カフェロゴ Café de Logos

カフェロゴは文系、理系を問わず、言葉で語れるものなら何でも気楽にお喋りできる言論カフェ活動です。

『〈政治〉の危機とアーレント』を著者と語る会・資料編

2018-02-02 | 『〈政治〉の危機とアーレント』を読む
           

 2月24日(土)開催予定である『〈政治〉の危機とアーレント』を著者と読む会の資料を作成しました。
四苦八苦しながら毎月一度のペースで読書会を続けてきたわけですが、あらためて読み直すのはたいへんだし、要するにどんな話だったっけと、思い出すために活用していただくものです。
 要約なので、大切な部分もざっくりカットしてありますが、そこは各自でしっかり読み込んで、議論に参加して下さい。
なお、参加受付はすでに締め切っていますので、あしからずご了承ください。(カフェマスター・渡部 純)

佐藤和夫著『〈政治〉の危機とアーレント』を著者と語る会     

【開催日・場所】2018年2月24日(土)・飯坂温泉あづま荘
《タイムスケジュール》
13:30~13:45 開会・自己紹介
13:45~15:30 本書の内容についての質疑応答
15:30~15;45 休憩
15:45~17:30 本書が提起する政治の危機についての討議
17:30     閉会


【会の趣旨】
 当初、3,4名で始めようとした佐藤和夫著『〈政治〉の危機とアーレント』を読む会は、あれよあれよという間に参加希望者が増え、いつしか10名前後で毎月一度のペースで読書会を行ってきました。しかも、参加者は福島市やいわき市、郡山市、二本松市、会津坂下町など県内在住の方から、金沢市や和光市のように県外在住の方まで広範囲にわたり、年齢層も20代から70代まで幅広く、多様な職種の方々からなっています。
 驚くべきことは、ほとんどの方が「アーレントなんか知らない」にもかかわらず、とにかく「何かについて考えたい」という衝動や、「なんだかわからないけれど、アーレントって重要らしい」という好奇心だけで参加したという点です。その意味で、哲学やアーレントを専門的に学んだことのない市民が、どこまでアーレント/佐藤和夫の問題提起や思想について思考し、語り合えるのかという実験的な会でもあります。もし、今回参加される方のなかに哲学をご専門とされる方々がいらっしゃるとすれば、この趣旨にのっとり「市民」に寄り添った議論を展開していただければ幸いです。
 今回、「著者と一緒に読む会」の企画を提案したところ、佐藤和夫先生にご快諾いただくとともに、多くの方々にご参加いただけたことは望外の喜びです。心より感謝申し上げます。ぜひ、参加者の皆さんには、一人ひとりが遠慮することなく自由闊達に意見を述べ合い、思考を深められる場であることを共有していただければ幸いです。(渡部 純)


【これまでのスカイプ読書会の記録】クリックすると各回の記録を読めます
第1回 はじめに・第1章
第2回 第2章
第3回 第3章
第4回 第4章
第5回 第5章 第1節・第2節
最終回

【各章の要点・要約】

「はじめに」
(1)本書の二つの目的
 ・これまでのアーレント研究において『人間の条件』は全体主義との関連が明確にされてこなかった。
 ・今日の世界における政治的危機と文明の転換の必要を『人間の条件』から読み解く。
(2)アーレントの危惧と問い
 ・人々が利害に関係なく協働して語り合う「政治」が衰退し、利害をめぐる「社会」にとって代わられた結果、「孤独な大衆」が生まれる。
 ・世界の中で「私的に自分の居場所をもちうること」が失われる現実
 ・現代科学の歯止めのきかない楽観主義
 ・他者と共生する世界への関心の喪失
 このような状況が生まれたのはなぜか?それは「人間の条件」の変容といかに結びつくのか?


