10時間を超える大作、真景累ヶ淵を聴き終えて
あまりに複雑な人物相関があるのでメモしながら聞いていたものの
その壮大さに感服していたsachiakiです。
物語は色々と好きなものがあるけれど
「カラマーゾフの兄弟」を読んでから、
これを超える本が自分の中ではあまりなかったのですよね。
「虐殺器官(伊藤計劃)」だったり「暗鬼(乃南アサ)」だったり
「天帝妖狐(乙一)」だったり「四畳半神話体系(森見登美彦)」が
好きで、こういったやや軽やかな話というか
現代小説の類が好きだったんです。
それがやはり古典の重厚感っていうのはヤバイですね。
同じ紙面とは思えない、1ページの中の情報量が違います。
そんなわけで時折青空文庫で読める程度のものから
岩波文庫から出ている古典など読んだりしているんだけど
落語の世界もすごいわ…って今なっているところ。
そう考えるとミュージカルとか古いお芝居をちゃんと見たことがないので
こちらもきっと煮詰まったドロドロと濃い人間を見ることができるんだろうな〜。
とかなんとか。
いやまぁ、濃い人間関係っていう意味ではテレビドラマなんかもそうで
「渡る世間は鬼ばかり」とかまさにそれらに該当する人間劇なんだけど、
なんかそちらはイライラしてしまって見られないのですよな……。
きっと私の中にあるコンプレックスなどが引っかかっているんだと思います。
ドラマについては人間関係中心のものよりも
物語中心な「トリック」みたいなものしか見られないんですよね。
う〜ん、なんだろうか。
少し紐解いてみようとすると、
現代ドラマの方は作り物であったとしても
自分から身近なところの問題のようで手に届きそうで届かない感じが
なんとも歯がゆいのではないかと思います。
妙にうわべのところで描かれているというか、
伝わりやすさを強調させたいがためか
なんとなく鼻についてしまう感じなのです。
あれね、人の愚痴やら下世話な世間話を聞かされているような
そういう感じが品性を感じさせなくて嫌だなって感じるんだけど……
いやいやいや、ちょっと待てと。
自分の品性がそんな高貴なのか?っていうと
それは全く違っていて、おそらく自分の隠している品性を
ドラマではつまびらかにされている分イライラさせられるんだろう
って自己分析していました。
古典は隠すことなく下品であったりする野趣あふれる人間味が醸し出されていて
そこでは自分のこともベールをはがさずに見ることができて
イライラせず、単刀直入に人間の持つ本性
というやつをジックリ観察できるから好きなんだろう
とか、そんなことを考えたりしてました。
22歳の頃に仲がよかった人から
「sachiakiさんは文学好きそうだよね」って言われた時は
「いや、文学はなんとなく暗く感じて苦手で……」なんて返していたのに、
すっかり見透かされていたのだなと
今では関心してしまうほどでございますよ。
私が好きなマザーテレサの名言で
「思考は言葉になり、言葉は行動になり、行動は習慣となり、
習慣は性格となり、性格はいつか運命となる」
ってのがあるんですけれど、本当に思考は回り回って運命を引き寄せるのだろうと
そんなことを最近は強く感じるのであります。
40歳を超えても美しいまっすぐなものを好んでいれば
その人はきっとまっすぐな運命を引き寄せ……
って書いたところでふと気づきました。
私の母は身内が言うのもなんですが、性根がお嬢様な人だったので
人に対して寛容で、態度は鷹揚ながらも細かいことによく気を配る
そんな人だったものですから、苦労ばかりしてきた分
歳を取って子供が自立してからは自分ごとだけを気にかけて
ゆったりとした老後を過ごすものだと思っていましたけれど
まったく報われる気配もなければ、
畳み掛ける体の不具合で認知の方もまずくなってきている今日この頃なのです。
心根が美しければ美しい運命が転がり込んでくる。
そういうものでは…どうもないらしいですね。
そういや古典文学なんかを読んでも
心根の優しい清く正しい人間ほどひどい目にあっている気がします。
私が好きな映画の一つに「隠し砦の三悪人」がありますが
ある意味意地汚く、ことに対して柔軟な人間が
一番うまく人生をライドしている気がします。
これは「そういうものだ」という諦観がある程度必要なことなのかもしれません。
良いことも悪いことも「そういうものだ」と受け入れ次の一手を考えて行動する。
世の中は塞翁が馬っていうけどね。
かといって運命論で片付けるとダメ人間の私としては
どこにも救いがないなぁと肩をすくめてしまうんですけどね。
さて、もっと別のことでも書こうかと思いましたが
すでにだいぶ長くなってしまっているのでこの辺にて。
