Recipientとして生きる

肝移植をうけて15年が過ぎました。
ボーイスカウト札幌第9団団委員長として活動を続けています。
健診の日々です。

永遠のエラ・フィッツジェラルド

2013-04-30 12:38:52 | 日記
4月25日のGoogleのトップページに、エラのことが出ていました。エラ・フィッツジェラルド(Ella Jane Fitzgerald)は、1917年4月25日生まれで、生きていれば96歳ですが1996年6月15日79歳で亡くなっています。ジャズボーカルの女性歌手で、私は史上最高と思っています。考えられないくらい悲惨な少女時代を送って、17歳のときにアマチュア対象のコンテストに優勝してデビューのきっかけをつかみました。彼女の伝記をみますと、神様というのは、ときにとんでもない才能をとんでもないところに置いてくるものだと思います。
 私が中学か高校のとき、当時NHKでアンディ・ウィリアムスショーというのをやっていました。そこにエラがゲスト出演したのですが、ソロの歌のすごさに度肝を抜かれ、デュエットのときにアンディ・ウィリアムスの歌声が「俗っぽく」聞こえたものでした。今は、YouTubeで当時の場面を見ることができます。それ以来のファンでレコードもいろいろ持っていたのですがほとんど手放してしまいました。
 声の質、高速スキャットのすごさ、R&Bからバラード、ポップスまでどれも素晴らしくて、いろいろ意見はあるでしょうが、とにかくダントツの一番と思っています。晩年の「Nice Work If You Can Get It」を聞くと声に衰えが目立ちますが、それでもすごい。とても好きなCole PorterのSongbookの曲、

「I Get a Kick Out of You」などを聞くと心が洗われます。
 その実生活や晩年は、病気などで決して幸福とはいえなかったのですが、その素晴らしい歌声は人類への贈り物と言えます。


生体肝移植―5年の歩み―(4)

2013-04-16 12:06:57 | 生体肝移植
 PTBDチューブ(14Fr内瘻チューブ)は、皮膚に2か所、ナイロン糸で縫合固定されています。挿入部の皮膚は1-2日に1回、シャワーで洗浄するのみで、消毒液などは全く使用していません。入浴時にはオプサイト10cm×10cmで覆っていますが、シャワーはかけっ放しです。感染を起こしたことはありません。
 チューブの管理は、絆創膏負けをいかに無くすかにつきます。昨年からノンアルコールスキンプレップスプレー(スミス&ネフュー)を使い始めて、全く皮膚炎がなくなりました。

 シャワーの後、皮膚が乾いたらスプレーしてチューブの入り口には皮膚保護材(ハイドロサイトの小片)を貼り、チューブの固定部分にはオプサイトを貼ってから絆創膏で固定します。その上をさらにオプサイトで覆うのが、はがれないコツです。

 がっちり固定されるのにはがしやすく、しかも皮膚炎を起こしません。スプレーは1500円前後で買えて2-3カ月もちます。挿入部はシルキーポアで覆うのみです。
 バッグの管理は、アイエスケーの胆汁ドレナ―ジバッグ・通院用セットを使っています。

 しかし、このバッグ自体は、チューブが太すぎるのと排液部分の処置がしにくいので使っていません。バッグは、住友ベークライトの500ml排液バッグを使っています。ベルトのクリップの部分をペンチで曲げて把持力を強めています。

 家内に袋を作ってもらって右大腿に固定しています。

 トイレ使用時に全部はずすのが面倒ですが、今のところこの方法で問題なく生活しています。(完)
 

生体肝移植―5年の歩み―(3)

