Fireside Chats

ファイアーサイド・チャット=焚き火を囲んだとりとめない会話のかたちで、広報やPRの問題を考えて見たいと思います。

『署名で書く記者の「ニュース日記」』への3つの期待

2004年08月31日 20時50分59秒 | 参加型ジャーナリズム
お帰りなさい。小池さん、伊藤さん。

共同通信社内調整ひとつとっても、2ヶ月間ご苦労が多かったことと拝察します。
一方、このブログが契機となり、ネットの中でもさまざまな建設的な議論が巻き起こりました。
伊藤さんの書かれたこれは双方向というよりは、もっと多次元のやり取りですね。というのがそれです。
再開されたこのブログに期待したいのは、この2ヶ月の空白とその間の熟成を踏まえ、参加型ジャーナリズムの意欲的な実験を進めていただきたいということです。
そのために、以下の3つの点をご提案したいと思います。

■署名記事としての矜持を

今年の終戦記念日の石原都知事の靖国参拝で、共同通信は“自身の参拝が公人としてか私人としてか、という点については「都知事でもある石原が、ということ。人間はいろんな面を持っている」と述べた。”との記事を配信しました。
かつて、芦田内閣の副総理だった西尾末広氏が、当時の土建献金疑獄で「社会党の書記長である西尾個人」が献金を受領したと発言し、マスコミから批判されたことは、小池編集長はよくご存知と思います。私の乏しい知識では、これが今につながる公人私人論のはじまりです。
私は、靖国参拝における公人私人論にさほど意味があるとは思いませんが、おふたりの言論の責任が個人に帰属するのか、組織に帰属するのかという点については明確にする必要があると思います。
その意味で、当該の記述は「CH-K」編集長である僕個人の評論であり、共同通信の公式見解ではない。という小池編集長の表現はいただけません。
前半の「編集長である僕個人」というあいまいな言いまわしは不要です。「僕個人の評論であり、共同通信の公式見解ではない。」で充分ではありませんか?
それぞれのエントリーは署名記事の一種であり、その責任はすべて個人に帰着するというのが言論人としての矜持と思いますが、いかがでしょう。

■謝罪する勇気を

であるとするなら、小池編集長は、堀江社長に謝罪する勇気を持つべきです。
ワイツゼッカー元大統領が言うように「過去に盲目である者は、未来にも盲目」なのです。
個人攻撃ととれる表現だったことは確かで、反論や批判が寄せられるのは当然だ。僕自身、反省している部分もある。と小池編集長は書いています。
不祥事企業の社長が記者会見でこんな発言をしたなら、「謝罪しているのかいないのかどちらなんだ」との質問が記者から飛ぶことは小池さんも伊藤さんも理解できるでしょう。
他に求めながら、自らは問いかけから身をかわすことはフェアではありません。
言論人としての品格の問題でもあります。

■メディアスクラムへの批判精神を

コメント欄に寄せられた心ない罵詈雑言に心を痛められたことは想像に難くありません。私は、コメントの受け入れはOFFにして、トラックバックは受け入れるというのが正解と思っています。
ともあれ、今回の騒動は、メディアがメディアスクラムの対象になった事例です。
そして、一般人に対するマスコミのメディアスクラムへの反発が、今回の小池編集長に対する批判の根底には存在し、その意味でナベツネ氏の「たかが選手」発言への反発と通底するものがあると、私は感じています。アンチマスコミ感情のスケープゴートになったとの解釈です。
そこで、ネットメディアのメディアスクラムを経験されたお二人だけに、マスコミのメディアスクラムを批判的に見つめる視点と、それへの積極的な発言を期待したいのです。



とまあ、勝手な希望を書き連ねましたが、改めておふたりの復帰を心から歓迎するとともに、今後のご活躍と、このブログを中心とした、闊達でインタラクティブなディスカッションに期待します。