constructive monologue

エゴイストの言説遊戯

亡国のポリフォニー

2005年10月29日 | knihovna
『諸君』や『正論』などと比べて、同人誌的ノリが否めない左翼系雑誌『インパクション』『前夜』に、相次いで『亡国のイージス』の書評が掲載されている。両者とも「亡国のイージス」に同時代的な雰囲気、すなわち国家的なるものを希求する情緒的な心性を看取している。

今年の邦画界において福井晴敏の小説を原作とする「ローレライ」、「戦国自衛隊1549」、そして「亡国のイージス」が立て続けに公開され、それなりの話題を呼んだ。とりわけ「これが戦争だ!」というキャッチコピーで、戦後60年を迎えた日本社会に対してある種の「現実」を突きつける「亡国のイージス」は、まさに現代日本を容易に想起できる時代設定のため、小説および映画という作品の内的世界だけにとどままらず、否応なくそれを取り巻くコンテクストと関連付けて読まれ、観賞され、論じられることになる。

製作において、石破茂の「鶴の一声」で実現した自衛隊の全面協力を受け、産経新聞社が後援し、公開までに毎週紙上で特集を組むなど積極的なプロモーションを行ったことは、一定の予断を与える余地を残すことにもなった。たとえば韓国では「反動右翼の宣伝映画」という見方が現れ、ジョンヒ役のチェ・ミンソに対して非難が向けられたのも、公開前で、原作を知らない者による謂れのない非難であったとしても、「亡国のイージス」のコンテクストがそうした予断を醸成する役割を果たしてことも否定できない。

いわばこうした作品自体とは異なる部分に注意が集まることは、作品世界に対する理解、あるいは作品が持つ潜在性を縮小させてしまうことにつながる。たしかに福井の長大な原作を2時間ほどの尺に収めた映画は、アクション重視になり、人間関係、あるいは福井が作品を通して伝えようとした「国のかたち」を十分に具現化できていなかった面もある。その意味で、映画と原作を別個の作品としてみるべきだろうし、同一視して論じることはあまり意味のあることではない。

その一方、映画と原作を切り離すことは、換言すれば、原作の中に何らかの「真理」や「真実」があるとみなす姿勢にもつながる。映画では捨象された数々のエピソードに触れることによって作品世界の深みを垣間見ることができる。しかし、原作と映画を別物と区別することによって原作の真正さを救い出そうとすることは、原作の構成や世界観に対する批評/批判をあらかじめ封じ込める役割を果たす。いうなれば、批評の只中に生贄として映画を差し出すことによって、原作に向けられる眼差しの鋭さを緩和しようとする作用である。

しかし映画が福井の小説を原作とし、福井自身も映画化に積極的に関わっている事情からすれば、作品とその外部世界の境界線は容易に取り払われるものにすぎない存在であろう。あるいはより多くの耳目に触れることになる映画という媒体手段によって広まった「亡国のイージス」のイメージは、作品自体が潜在的に持っている読みの多様性を選別し、一定の解釈コードへと収斂させる機能を果たす。ここに「亡国のイージス」が単なる娯楽作品として受容されず、政治性を帯びざるを得ない要因が潜んでいるといえる。
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