2013-04-12 13:22:20 | 生体肝移植
 平成24年3月、再びPTBDチューブを肝臓に入れました。以前、2年間もチューブを入れていた経験から、様々な管理のコツを身につけていましたので、今回はあまりトラブルもなく、順調にチューブを太くすることができました。また、造影上からは、他の胆管にチューブを入れる意味もないので、1本で管理することとしました。波はあるものの、徐々に肝機能も落ち着き、1日1-2時間ならばチューブを閉じておくことが可能となり、7月に入って気候も良くなり、ちょっと運動してみようか、という気になってきました。近くの豊平川沿いを走ったり、藻岩山を登ったりすると実に気持ちが良い。徐々に走る距離や藻岩山の登山道の距離を延ばして、9月には旭山公園口から藻岩山頂上まで往復できるようになりました。そうなると、いろいろやりたいことが出てくる。洞爺湖の団キャンプ、テニススクールの再開、新しいカービングスキーを始めるなど、運動範囲が広がっていきます。1日6時間閉鎖が今のところ限度で、以前に比べて体重はそれほど増えていないものの、余計な脂肪が全部落ちて筋肉が少し増えてきています。酒は相変わらず飲めませんが、宴会に出て皆の話を聞くのも楽しみになってきました。
 今までの経過、現在の状態、種々の検査結果からみて、決して楽観できる状況ではありません。まだまだ、かなりの免疫抑制剤を服用していますし、肝機能も横ばいで良くはなっていません。薬の副作用で腎機能もかなり落ちてます。さらに5年、10年と順調に生きていけるとは思っていません。今を大切に、思う通りに生活することのみを考えています。
 次回は、現在行っているPTBDチューブと排液バッグの管理方法をお知らせします。自分なりにいろいろ工夫しました。特に皮膚の管理は満足いくもので、絆創膏負けやただれは全くありません。(つづく)

生体肝移植―5年の歩み―(2)

2013-04-11 12:51:10 | 生体肝移植
 平成21年4月からはPTBDチューブの管理で明け暮れました。1本のチューブでは拡張不十分なので、もう1本チューブを別の胆管に入れました。つまり、体に2本チューブが入っているわけです。これはかなり管理が面倒くさく、いろいろと工夫して日常になるべく支障がないようしました。それでも肝機能は完全には良くならず、熱が出たりして何かおかしい。肝機能が改善しないのは、てっきりPTBDチューブのトラブルか、他の狭い胆管のためかと思っていましたが、肝生検(肝臓に針を刺して組織をとり、顕微鏡で調べる検査)で慢性拒絶と診断されました。いろいろなトラブルで、免疫抑制剤の量を少し減らしていたのも影響したようです。
 慢性拒絶は、治る率は半分くらいで、根本的な治療法は再移植しかありません。とにかく免疫抑制剤を増やし、PTBDチューブの管理に集中しました。結局、平成21年、22年はチューブを太くしたり、2本を1本にしたり、徐々にチューブの閉鎖時間を長くしたりで、あっという間に過ぎて行きました。帯状疱疹のほか何回も急性副鼻腔炎にかかるなど免疫抑制の影響もあり、体力的にはかなり落ちていました。
 平成23年になってから、胆管は十分拡張し、造影剤の流れもよくなったところで少しずつチューブを細くして閉鎖時間を延長していきました。慢性拒絶も収まってきたため、またチューブの脇漏れが多くて皮膚のただれがひどくなったため、PTBDを行って2年、手術から3年目の4月にPTBDを抜きました。やれやれ、これで2年ぶりに普通の生活に戻れると喜んだのですが、比較的早い時期から体がかゆくなってきました。
 平成23年は忙しい年で、北大第一外科同門会の50周年に当たるため、幹事長を務めていた私は、記念式典のコーディネートや記念誌の編集で忙殺され、また9月に父が亡くなったこともあり、身体的、精神的にかなりきつい日々が続きました。かゆみは徐々にひどくなって、睡眠不足も加わってきました。一度広がった胆管が、再び狭くなって胆汁の流れが悪くなり、胆汁の成分が体に回ってかゆくなったもので、どんなかゆみ止めや軟膏も効きません。わずかに、漢方(茵ちん蒿湯)が少し効いただけで、平成24年1月~2月体重は59kg(手術前は78kg)、顔もからだもしわしわ、掻き傷だらけという悲惨な状態でした。体に当たったところがすべてかゆくなるため横になれません。ベッドに座ったまま2時間ほどうとうとするだけという日が続き、この時期は、死んだ方が楽だと考えていました。
 脳死のドナーによる再肝移植の話もでましたが断りました。自分としてはどのような状況でも再肝移植はしないつもりで、その分必要な人に回すべきと今でも思っています。それでもやはり、かゆいままで死ぬのは嫌だったので、わずかに胆管が拡張したところで、平成24年4月、再度PTBDチューブを肝臓に入れました。なんと、その日からかゆみがおさまり、再挿入してくれた北大放射線科のA先生に後光が射して見えたものです。また生き延びる気力が出てきました。(つづく)