そんじゃまた。モイモイ
あまりに複雑な人物相関があるのでメモしながら聞いていたものの
その壮大さに感服していたsachiakiです。
物語は色々と好きなものがあるけれど
「カラマーゾフの兄弟」を読んでから、
これを超える本が自分の中ではあまりなかったのですよね。
「虐殺器官(伊藤計劃)」だったり「暗鬼(乃南アサ)」だったり
「天帝妖狐(乙一)」だったり「四畳半神話体系(森見登美彦)」が
好きで、こういったやや軽やかな話というか
現代小説の類が好きだったんです。
それがやはり古典の重厚感っていうのはヤバイですね。
同じ紙面とは思えない、1ページの中の情報量が違います。
そんなわけで時折青空文庫で読める程度のものから
岩波文庫から出ている古典など読んだりしているんだけど
落語の世界もすごいわ…って今なっているところ。
そう考えるとミュージカルとか古いお芝居をちゃんと見たことがないので
こちらもきっと煮詰まったドロドロと濃い人間を見ることができるんだろうな〜。
とかなんとか。
いやまぁ、濃い人間関係っていう意味ではテレビドラマなんかもそうで
「渡る世間は鬼ばかり」とかまさにそれらに該当する人間劇なんだけど、
なんかそちらはイライラしてしまって見られないのですよな……。
きっと私の中にあるコンプレックスなどが引っかかっているんだと思います。
ドラマについては人間関係中心のものよりも
物語中心な「トリック」みたいなものしか見られないんですよね。
う〜ん、なんだろうか。
少し紐解いてみようとすると、
現代ドラマの方は作り物であったとしても
自分から身近なところの問題のようで手に届きそうで届かない感じが
なんとも歯がゆいのではないかと思います。
妙にうわべのところで描かれているというか、
伝わりやすさを強調させたいがためか
なんとなく鼻についてしまう感じなのです。
あれね、人の愚痴やら下世話な世間話を聞かされているような
そういう感じが品性を感じさせなくて嫌だなって感じるんだけど……
いやいやいや、ちょっと待てと。
自分の品性がそんな高貴なのか?っていうと
それは全く違っていて、おそらく自分の隠している品性を
ドラマではつまびらかにされている分イライラさせられるんだろう
って自己分析していました。
古典は隠すことなく下品であったりする野趣あふれる人間味が醸し出されていて
そこでは自分のこともベールをはがさずに見ることができて
イライラせず、単刀直入に人間の持つ本性
というやつをジックリ観察できるから好きなんだろう
とか、そんなことを考えたりしてました。
22歳の頃に仲がよかった人から
「sachiakiさんは文学好きそうだよね」って言われた時は
「いや、文学はなんとなく暗く感じて苦手で……」なんて返していたのに、
すっかり見透かされていたのだなと
今では関心してしまうほどでございますよ。
私が好きなマザーテレサの名言で
「思考は言葉になり、言葉は行動になり、行動は習慣となり、
習慣は性格となり、性格はいつか運命となる」
ってのがあるんですけれど、本当に思考は回り回って運命を引き寄せるのだろうと
そんなことを最近は強く感じるのであります。
40歳を超えても美しいまっすぐなものを好んでいれば
その人はきっとまっすぐな運命を引き寄せ……
って書いたところでふと気づきました。
私の母は身内が言うのもなんですが、性根がお嬢様な人だったので
人に対して寛容で、態度は鷹揚ながらも細かいことによく気を配る
そんな人だったものですから、苦労ばかりしてきた分
歳を取って子供が自立してからは自分ごとだけを気にかけて
ゆったりとした老後を過ごすものだと思っていましたけれど
まったく報われる気配もなければ、
畳み掛ける体の不具合で認知の方もまずくなってきている今日この頃なのです。
心根が美しければ美しい運命が転がり込んでくる。
そういうものでは…どうもないらしいですね。
そういや古典文学なんかを読んでも
心根の優しい清く正しい人間ほどひどい目にあっている気がします。
私が好きな映画の一つに「隠し砦の三悪人」がありますが
ある意味意地汚く、ことに対して柔軟な人間が
一番うまく人生をライドしている気がします。
これは「そういうものだ」という諦観がある程度必要なことなのかもしれません。
良いことも悪いことも「そういうものだ」と受け入れ次の一手を考えて行動する。
世の中は塞翁が馬っていうけどね。
かといって運命論で片付けるとダメ人間の私としては
どこにも救いがないなぁと肩をすくめてしまうんですけどね。
さて、もっと別のことでも書こうかと思いましたが
すでにだいぶ長くなってしまっているのでこの辺にて。
そんじゃまた。モイモイ