気まぐれ徒然かすみ草ex

京都に生きて短歌と遊ぶ  近藤かすみの短歌日記
あけぼのの鮭缶ひとつある家に帰らむ鮭の顔ひだり向く 

森羅 田中律子 ながらみ書房

2021-08-30 02:00:29 | 歌集
こきこきと桃の缶詰あけてをり週でもつとも病むのは火曜

体調のよい日は爪もよく伸びる秋なかぞらに蜘蛛の巣ひかる

ゆめの母がそつとわたしに渡したる赤きバイエル黄(きい)のバイエル

「なるほど」を二度言はれたら商談は成立しない ニューヨーク9時

口かたく閉ぢたる貝が熱き湯に怺へつづけてゐる二、三分

湿りたる遅延証明ねむりたい花も花びら乗せた電車も

眠りたりないわが指さきが朝はやくメロン銀行に送金をする

去勢され寿命を延ばすさくら猫ふりむきざまにかるく会釈す

出かけませう、自粛しませう、水槽の中をただよふ渋谷ヒカリエ

夢の中ではだれもマスクをしてゐない落葉を焚いて五人家族は

(田中律子 森羅 ながらみ書房)

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塔の田中律子の第三歌集。どんな方かお会いしたことはないが「稟議書」「インサイダーで諭旨退職」などの言葉に、相当活躍されているキャリアウーマンを想像する。「婚姻届」「介護病棟」の歌もあり人生の出来事と作品がリンクしているタイプかと思う。しかし「バイエル」「メロン銀行」「渋谷ヒカリエ」「さくら猫」・・・こちらの言葉の選択にわたしは惹かれるのだがどうだろう。また旧かなへの愛情も感じた。

宍道湖 堀田茂子 六花書林

2021-08-23 11:49:06 | 歌集
竜胆の瑠璃一輪を志野の皿に水はりてさす初秋の朝け

逝きてより覆ひしままの碁道具に手ふるれば鳴る那智の黒石

鼻少し欠けたる古雛母に似て円居せし日の語らひ偲ぶ

うすもののわれの胃の腑を見るならん踊り食ひせし白魚の眼(まみ)

朝まだき厨の蜆つぶやきてふるさと宍道湖の砂をはきをり

呟きがみそひと文字になりたれば胸にあかりのほのと点りつ

雪暗(く)れにビーフシチューの灰汁をとり一人の夕の時間を煮込む

宍道湖の大き落日そびらにししじみとる舟眼(まなこ)に浮かぶ

卒寿すぎまだ生きんかなこの秋のニットの案内に心ゆれつつ

補聴器と眼鏡に加へマスクまで耳は密なりコロナ禍の日々

(堀田茂子 宍道湖 六花書林)

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堀田茂子さんの第一歌集。略歴を見ると昭和4年生まれとあるから92歳。
「日本歌人」の苑翠子氏、「笛」の藤井常世氏に師事したのち、いまは奥村晃作氏の教室の生徒さんである。歌は端正で破綻がない。ご本人が真っ当な人生を誠実に歩んで来られたのが想像できる。わたしには真似のできないご苦労を重ねて来られたのだろう。一冊の歌集の重みを感じる。

標のゆりの樹 蒔田さくら子 

2021-08-18 00:14:41 | 歌集
来よ、来よと誰連れゆくや晩節の孤りひぐらし日に暮れを鳴く

おさへ込みしづかに内に巻き締めし怒りもありぬ捩花の紅(こう)

躱(かは)し得ぬ人の視線に疲れたるあぢさゐを抱くおほき夏闇

布巾かたく絞りて厨のこと終へぬおそき寝待ちの月のぼらむか

赤(あか)の飯(いひ)炊かば佳き日のよき思ひかへらむか小豆煮えつつぞある

折り返しかへらむ標(しめ)と見放(みさ)け来しかのゆりの樹を誰か伐りたる

ルビありても解(げ)せぬ子の名の多き世に業平読めぬと駅名変はる

トラウマとよぶべきものかわが性は孤をさびしまず人をおそるる

山鳩を聞くゆふぐれをさびしめど帰るべき家まだわれにある

ものを愛(を)しむこころ捨てねば捨てられね愛(を)しむこころを捨てなば荒れむ

丹波黒豆ゆつくりふくらみ煮えゆくは待つ新年(にひどし)へと流るる時間

(蒔田さくら子 標のゆりの樹 砂子屋書房)