生体肝移植―5年の歩み―(1)

2013-04-09 12:23:14 | 生体肝移植
 平成20年4月15日、北大第一外科(現在、消化器外科学分野1)の移植グループにより生体肝移植を受けました。B型肝炎から肝硬変となり、多発性の肝臓癌を併発していて、移植以外助かる道はありませんでした。幸い長男がドナーとなってくれたので、右半分の肝臓をもらうことができました。自分が同じ第一外科の出身で、博士論文も肝移植でのドナー肝の保存がテーマだったのが何とも皮肉でした。
 幸い肝臓癌の再発や、免疫抑制による他臓器の癌も見当たらないようで、まあまあの肝機能で生き延びることができました。外科でよく言う癌の手術後の「5年生存」に入ったわけです。ありがたいことです。移植を受けていなければ、2年以内に死亡していたのは確実で、おかげで娘たちの結婚式や孫たちの誕生も見ることができました。
 手術後は必ずしも順調とは言えませんでした。4月に手術を受けた後、7月の肝機能はまさに20代のもので、肝機能検査としてはすべて正常のすごいものでした。しかし、その後徐々に肝機能が悪化し、ときどき寒気とふるえを伴った高熱が出るようになりました。拒絶反応を疑ったのですが検査では異常がない。翌年の1月に胆汁の通り道の胆管が狭くなっているのがわかりました。
 胆汁は、赤血球に含まれるヘモグロビンが壊されたあと、その色素が黄色いビリルビンに変化したものに、酸やコレステロールなどが混ざって液体として肝臓で生成されます。作られた胆汁は細かい支流からだんだん本流に集まって行き、一本の胆管として十二指腸とつながり、消化管に排出されます。脂肪分の消化吸収に重要な役割をしており、便の色は胆汁によるものがほとんどです。この大事な胆汁の流れが悪くなり、肝移植のアキレス腱といわれる合併症を引き起こします。
 胆管がせまくなる胆管狭窄は、生体肝移植の20~30%に起こるとされるやっかいな合併症で、どこの移植施設でも治療に難渋しています。原因は、胆管を養う血管の血流が、肝臓を半分切って胆管も切り離して植えるために減ってしまうことによります。つまり、胆管は肝臓から38%、十二指腸側の動脈から60%血液をもらっていますが、肝動脈自体からは2%ほどしか血液をもらっていません。肝臓を半分にして胆管を切り離すことにより、肝動脈をつないでも血流がかなり落ちてしまいます。血液の乏しい胆管はだんだん縮んでいきます。そのため胆管が狭くなり、胆汁の流れが悪くなってバイ菌が溜まりやすくなって、熱が出たり、肝機能が落ちたりするわけです。
 私の場合は、移植した肝臓の胆管と小腸をつないでいるのですが、その根元の胆管が直径2cmの半円の範囲で狭くなっていました。つまり、おおよそ4本の川が合流して1本になっているのですが、その4本とも根元で狭くなり、さらに合流した1本も狭くなってひも状に腸につながっているわけです。
 その狭くなった胆管を広げないと、結局肝臓そのものがだめになってしまいますので、まず、外から胆管の中に管を通して、それを通じて胆管を広げようと計画しました。平成21年2月、術後10カ月目で右脇腹から肝臓にチューブ(PTBD、経皮経肝胆道ドレナ―ジ)を入れました。多少胆汁が腹のなかに漏れるため、とても痛い胆汁性腹膜炎というのを起こしました。また、チューブが折れたりぶつかったりのトラブルもあり、移植手術の直後より痛くてつらい数週間を過ごしました。寝返りも、咳も、体を起こすことさえできず、眠られないためのストレスも加わって心房細動(心臓の不整脈)まで起こしましたが、耐えました。しかし、その後の、今も続く長い合併症との戦いの、まだ序の口だったのです。(つづく)