第1章 時代の転換とアーレント
1.アーレントはなぜ難しいのか
・アーレントの「政治」概念の独創性が、われわれが用いる近代の政治概念とは異なるため
・『人間の条件』(1958年)が書かれた時期は、政治・経済システムの結合が国民国家の民主政治と矛盾しなかったため、経済問題抜きの〈政治〉を語るアーレントは非現実的と読まれてきた。
・近代民主主義は独裁制を批判できるが、全体主義とつながる民主主義の要素を見えなくする

2.アーレントが生きた時代と重なる現代世界
 第一次大戦でのドイツ敗戦、虚構の「黄金の二〇年代」が中産階層の民主主義や議会制への不信を生み、「上からの強力な支配に救いを求める人が増えた」。
 一方、冷戦崩壊後の金融資本主義のグローバル化、先進国の経済成長の限界により財政赤字を解消できず、経済政策の破綻を緊縮財政による増税や社会保障の削減によって埋め合わせる政策しかとれなくなったことが、「どの政党に投票しても同じ!」という「脱政治の政治」状況を生んだ。

3.アーレントが「政治」の名の下に擁護しようとしたもの
 人々が互いの違いを認め、共同で語り合う「活動」する政治空間(公的領域)は、経済的利害関係や支配・服従関係が入った途端に消失していく。
 そもそも「安全保障」や「生命維持」のための「統治」を意味する近代の政治概念は、「自然状態」の暴力を免れるための「政治以前」のものである。物質的増大と国家規模の経済的成功に国民が動員する現代の政治は「動物的部分」を重視し、人々の個性を奪うものである。つまり、「政治」の問題を生存の問題に従属させることは、「政治的なもの」を失わせるのである。
 「政治的なもの」とは、日常的な有意味性が露わになるのは例外的な「偉業」の中において現われる。それは話し合いと活動に参加する人と人とのあいだにできる空間である。アーレントの議論は「政治」の「経済」への従属化に対する警告である。資本主義でも社会主義でも、工業社会によって所有を奪われた大衆が自分らしさを取り戻すことためには、「政治の権力と経済的権力の分離」が行われなければならないのである。


第2章 『人間の条件』と20世紀
1.『人間の条件』という言葉をめぐって―アンドレ・マルローとブーバー=ノイマンの違い
 哲学が「人間とは何か?」を問うてきたのに対し、人間は環境や制約(条件)との関係の中でしか存在しえない以上、残酷な現実を前にしては、人間がどのような「条件」において悪魔か天使になるかが問われなければならない。
 マルローは『人間の条件』において清ジゾールに「みんな、ものを考えるから苦しくなるのだ…もしこの思考なるものが姿を消せば、〔…〕なんと多くの苦痛が消えてなくなることだろう」と語らせているのに対し、ホロコーストを生き延びたブーバー=ノイマンは「自尊心を失うような自暴自棄にも陥らず、絶えず私を必要としている人間を見出し、友情と友好な人間関係を築けたことが」力となり生き延びることができた。「考える」営みが個人的性格ではなく、世界との関係において条件づけられること、そして、どんな人間になるかは一人ひとりが作り上げる人間関係の目を抜きにはあり得ないことが示される。
 ここには、マルローに代表される実存主義が、「死に対する勇気ある挑戦によってのみ、自らを死から救うことができる」というように、「革命」が社会的政治的条件にではなく、「死」という人間の条件そのものに向けられたことに対するアーレントの批判がある。

2.労働の条件と人間の条件―シモーヌ・ヴェイユ
 アーレントがマルクスの労働観を批判する上でヴェイユは決定的な影響を与えた。労働と生命の必要から最終的に解放されるという希望は、マルクス主義のユートピア的空想に過ぎない。どれほど生産力が上がり消費水準が上がろうとも、「労働」という人間の条件から解放されることはない。「労働する動物」という人間観が「政治的な動物」という人間観をないがしろにする。
 ヴェイユにとって労働者は、工場においては厳密な生産労働の時間管理の中で自分の自由は奪われ、自分で働き方を決められる余地は与えられない、必然性に支配されている奴隷状態である。この条件から解放されない以上、「奴隷的でない労働の第一条件」として労働時間の短縮よりも労働者と工場全体の機能・機械との関係、作業中の時間の流れ方を変えるなど、労働者が仕事の過程の主人公となる条件が検討されなければならない。


第3章「自分らしさ」と「私的所有」
1.私的なものの意味(第1章より)
 自分自身の私的な場所をもたないことは、もはや人間でないことを意味する。古代ギリシアでは、「私生活を自分らしく確立し守ること」がなければ公的生活が成り立たないとされていた。その「私有財産」は、もともと「自分らしくあるためのプライヴァシー」を意味したのに対し、ロック以降の近代思想以降(資本主義)、労働のなかに所有と「財産」の起源を見出し、それが貨幣の肯定と結びついてしまったことで、「自分らしさのための所有」が、無限増殖する貨幣の量に還元される「富(カネ)」の所有であるかのように混同されてしまった。そのことが自分の存在の無用感を生み、この世界は私の「自分らしさ」を必要としてくれているという「根なし草」の感覚を喪失させた。