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蒔田さくら子の十一冊目の歌集を読む。

蒔田さんは、言うまでもない短歌人会の重鎮。文語定型に詠まれた歌は、私のお手本でありながら、心が安らぐのだ。
例えば、三首目。あぢさゐを詠いながら、作者自身が人の視線に疲れているように読めて、共感する。あぢさゐの旧かな表記がうつくしい。紫陽花も、夜になって闇に隠れるとほっとするのだろう。作者の心情に添って読んでしまう。
これは、八首目にもおなじことが言える。ここでの「トラウマ」の意味はぼかしてあるし、詮索しても意味はない。しかし、最近読んだ『森見ゆる窓』で、作者が二人姉妹でありながら、早い時期に妹さんを亡くされ、一人っ子として長く生きて来られた足跡を思うと、下句で述べられた心情に共感する。
また、四首目、五首目、十一首目にある厨歌は、いまも主婦である作者の得意とするところだ。日常の食に丁寧に関わることの大切さが歌に深みを与えている。
十首目は、最近の私には耳の痛いこと。いまの私はきっと「荒れ」ているのだろう。捨てるという行為の両面を見る目が鋭い。
六首目は、集題となった歌。ゆりの樹は、何かの象徴のように思える。長い道を歩くように人生を歩んできて、標(しめ)と思っていたものが失せてしまった。世の中の価値観が変わったことの喩と読んでしまうのは、浅いだろうか。
蒔田さんが居てくださることで、われわれは励まされる。歌に慰められる。
これからも、よろしく、と言いたい。

琥珀夕映え 竹内みどり 柊書房

2021-08-11 01:08:19 | 歌集
エアコンの裏にもがける虫あればレスキューもする電器屋だもの

空(から)の巣をうちに抱へて生きる日よ遠くなりたり子とありし日々

金色の竜をいただく霊柩車給油してをり仕事の前に

眉のうへ透き通るやうな額あり帽子とりたる警備員の夏

いにしへの時をとどめる室(むろ)となり蔵の真闇はかすか息づく

核一万六千発がある世にて懐中時計のりゆうづを巻きぬ

引き出しにうすむらさきの姑の箸残れり夫とふたりの夕餉

インターハイ出場選手を校歌にて送りき未来の夫と知らずに

むぎわらの先でふくらむシャボン玉いそがなくてもおとなになれる

あしたにもあしたがあると思わせる久慈の琥珀のなかの夕映え

(竹内みどり 琥珀夕映え 柊書房)

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コスモスの竹内みどりさんの第一歌集。鳥取で電器店を夫婦で営む。歌にはリアリティとユーモアがあり、昭和の肝っ玉かあさんの風情だ。家電製品について困りごとがあれは、電話ですぐ呼べる電器屋さんがむかしはあったなあ。ホームレス氏や警備員さんといった働く人、高齢者に寄り添う目も暖かい。人情に溢れているが、そこに溺れない。実は冷静にモノの真実を見ている。モノに語らせる歌風はわたしの惹かれるところだ。家族詠が多いものの、子についての歌は一首のみ。高野公彦氏の帯文はあるが、栞も跋文も略歴もなく潔い。468首と歌数が多いのに、一気に読んでしまった。

楕円軌道 松尾祥子 角川書店

2021-08-03 22:47:43 | 歌集
母はもう壊れ物なり薬包紙ほどくがごとく肌着を脱がす

家持たぬなめくぢ家を持つ蝸牛あぢさゐの葉の上に濡れをり

育ちたる子にわれの香のもうあらず手をふり別る渋谷の駅に

君は胡麻われは黄粉を選びしを思ひつつ食む彼岸のおはぎ

消灯後両脚消えて腕消えてあらはれ出づる煩悩あまた

青梅雨のひと日こもれば平凡の凡のなかなる点のしづけさ

海を知らぬ蕪と大地を知らぬ鱈ともに煮えたりミルクスープに

木瓜の花咲きて明るし還暦のわれに卒寿の母がゐること

湯に浸かりぴんつくぴんつく両脚を伸ばす赤子に男のしるしあり

ひつたりと触れあふ育児、介護ありて救はれゐるはわれかも知れず

(松尾祥子 楕円軌道 角川書店)

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コスモスの松尾祥子さんの第五歌集。家族詠がこれほど多い歌集を久しぶりに読んだ気がする。家族と深く関わることの喜びと悲しみ。うそや演出はないのだろう。四首目、消灯後の寝付くまでの実感。五首目の平凡の凡、よくわかって巧い歌だと感心する。人生はいろいろ。みんな違ってみんないい。