気まぐれ徒然かすみ草ex

京都に生きて短歌と遊ぶ  近藤かすみの短歌日記
あけぼのの鮭缶ひとつある家に帰らむ鮭の顔ひだり向く 

ヤマト・アライバル 香川ヒサ つづき

2015-11-03 00:05:26 | 歌集
この椅子に坐るすなはちその椅子にまたあの椅子に坐らないこと

グーグルマップ航空写真にびつしりと地上を覆ふ固有名詞が

生きてゐる間はせめて思ひたい他の生き方あるかもしれぬ

来し方をさながら夢に日の名残り湛へしづかに流れゆく雲

重たいが自分で運ばねばならぬ袋の中身は私だから

屑籠に紙の溢れて部屋隅に棄てたものとして現れてゐる

徒歩または馬にて旅をした頃にたつぷりあつた考へる時間

わかることわからぬことのあはひにて読む小説に立つ林檎の木

火を見つつ思ふ思想は感覚の影なれば常に暗く虚しも

フランス窓開け放ちたれば夏の庭しんと広がり父歩み来る

(香川ヒサ ヤマト・アライバル 短歌研究社)

******************************

一首目。確かにその通りで、ここにいることは、別の場所にいないこと。この人生を選べば、別の人生を歩めないことを暗示している。しかし、三首目のようにかすかな希望が生きているうちはある。
四首目は、きれいで読んで心地いい歌。二句切れで、三句目の「日の名残り」が効いている。五首目は、自分を俯瞰している点が好ましい。覚悟が潔く、勇気づけられる。八首目は、結句に林檎の木を置くことで、詩になっていると思う。十首目、この作者の歌ではじめて父が登場したことに驚いた。いままで家族の登場は、ほとんどなかった。初期の歌集で、夫と息子が将棋をしている横を通るとき、すっと駒を動かすという歌があったと思うが、それ以来かもしれない。
香川ヒサが家族をうたったらどんな歌になるのだろう。現実の姿から、限りなく離れた人物が登場する気がする。そう思えば、家族詠など、まだ足を踏み入れていない領域は多い。どういう方向に進むのか、気になるところだ。