constructive monologue

エゴイストの言説遊戯

プーチン(院政)体制の逆説

2007年12月12日 | nazor
来年2008年は「短い20世紀」の主役であったアメリカとロシアで大統領選挙が実施される年である。長丁場の選挙レースが展開され、民主・共和両党の候補者指名から新大統領の当選まで紆余曲折が予想されるアメリカに比べて、ロシアの場合はプーチンがメドヴェージェフ第一副首相を後継候補として指名したことによって実質的に「終了」し、あとはどれだけの支持を集めるかという信任投票の色彩が濃く、民主主義の指標であるところの選挙の意味合いが形骸化しているともいえる。先の下院選挙におけるプーチン率いる「統一ロシア」の圧倒的勝利についても不正選挙の疑惑が浮上しているように、ロシアにおける民主主義は欧米基準に照らし合わせると異質なものに映り、「ロシアには民主主義は根付かない」という文化決定論的な主張が正当性を高める結果を導く。そしてそれは欧米諸国の不安あるいは怖れを醸成し、ロシアの異質性をさらに強化するサイクルを形作ることになる。とはいえ批判の急先鋒であるアメリカも実際には民主主義の理念を裏切っている実情を考えるとそうした不安や怖れの根拠は弱く、アイデンティティ政治の一環として把握するべきかもしれない。

ロシアの今後に関する議論の焦点は後継者であるメドヴェージェフの政策や思想、行動力ではなく、退任するプーチンの動向に向けられている。大統領三選を目論んでいるとか、ベラルーシと国家統合を行いその連合国家の大統領ポストに就くなど「院政」の形態をめぐってさまざまな可能性が噂されてきたが、メドヴェージェフがプーチンを首相に指名する意向を明らかにしたことによって、いちおうの決着を見ることになったといえるだろう。

ソ連解体によって誕生したロシアにおいて、政治指導者の交代はエリツィンからプーチンへに続いて二度目になるが、前回の場合もプーチンは傀儡に過ぎずエリツィンの「院政」が続くとする見方もあった。しかし在任中から健康面での不安が明らかであったエリツィンには「院政」を敷くだけの体力も気力もなく、結果的にエリツィン体制からプーチン体制への移行は大きな混乱をもたらすことなく進んだ。それに比べると、メディアでその筋骨隆々の肉体が報じられるようにプーチンは健康不安とは現在のところ無縁であり、経済混乱の暗いイメージを喚起するエイリツィン時代とは対照的にエネルギー産業の好況に依拠した経済繁栄によって特徴付けられるプーチン時代の印象が国民の間に強烈に残っているため、プーチンの「院政」という予測が現実味を帯びて語られるのは当然だといえる。

他方でプーチンの「院政」という捉え方は、準大統領制、なかでもいわゆるフランス型の大統領=議院内閣制を採っているロシアの政治制度に予見される将来において変更がないことを前提としている(この点に関する簡潔な議論は、津田憂子「大統領制と議院内閣制をめぐる議論の変遷――ロシアにおける政治制度変更の可能性」『体制転換後のロシア内政の展開』北海道大学スラブ研究センター, 2007年を参照)。しかしプーチンの首相就任が規定路線となることが明らかになったことによって、政治制度そのものの変更が実施される可能性が生じてくる。その場合、準大統領制という大枠を維持したままで、ドイツ型の首相=大統領制に移行し、大統領の位置づけが形式・象徴化され、現在の状況では経済政策に特化している首相の権限が外交・安全保障といったほかの政策分野へ拡大し、強化されることが考えられる。あるいは通俗的な理解とは異なり、政治指導者の権力基盤や権限が大統領制よりもはるかに強いイギリス型の議院内閣制への根本的な制度変更も可能性として考えられる。こうした政治制度の変更が生じた場合、首相の地位に就いたプーチンは、大統領である現在と同じように公式にロシアを代表する国家指導者と認知され、非公式的に政治を操るイメージの強い「院政」という表象はそぐわない。

ポスト・プーチンのロシア政治をプーチンの「院政」と呼ぶか否かにかかわらず、当分の間はプーチン時代が継続するとすれば、民主主義の理念とは相容れない政治状況とはいえ、一定の安定が担保される。すでに多くの論者が指摘するように、民主化の途上において紛争/戦争が生じやすいことを念頭に置くならば、世界政治においてそれなりの存在感を有しているロシアに混乱をもたらすような変化は望ましいものではなく、「帝政民主主義」と形容される現在のプーチン体制を許容することが求められてくる。外発的な形での民主化を要請することは結果的にさらなる帝政化を招きかねない。むしろ現在の安定を担保している経済状況の動向次第では、経済繁栄の実態が暴かれ、プーチン帝国の虚像が明らかになったとき、はじめて内発的な変革の契機が開かれるのではないだろうか(ロシアの脆さについては中村逸郎『虚栄の帝国ロシア――闇に消える「黒い」外国人たち』岩波書店, 2007年がその実情を垣間見せてくれる)。経済状況が下降局面に入った場合、それを補填する形でいっそうの安定を内外に誇示する必要性から、強権的な統治手法に依拠する傾向が強まることは否定できないが、他方である意味で神格化しつつあるプーチン像に対する見方に影響を及ぼす。経済面での安定というプーチン体制の権力資源が揺らぐことによって、その権威主義的な統治がもたらす負の側面が浮き彫りになり、国民の間に政権に対する疑念が覚醒することもありうる。

たしかに現在のプーチン体制は、マクロ政治面では「統一ロシア」を軸とした政府党体制が制度化され、ミクロ政治の位相ではかつてのコムソモールを想起させる青年組織「ナーシ」のような熱狂的な「下からの」支持によって補完されている点でちょっとした危機には動じないように見える。しかしながら政治に対する信頼や支持が制度ではなく政治指導者個人のパーソナリティーに求められる状況は、政治の持続性の観点から見れば、意外にも脆弱であり、ひとつの失政が指導者の政治能力に対する幻滅やその全否定に容易に転化することになる。失政の責任を側近や閣僚に転嫁することによって回避することもできるだろうが、それは国民の間で新鮮な記憶として残っているエリツィン体制末期と重なりあい、権力基盤の強化には結びつかないだろう。その意味で、プーチン(院政)体制の今後は欧米諸国が危惧するほど磐石ではなく、むしろ民主主義の契機を逆説的に準備する時期となりえる潜在力を秘めていると見るべきかもしれない。
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