2.「私的所有」をめぐるロック・マルクス・アーレントの思想
 絶えざる生活不安に襲われている人は、公的な関心事に関わる条件に極めて乏しい。元々、政治的主体としての市民とは、生命体としての生存を脅かされる恐怖から解放された人々であるはずだが、もし生活の安定を奪われた人々が政治に参加すれば、生活の確保や安定が要求課題になる。だが、それは「政治」を破壊するものを「政治」が主たる対象にすることである。
 そもそもpropertyには、「所有/自分の/固有の」という「自分らしさ」を示す内容が含まれていたが、ロックが自分の身体の労働と手の仕事によって生じた「物」に私的所有権が発生すると論じて以来、近代社会理論において「物」をたくさん所有することが、そのまま「自分らしさ」の増大とつながるかのように思われてきた。これは自分で使用する範囲の所有権を超えて、貨幣の無限の蓄積の正当化へ向かった。
 これに対し、マルクスは「富が増大されれば人間の豊かさが実現される」という私的所有論が労働疎外と貧困化へつながるという批判を行った。彼はその原因を労働と資本が対立する社会では排他的な「私的所有」があるからだとし、すべての物を共有する共産主義を提唱した。
 しかし、アーレントはマルクスの「個人的生活と類生活は別ものではない」とし、私的所有の廃止の後に現れる共産主義社会に、「人間の個人生活と社会生活の間にあるギャップを除去」していると批判する。アーレントは、一人ひとりが異なる存在であることを認めることが人間社会の出発点とする。この「違い」を認め合える世界の条件を保障するためには、一人ひとりの違いを十分に育てるための「私的」領域・私有財産が確保されなければならない。マルクスは労賃。資本・地代の対立が人類共同のものになれば個人と人類の発達の対立は消えるとしたが、そこには個性の問題が見逃されている。「財産」とは一人ひとりが自分の安心できる「4つの壁」をもち隠れていられる状態であり、その上に公的領域で自分を示しうる条件が保障される。これが奪われた「根こぎ」の蔓延こそが全体主義運動を組織化していくのである。


第4章「労働・仕事・活動」
 この3つの概念はアーレント政治思想の中核である。
 「労働」は「背後に何も残さないこと、労苦の結果がそれに費やした労苦と同じくらい早く消費されてしまうこと」を特徴とする。「労働力」は際限のない富の拡大の論拠となるが、これが私的所有の無視につながった。アーレントは、富の増大が話し合いという「政治的動物」の次元には達しえず、他者との共存が忘れられ、ひたすらカネや富の増殖が目的化されたことへ批判を向ける。
 「仕事」は、すべての自然環境と際立って異なる物の「人工的」世界を作り出す。その物の世界の境界線の内部で、それぞれ個々の生命は安住の地を見いだすのであるが、他方、この世界そのものはそれら個々の生命を超えて永続するようにできている。
 また、「仕事」/「制作」はモデル(目的)と手段のカテゴリーに支配されるものであるが、道具から機械に変わっていくと労働者に対して機械のリズムに合わせるように要求し始める。さらに、科学技術が蒸気・電力・オートメーションから核エネルギーの段階になると、自然過程に核エネルギーが入り込むと、「目的―手段」の関係が転倒し、自分たちの目的のために打ち立てるはずの手段が世界を破壊するようになる。
 「活動」は「話し合うことによってこそ人間は政治的な存在になる」という言葉に示される。他者との語り合いの中にユニークネスを示していくのであり(第二の誕生)、人間存在のリアリティやアイデンティティのためには「活動」が不可欠である。人々が互いの違いを認め合い、違いのゆえにこそ平等であること、コミュニケーションそのものに関心や喜びを向けうることが、その政治空間の条件であり、経済的利害や労働条件によって活動の条件は奪われ、「活動」の忘却が全体主義を招いた。他方、「活動」は不可逆性と不可予言性という性質をもち、それゆえに過ちを犯すものでもある。それに対応するのが「赦し」であり、「約束」が予測不可能性に安定を与えるのである。
 なお、「活動」は家事や出産、教育、介護といった「労働」のなかにも「活動」の特性が見られるという点で、3つの概念で諸活動をひとくくりに区分されるというよりも、一つの職業の中にも3つの概念の要素があるという見方をすることに留意しておきたい。

