5か月にわたる『〈政治〉の危機とアーレント』を読む会が、とうとう昨日最終回を迎えました。
長いようで短かったこの間、忙しく疲れがある仕事帰りにもかかわらず、毎回10名前後の方が集って継続できたことは驚くべきことでした。
昨日も、福島市某所に集った参加者の中には、本を抱えながらコタツで思いっきり夢に微睡みながら船を漕いでいる方もいらっしゃいました。
その気持ちだけでも発案者としては感謝です。
今回は昨夜の議論で印象的だったものだけをかいつまんでまとめとさせていただきます。
◎マルクスの労働の廃棄は人間の条件そのものの廃棄だと批判したアーレントの議論に関して。
この議論の前提には、労働は奴隷的営みだというアーレントの「労働」に対する評価について、Facebook上で次のような議論が交わされた経緯があります。
「エンゲルスの『猿が人間になるについての労働の役割』を読んだ記憶がよみがえっています。
二本足で立った人間が「自由になった」手をものづくりの労働に使うことが脳にも反作用して脳を発達させ人間になっていく。
たしかに労働が苦役であるという側面もありますが、労働することで、自然にふれ、作物を育てる喜び、それを他人に食べてもらって喜んでもらうこと。工芸的な職人のもの作りの喜びなど、人間の個性の開花などはどう見ているのでしょうか。
マルクスは共産主義社会を分配の原則から低い段階と高い段階に区別し、低い段階では「能力に応じて働き、労働に応じて受け取る」、高い段階では「能力に応じて働き、必要に応じて受け取る」(Wikipedia)。
資料には<すべての物を共有する共産主義>とあります。生活に必要なものは必要に応じて受け取れるわけで、共有の根本は<生産手段の共有>だと理解してます。」
ここでは、昨今の「裁量労働」をめぐる政治の議論を踏まえながら、そこでの労働が奴隷的なのは資本主義という形態の下で行われるのではないか、という疑問が投げかけられました。
さらには、労働を通じて人間は能力を全面的開花させていくわけで、仮に労働がない社会が実現したとしても、釣りや写生のような牧歌的なぼーっと趣味に埋没するような人間になるわけではなく、個性を開花させていくものではないか、という疑問が投げかけられました。
なるほど、社会主義国家になれば、それこそ「活動」にように喜びを伴う「人間的な労働」になるのではないか、という疑問です。
以前、この会でも確認されましたが、育児や料理などの「労働」にも他者との協同がともなう「活動」的要素があるということを本書では述べられています。
問題は、マルクスが「労働は廃棄される」とした点にアーレントが批判を向けているという点でしょう。
アーレントの見立てでは、社会主義になろうとも「労働」という人間の条件そのものは廃棄されないし、または廃棄されてはならないものだということです。
そして、いかに喜びが伴おうとも、労働には生命維持の必然性が伴う以上、それはやはり生命維持の必要性に結びついている以上、強制力から逃れられない奴隷的な労苦を本質としているというのがアーレントの見立てです。
マルクスは「人間的な労働」が実現する共産主義社会を目指したといってもよいでしょうが、「生産手段の共有」によってそれが果たされただろうか。
むしろ、私有財産の廃棄が、むしろ個々人の「個性」を育むプライヴァシーを奪ったのではなかったか。
本書が繰り返し主張してきたこの点が、妥当するのかどうか再度確認してよいように思います。
◎AI(人工知能)とのコミュニケーション問題。
そもそも、AIと人間的なコミュニケーションはとれるのか?
siliレベルの受け答えは可能だとしても、人間的なコミュニケーションは取れないだろう、というのは現段階においてはそのとおりだと思います。
東大合格を目指して開発された「東ロボ君」も現段階では現代文の読解問題にまだまだ対応できていないようです。
基本的に情報処理と統計に基づくパターン認識ですから、「意味」を求められる問題解まではできないとのこと。
けれど、人間のコミュニケーションパターンの情報量をどんどん増やしていけば、けっこうどんな受け答えでもできるんじゃないだろうか。
SFの世界のように、もしかしたら生身の人間とのコミュニケーションよりも、よほどうまくいくのではないか。
「いや、俺はどんなにケンカをしても妻の方がいいね」
これは、ふだんパートナーを「鬼嫁」と呼ぶ方の発言です。
あれだけブーブー言っているのに、なぜそう言えるのか?
また、ある参加者はAIには「共感」がないといいます。
共感とは?
