たいと思います。

御巣鷹山

2005年08月13日 08時34分00秒 | ニュースコメント
85年8月12日に123便墜落事故。
そのときは、まだJALのコンサル業務は受注しておらずピッチの最中で、六本木のレストランで仲間と食事中に123便消息を絶つとの第一報を受けたことを覚えている。

翌年、体質改善のためのCIプロジェクトを受注し、89年まで当時本社のあった丸の内の東京ビルに通った。
伊藤淳二会長、山地進社長、利光松男副社長の時代である。
85年12月には国際線の独占廃止。87年には日本航空株式会社法が廃止となり完全民営化。VIデザインの導入は89年まで待つことになる。

87年3月だっただろうか、伊藤会長辞任後の混乱と停滞のさなかに、プロジェクトの仲間と御巣鷹山に昇った。愛・地球博のチーフプロデューサーとして活躍する福井昌平氏もその中にいたことを覚えている。
既に整備されていた上野村の駐車場から山に入ると、普段鍛えていない身にはかなりきつい山道である。
ちょうど体がへばっていたところで突然視界が開け谷の向こうに事故現場が広がる。
「見返り峠」と呼ばれ、帰路に遺族が来年の再訪を誓って振り返るスポットである。
そこで元気を取り戻し、再び長い長い山道を辿って事故現場に到着する。

事故現場にはJALが建てた山小屋があり、伝説的な山男、岡崎彬氏に会った。
岡崎嘉平太氏の子息である氏は、JALの貨物部門で実績を挙げていたが、山岳部の中核であったことから事故直後に御巣鷹山に入り、それ以来定年までの期間を山篭りして過ごすという見事な生き方を示した人だ。

御巣鷹山の事故現場までの道筋は、きついことはきついが、体力がなくとも時間さえかければ昇りきることができる。そんなことから、絶対安全の聖地として、JALの新入社員研修のプログラムに慰霊登山を加えることを提案し採用された。
合併後もこの伝統は引き継がれているのだろうか。
その時われわれが開発したJALデザインも新しく塗り替えられ、鶴丸も消えた。
その時の仕事仲間の何人もが今年JALから子会社に転出した。
われわれの仕事を高く評価してくれた山地さんも今年鬼籍に入った。
安全への思いも風化し始めているのか、JALの安全トラブルが連続して耳に入ってくる。
安全体質は果たしてどのようにすれば、体質化できるのだろうか。
当時、中心課題としてディスカッションを重ねた問いかけには、わたし自身いまだ結論が出せぬままでいる。

年々歳々、夏草は変わらず、今年も御巣鷹の尾根に生い茂っている。
その尾根に今年は父を知らない遺児ダイアナ湯川さんの鎮魂のバイオリンが流れたという。