第5章『人間の条件』に至る思索
1.『全体主義の起源』が生まれる経過―「哲学と社会学」
 経済的豊かさが頂点を極めた社会にあっても、なぜわれわれは精神的な息苦しさから解放されないのか。本書は一貫してこの問いを根本に置いている。マルクス主義は資本主義の矛盾を資本家と労働者の「生産関係」における搾取の矛盾に光を当て、その矛盾の克服を史的唯物論で展開した。しかし、科学的客観的とされた歴史の認識も、それを認識する主体(労働者)自身がその歴史状況に捉われずに認識することはできない。マンハイムは、もしその認識は可能だというのであれば、それは現実から遊離したイデオロギーかユートピアに過ぎず、その点で支配者のイデオロギーを批判するマルクス主義もまた、その批判から免れないことになる。
 では、この両者の拘束から精神が自由になることはないのだろうか。それについてマンハイムは、現実から逃避する「故郷喪失」において精神は存在するという。これに対してアーレントは、精神は現実に拘束されるという点でマンハイムに賛成しつつも、そこから逃避するのではなく、しかもイデオロギーとユートピアにも陥らずに「社会的経済的利害」に対して、自分はどのような方針・態度をとるかという精神活動の中でこそ、「現実」が構成されるとみる。精神の生が世界に位置つけられるとはこの意味においてのことである。

2.『全体主義の起源』の文化的起源の考察
 近代社会では経済的利害に関わる社会の仕組みが現実と見なされることから、経済的運営と富の無限増大が主題となり、市場から排除された「経済的には余分で社会的には根扱ぎにされた人々」は全体主義という装置によって抹殺すればよいという発想がくり返し生まれてくる。
近代国民国家ではタテマエとして誰もが人権をもっているが、一方で「無用」とされる大衆を生み出す経済システムをもつという矛盾がある。そこに自分たちの利害を何らかの形で代表する組織をもちえないと人々が感じるとき、公的な問題に関心をもたない「大衆」が出現する。現代でいえば「無党派層」という存在がこれにあたる。
 アーレントは、大衆の成立は教育の平等化・平均化によるのではなく、近代の階級利害制度の崩壊にあり、競争原意の中で著しく孤立したがゆえに自己中心的になっていったと分析する。この自己喪失の現象が全体主義を支える大衆を成立させた。
 なぜユダヤ人絶滅が可能になったのか?一つは、絶滅は計画的大量生産的な人口政策として、主観的には罪を感じないやり方で数約万の殺戮を組織した点にある。二つは、全体主義運動が「歴史の法則」・「自然法」に依拠し、人間社会はその法則実現のための素材となるとした点にある。この根底には人間の自由=活動の偶然性、不可予言性そのものが邪魔になるという思想がある。この法則を実現する運動に邪魔なものを除去するのが「テロ」であり、テロに支えられた法則の実現対応する観念形態が「イデオロギー」である。イデオロギー的思考は一切の経験から独立し、五感によって知覚される現実から離れることで、現実から生み出されない論理および首尾一貫性の強制力に支配される。
 そこでは3つの孤独と精神のあり方が重要となる。①政治的孤立Isolationは、共同のための活動が破壊されたときに生じる孤独だが、経験・制作思考する私的領域は残される。②見捨てられた孤独lonelinessは、プライヴァシーを奪われた根無し草としての全体主義の人間性である。③自分自身といっしょにいることができる単独solitudeは、自己内対話=思考の条件であり、自分の仲間たちとの世界との関係があらわされており、世界を失うことはない。
 大衆の深刻さは②が日常経験となり、政治的なつながりも一人になることもできない状況が蔓延することで、全体主義が生み出される点にある。しかし、人間の「始める」自由はいかなる論理、演繹も力をもたない。人間は流れに抵抗し、まったく新しいことを始められる能力を持つのである。

