あも&サチアキの交換日記

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死に際の美学または大岡越前と進撃の巨人

2020-12-26 | from:sachiaki
世の中的には「鬼滅の刃」なことは分かっていますが、
知人が「進撃の巨人」に今頃になってハマッてくれて
ファイナルシーズンが始まったことも相まって
私もシーズン3を全見直しして、
さらに補完のために記憶が微妙なシーズン2も数話見直しして
ついでに原作最新話までを読んでいたsachiakiです。

その今更ハマってくれた知人曰く、
「鬼滅の刃」は「ジョジョの奇妙な冒険」の系列。
「進撃の巨人」は「デビルマン」の系列。
面白さの質が違うって話をされていて
なるほどたしかにな。って納得していたところです。

私はジョジョも嫌いではないし、面白いことは分かっているけれど
あれは「型の面白さ」なのだと考えていて、あまり深くはハマっていません。
覚えやすく特殊なポーズ、一度聞いたら忘れられないワード、
インパクトのある使い回しの効くコマなど。
その型を守るとどうやっても面白くなるという
特殊な世界観がある面白みだなと考えていて、
「型」があるから誰もがそれをやってみたくなる。
もちろんストーリーやキャラクターも愛されているからこその
「鬼滅の刃」だし「ジョジョの大冒険」なことは重々承知しています。

翻って「進撃の巨人」。
こちらはデビルマンの系列なので、常に読者に常識を問いかけ続けます。
正義とは足を向けている立ち位置でいくらでも変わること。
善や悪などという言葉では生ぬるい現象が起き続ける時に
自分が取れる行動とはなにか。
残酷でしかない世界に、それでも一縷の望みをもつにはどうしたら良いのか。

ドイツの精神科医であるフランクルが第二次世界大戦で経験した
ホロコーストの中でただ死を待つだけの時にどうやって人間らしさを保持できたか
そういった経験を元にした「夜と霧」のような、
というよりもそのもののような世界観。
まさにゲットーの世界も描かれているので、
「進撃の巨人」はそういった近代世界観に根を下ろし
ジックリと人間と自由について描き続けていると考えられます。

さて、そんな「進撃の巨人」は死に際を綺麗には描きません。
徹底して残酷です。
これは「戦争」「戦う」ということがいくら格好をつけようとも
その結果は酷く意味がなく寂しいものであるという
「戦争賛歌」に対する反戦の印だと考えます。

散り際がカッコよかったら、それに憧れてしまい
「俺も祖国のために!」とか間違いしちゃう野郎が出てくるからです。
だから徹底的にみにくく惨めな死に際ばかりが描かれます。
数分前までは隊を引っ張り誰よりもクレバーで
意志さえ折れなければ死なないって言っていた人でさえ
武器をもがれ、圧倒的な力の中に放置されたら
嫌だー!と子供のように泣き叫び、ただみじめに散っていくのです。

それらを見ていると、大岡越前の中にあった話で
「義賊かまいたち(多分、もしかしたら義賊木鼠小僧かも)」を思い出します。
かまいたちは弱者のために私腹を肥やしている商人から盗みを働く義賊で
その立ち振る舞いが傾奇者でとてもカッコいいのです。
そんな彼ですがとうとう大岡越前(忠相)に捕縛されてしまいました。
白州の場でも堂々としていて信念に基づいたカッコよさを感じさせます。
だけど彼は越前に頼まれるわけです。
「いくら義賊であろうと盗みは盗みだ」と。
「そして憧れるものが街の治安を乱すこともあるだろう」と。
だから「獄門台ではみにくく立ち回って欲しい。憧れをなくしていって欲しい」と。
義賊の彼はどこまでもカッコつけたがりなので
きっと死に際も美しく散ってしまい、
散ってしまうことでカリスマ性が増してしまうことを見越した忠相の願いでした。
実際彼は市中引き回しの時でさえカッコよく
獄門台に縛り付けられても辞世の句を詠うほどの余裕を見せていました。
町民たちは「あっぱれ!」だとか「それでこそ!」だとか
勝手に盛り上がってみせます。
よもやこのままか…と思っていた矢先、
いざ刃が脇腹めがけて突きささんとすると
「いやだー!助けてくれー!俺は悪くない!」と
突然暴れ出す義賊かまいたち。
あまりの豹変っぷりに思考の追いつかない町民たちでしたが、
しばらくすると夢から覚めたかのように
「なんだ、カッコ悪い」などと吐き捨てて散っていってしまい、
人身の心が離れていったことを見た忠相がただ一人
誠に素晴らしい義賊であったと認めて胸をなでおろすというお話なのでした。

このエピソードがしるすほど、死に際は美しくあってはならない
というのが私の考えていることだったりします。
いや、一般的なおだやかな死の場合は別ですけれど。
カッコいい散り方っていうのはいくつもあって、
私も御多分に洩れずそういったものは大好物です。
だけど、そういったものは大抵美化されていて真実味もないし、
死に急ぐバカも出てきてしまうものです。
今は生まれてきたからには死に急いではいけないんだと思っているのです。
太く短く生きることに憧れはあるけれど、
そんなドラマティックなものでなくていいんです。
半径45cmにいる人々を大切にし、
その45cmをつないでつないで輪を大きくし、
現実的な地に足のついた幸せを広げていければ良いのです。
幸せの定義だって一つじゃないけれど、
穏やかに優しく、そういったものであるよう願っています。

とはいえ、人は刺激も求めるものだから
そのおだやかさも否定されてしまうものなのでしょうけどね。

そんなことを考えていました。

みなさんも半径45cmの人を大切にされてくださいね。
いなかったりしても、まぁそれはそれで。
一番大切な人を大切に。モイモイ
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