AI自らが自動的に学習を深めていくディープラーニングは、もはや開発者のコントロールを超えてしまっていると言います。
すると、「共感」的反応もまたパターン認識によってマスターできないとも限らないのでは…
意外な反応ですら、そこに人間が魅力をもつという情報をパターン学習すれば、そのようなトリッキーな対応すら可能にならないだろうか…
人間の意外性や予想不可能性すらパター化できるのではないだろうか…
そうしたら、AIの方がよほど悩みや愚痴を話しやすいかも。
恋愛をしない若者が話題になって久しいですが、生身の人間への魅力が希薄になっている現実があるとすれば、あながちありえない現実ではないのかも…
医療現場において、膨大な症例データを処理してパターン認識を生み出すAIは成功確率の高い医療方法を提示するものの、その根拠は示せないと言います。
つまり、判断の根拠が示せないというわけです。
僕らが「人間的なコミュニケーション」という場合には、この「根拠」や「理由」にヒントがあるのかもしれません。
ただし、それは「正解」ではなく、答えのない問いに対する「根拠」といえばいいのかもしれません。
つまり、「生きる意味」の答えは人によってそれぞれ異なるものですが、それを受け止めたときに「腑に落ちる/落ちない」とか「納得する/しない」という思いが生まれます。
そして、その「意味」は各人の一つとして同じではない経験や思考の仕方にもとづくものであり、「パターン」を求めているわけではないからだと思うのです。
それはAIにはそれを示せないという点で限界があるということなのでしょうか。
◎世界=地球疎外をめぐって
いくら科学が宇宙へ飛び出していったからって、火星に移住するとか宇宙ステーションに人間が居住したいなんて、そんなのアニメの話みたいでリアリティがないね、という疑念。
たしかにね。
でも、実際に居住したいかどうかという問題ではなく、人間の条件そのものである地球から飛び出したいという欲望は、科学の「過程的性格」にあるのであって、人間の欲望としてあるという意味ではないのではないでしょうか。
人間が好んで火星に住みたいと思う人なんてごく少数であるように思われます。
にもかかわらず、試験管ベイビーや代理出産、ips細胞も、もともとは何か目的のためにというよりは、ただむやみやたらに発見しつくしたいという欲望に基づくものだったののではないでしょうか。
わかっちゃいるけどやめられないかっぱえびせんみたいなものが、科学の根本的性格なのではないかということです。
だいたい、アニメの話で言えば、ありえないと思っていたドラえもんの未来の道具もけっこう出来上がっていますけどね。
科学の過程的性格は歯止めも予測もつかないものなのかなと思います。
◎「科学者が科学者として述べる政治的判断は信用しない方が賢明なのだ」という言葉をめぐって
科学者といっても色々いるじゃない。
みんながみんな一緒くたにするのは暴論だ、という意見。
科学者も市民としての判断を下すという点では、そのとおりでしょうね。
でも、あまりにもナイーブな科学の中立性を信じている人も少なくないのでは。
科学的発見もいったん公共の場に投げ込まれると一つの政治的意見と受け止められるてしまうのが、まさに「政治」のアポリアです。
『水俣病の科学』を書いた西村肇は、「科学者から見た水俣病研究」(雑誌「環」25号)において、そのアポリアに対する不満を次のように述べています。
西村はまず、メチル水銀生成反応機構について詳細に説明した後に、これは自然科学の教育を受けていなければ理解が難しいことを確認したうえで、文系と理系のあいだに「全く理解不能」に近い溝があるといいます。
それを二つの精神の「敵意」や「対立」とさえ言います。
なぜか。
西村は、まず科学は真理の認識において人間精神を支配してきたスコラ学批判として生まれた歴史を指摘します。
スコラ学はキリスト教神学の骨子ですが、それは基本的に「人は正確な言語と厳密な論理によって思考すれば、思考のみによって真理の認識に到達できる」という信念があると西村は指摘し、これに対して「言葉と論理への100%の信頼を否定する」のが科学であるといいます。
それについて西村は「確立された知識を基礎に厳密な論理的思考を積み重ねて結論に達する点では、科学もスコラ学も違いはありませんが、基礎にする知識の性格が違います。スコラ学では、知識とは言語 知識ですが、科学ではその他に実体知識が加わり、こちらの方が重要です。
実体知識とはまだ言語に表現される前の生の知識であり、実験の際の生の観察結果、生まのデータ、写真のことを指します。
これを人に伝えるために言葉で表現したのが言語知識ですが、「実体知識にくらべ極めて貧しいものです」と述べます。
さらに、「スコラ学にくらべて科学の特徴は議論が定量的であ」ることも指摘します。
そのうえで、自然科学系と文科系の人間の違いの最も大きな違いは「科学者とは意見の違いでの論争を好まない人種だ」ということだといいます。
これは、立場を全く反対にしながら、アーレントの考え方と軸を一にしています。
アーレントにとって「政治」の領域は唯一の真理 が支配するのではなく、多様な「意見」が織りなす世界なのですが、西村はまさに科学者はそうした「意見」の論争を好まない人種だというわけです。
この「意見」の理解はとても重要です。
実は、西村がこのような論考を書いた背景には、水俣病問題で科学的事実に政治的解釈が介入したことで、科学者としては不当な「科学の政治化」が生じたことがあります。
これは放射線被ばくに関する科学的評価をめぐっても生じた問題でしょう。
科学的評価が政治的言説として流通することに、市民は不信と疑念が生じたものです。
だから、西村は「科学でももちろん意見の違いはありますが、それを言葉による論争で解決しようとはしません。
言葉は補助ですから言葉ではなくて良いのです」とさえ言います。
余計な議論を巻き起こさないように高度に抽象化された記号でいいのです。
たとえば、ウィキペディアで「相対性理論」から「E=mc²」を調べると、わけのわからない数式が並んでいます。
たしかに、ある意味ではこうした記号であれば言語が通じない外国人が相手でも、数学的知識が共有されていれば相互理解は可能になります。
しかし、個々人の抱く価値観などの差異に対応できる言語構造にはなっていません。
そのような言語空間で生きる科学者の政治的判断を信じない方が賢明だというのは、こうした言葉の問題に焦点が当てられているわけです。
さて、いよいよ明後日は佐藤和夫氏を招いての本番が開催されます。
そこにおいてこそ、まさにその言論空間の質が問われるでしょう。
少なくとも、アカデミックなジャーゴンが飛び交う空間になることを私たちは望みません。
しかし、同時にそれはアーレント思想の特殊な用語が充満する本書を、いかにして翻訳可能か、その力量が参加者自身に問われることになるでしょう。
全く予測のつかない会において、まさに私たちは「政治」を経験することができるのではないでしょうか。
楽しみです。(文:渡部 純)