Fireside Chats

ファイアーサイド・チャット=焚き火を囲んだとりとめない会話のかたちで、広報やPRの問題を考えて見たいと思います。

参加型ジャーナリズムを考える

2004年08月14日 09時52分52秒 | 参加型ジャーナリズム
湯川鶴章氏は、時事通信編集委員という社会的立場を公開しつつ、"全く個人的な立場で"「ネットは新聞を殺すのかblog」を運営している。その文章には、常に良質なジャーナリストとしての真摯なまなざしが感じられることから、いつも愛読している。
同様に受け止める人が多いからなのか、5月中旬にスタートさせたブログであるにもかかわらず、日を追って来訪者が増え、多くにコメントやトラックバックが寄せられるサイトとなった。

このサイトでは、参加型ジャーナリズムはいかにして確立しうるのかという明快な問題意識のもと、きめ細かくチェックした国内外の情報を踏まえての主張が展開されているが、参加型ジャーナリズムをめぐるちょっとした論争というエントリーでは、「ジャーナリストとは何か?」という本質的なテーマについて、問題提起がなされている。

その中で、朝日新聞OBの本郷美則氏のジャーナリスト論が紹介されているが、私は、参加型ジャーナリズムを担うのは、必ずしもジャーナリストだとは考えていない。
参加型ジャーナリズムをジャーナリズムたらしめるのは、ジャーナリスト個人ではなくプロセスなのではないだろうか。
情報が集まり、選別され、相互に結びつき、オピニオンが加わり、時に対立することもある複数の論旨が相互作用により形成されるプロセスにこそ参加型ジャーナリズムの本質が存在するような気がする。


【擬似当事者】

では、どのような人が参加型ジャーナリズムに参加するのだろう。
ここでまず、「擬似当事者」という概念を提示したい。
私はインターネットとは擬似当事者を量産するシステムだと思っている。
BBSであれ、ホームページであれ、ブログであれ、何かを発言するということは、その問題にコミットするということである。
自らの発言が、誉められればうれしいし、否定されれば気が滅入るか反論したくなる。
注目されるためには、あえて奇矯な発言をしたり、時にはデマの流布もいとわない。
名誉欲とまではいわないが、「注目欲」「対話欲」(こんな言葉ないですね)が生まれ、その問題への関与度が高まる。
こうして、発言者はあたかも自分が当事者であるかのような認識を持つに至るのである。
これが「擬似当事者」で、これまでもネットの中の「まつり」では何人も擬似当事者のスターが生まれている。

代表的事例を挙げてみよう。
・1994年のインテルのペンティアム誤計算事件では、4195835÷3145727で誤計算が発生することをつきとめインターネットで発表したC氏がスターとなった。
・1999年のユーザーサポート問題では、公表された音声ファイルの素材を使ったジョーク音楽が、私の知る限り7作品ほどあったが、中でもプロミュージシャンのH氏が発表した「クレーマーラップ・テクノパージョン」は今聞いても笑える。
・エンロン破綻の際にも多くのエンロンジョークが発表されたが、「北朝鮮は核査察を受け入れるそうだ。査察するのがアーサー・アンダーセンならという条件付だが。」というのは傑作だと思う。
その他にも、説得力を持つ発言を重ねる人、時系列でのデータや発言のログ、FAQなどをまとめる人などに注目が集まり、ネットの中にはさまざまな擬似当事者が生まれる。この擬似当事者が参加型ジャーナリズムの参加者だ。

8月2日のエントリーに書いた共同通信記者ブログのライブドア騒動で新しい動きがあった。「ニュース日記」のコメント欄に、小池新編集長の名を騙るニセモノが現れたのだ。
「2004年08月12日 14:23」のタイムスタンプを持つ「Livedoor社長はなぜピンと来ないのか by Quasi 小池 新」がそれである。
擬似当事者の中には、当然のように、こんな流言蜚語を飛ばす愉快犯が現れる。このようなノイズを排除しサイトのクレディビリティを高める必要がある。


【書き手と読み手】

そこで、参加型ジャーナリズムでは、デマを排除し、優れた書き込みをクローズアップするプロセスをどうビルトインさせるかが問題となる。
その観点から、優れた「書き手」の存在が前提であることは言を俟たないが、優れた「読み手」が必要であると考える。
これまで新聞社においては、デスクと整理部とが出稿記事の読み手であり、ニュースバリューを評価していた。
ブログジャーナリズムでは、読み手の主力は読者サイドに移るのだろう。読み手は書き込みをその行間まで読み取り評価するとともに、他の書き込みとの関連性を考える「繋ぎ手」としての機能も求められるだろう。
湯川氏のブログにあるデーブ・ワイナー氏の発言はその意味で参考となる。
参加型ジャーナリズムの成否を決めるのは情報発信が少ないゆえに埋没しがちな「読み手」をどう発掘し、確保するかではないだろうか。
また、「読み手」が報道機関の内部にいるのか、一般読者の中に求めるのかは、そのジャーナリズムのビジネスモデルそのものの枠組みを決定することになると思う。当然、私は後者のほうがインターネットの性格にフィットし、ポテンシャルも大きいと考えている。