第6章 現代科学技術と『人間の条件』
 全体主義の問題を考えてきたアーレントが、『人間の条件』のプロローグにおいてスプートニクショックという現代科学技術のエピソードから始めてるのは、科学技術の歯止めのかからない「過程」的性格が「政治」を破壊しかねないと考えたからである。
 試験管ベイビー、人工授精、100歳まで寿命を延ばすこと、オートメーションの発展が人間を労苦から解放するという夢が実現されている今日、「地球に縛りつけられている人間がようやく地球を脱出する第一歩」を踏んだのが人工衛星の打ち上げだった。しかし、地球という生命体の条件から抜け出ることは人間存在の条件そのものを破壊する。
 近代思想は「労働」の労苦から自由になろうとしても、その自由が何のために使われるか知らないためにマルクスのように「労働者の社会」を超えることができなかった。オートメーションによる生産力の増大は動物的な消費欲望の肥大化を生み出し、それが豊かさであると錯覚させただけである。それ以上にAIロボットが人間の協同作業にとって代われば、コミュニケーションという「政治」の条件が破壊されないか。
 遺伝子操作や人工授精など有機生命の人間の条件を変えるかどうかは、「第一級の政治的問題」であるが、現代科学の言語は「もはや普通の言葉や思想の形で表現できない」。となれば、話し合う能力がノウハウの奴隷になりかねない。今日、話し合いは予定された結論を引き出そうとしたり、力のあるものが形式的に他人を説得して合意を強制する手段となっている。しかし、話し合いは予想もしない「新しい」ことが生まれるかもしれないから行われるのだ。
 アーレントはこの背景に科学的「真理」とされる言語が生活全体に影響を及ぼし、五感による判断や日常言語に翻訳しなおして議論できない問題を見る。だから「科学者が科学者として述べる政治的判断は信用しない方が賢明」なのだ。加えてアーレントは、科学の方法は人間が設定した特定の条件で「拷問」をかけて成立するものであり、人間の想定を超えたものを無視する点、そして人間が生活で考え、語り合う「意味」の世界を駆逐してしまう問題を指摘する。
 近代科学が宇宙科学へ変容したのは、ガリレイ、デカルト以来の必然的な流れの結果である。宇宙へ飛び出した科学は地球に束縛されたままだった人間の限界を超え、以前は想像に過ぎなかったものをガリレイの望遠鏡は肉体的感覚でつかまることをもたらした。デカルトは、さらに人間の感覚能力という制約を超えて、科学を理性による数学に還元した。その結果、宇宙科学は地球に束縛されず、宇宙でしか実現されなかった無限の核エネルギーを地上へ持ち込んだのである。アーレントは人間が科学技術を「利用する」という表現が不適切になっていると指摘する。「道具や器具を機会に置きかえる」テクノロジーは労働者を機械の奴隷にする。これが核エネルギーに導入されると、人間のコントロールを超えた流れが「自ず」と生まれてしまい、とめどない「過程」性に襲われるが、これは「労働」支配の構造も特徴づける。
 これに対してtangible「蝕知性」がアーレントの「活動」にとって重要である。労働や科学において「話し合い」は無駄とされるが、『人間の条件』はこの共同が破壊されるのはどのような条件なのかを、近代全体から問い直そうとした。科学が宇宙へ飛び出すのと同時に、非飛び地は世界から自己自身へ逃亡飛行する。これを世界疎外と呼び、生存の利害闘争以外に政治の意味はないとした近代の根深い病である。
 アーレントは、民衆自らが世界に意味ある存在だと感覚をいかにして確保して生きていけるかに関心をもつ。人々が利害に煩わされず平等で自由に活動できる機会を強調したアーレントは、政治権力と経済権力が分離し、成長を前提としない福祉国家を希望した。西側諸国が社会主義国より自由であったのは、資本主義によるのではなく、市民のプライヴァシーを守ろうとする制度のおかげである。
 また、現代科学技術の巨大さと複雑さは私たちの手に負えないかのように見え、市民が対抗できる可能性は極めて限られているように見える。原発事故では自分の経験を語りあうことが対立や偏見を生むかのようである。これが象徴するのはアイヒマンやイーザリーのように数十万数百万という虐殺の「数字」が人間感覚の閾を超え、思考を停止させ。そんな今日、自分の経験を語りあうことの意味は、私的に語られる以上にどれほどの意味があるのだろうか。
 科学技術の自律的な「過程」性に対して、アーレントは「政治」を提起する。科学技術が目的―手段のカテゴリーでコントロールできる「制作」の論理ならば、人間の営みはありえないことが起きてしまう「政治」の原理を対抗させるしかない。

コメントを投稿