constructive monologue

エゴイストの言説遊戯

自壊する/自戒しない民主党

2007年11月05日 | nazor
先の参議院選挙での大勝、そして安倍(前)首相の「政権放棄」的な辞任劇によって、政局の主導権を握り、攻勢に出ようとしていた民主党であるが、そのトップに立つ小沢代表の突然の辞任表明により、その流れは一変し、守勢に立たされることを余儀なくされている。たしかに安倍前首相との会談には一貫して拒否の姿勢を示しながら、福田首相と二度にわたって党首会談を行い、その場で自民党との大連立構想に対して理解を示す小沢代表の姿勢には、二人だけの密室会談という要素も加味されて、不可解な印象が纏わりつき、筋が通っていないように受け取られても仕方がないところである。

それにしても、政権与党の失政や不祥事などで民主党に対する期待が高まる絶好の機会を前にして、党内事情によって勝手にコケて、政権獲得の可能性が後退し、結果的に政権与党を利することになる光景は、いまや民主党の「お家芸」と言ってよいかもしれない。2004年の「年金国会」では、小泉首相(当時)をはじめとする閣僚の年金未納問題を追求していたものの、菅直人代表(当時)自身にも未納問題が発覚し、党首辞任に追い込まれ、次いで2006年にはライブドア堀江社長の逮捕や耐震偽装問題などの疑惑が相次いで浮上する状況で、いわゆる「永田メール問題」であえなく自滅し、当時の代表だった前原誠司の引責辞任と並べてみると、今回の小沢代表の辞任表明もこうした民主党のDNAがなせる業であると理解したくなる。

2004年の民主党の混迷を受けて、政治学者の山口二郎は、今後の野党にとって二つの教訓が引き出されると述べている(『戦後政治の崩壊――デモクラシーはどこへゆくか』岩波書店, 2004年: 82-83頁)。第一に「正攻法による政権交代という道筋の重要性」であり、第二の教訓は、「国会における与党との戦い方で、明確な反対を貫くことの重要性」である。今回の小沢代表辞任表明は、この二つの教訓とは正反対の行動を採ったことの帰結であったといえる。「ねじれ国会」のため、重要法案の審議が捗らず、国政の停滞を招いているという批判の矛先は、本来であれば権力の座にある政権与党に対して一義的に向かうべきものであるが、一見正当な意見だと思われる「政権担当能力」という、実のところ野党の存在論的価値をまったく無視した要請に応えようとするあまり、大連立構想に魅了されてしまったところに「学習能力」のなさがうかがえる。

さらにいえば55年体制が崩壊した1993年以後の日本の政党システムを鑑みたとき、大連立政権の効果がどれほどものであるかという点も疑問のあるところである。ヨーロッパ大陸諸国のような多党制というよりも小選挙区制の導入によって英米型の二大政党制に近い政党システムが定着しつつある一方で、その二大政党である自民党と民主党との政策およびイデオロギー距離はほとんどなく、むしろそれぞれの党内を横断する形で政策をめぐる対立軸が走っている「ねじれ」状態がポスト55年体制の日本政治を特徴付ける点であろう。経済政策における新自由主義路線を採用し、「自民党をぶっ壊す」と謳った小泉政権の誕生によって、経済社会政策をめぐる対立軸が明確になる条件が整いつつあったものの、その後の安倍・福田政権による揺り戻し(「古い自民党」への回帰)はその可能性を閉ざしてしまい、政策的な距離を軸とした二大政党制の定着までに時間を要することは明らかである。もともと1980年代に包括政党化した自民党が分裂を繰り返すことによって現在の自民党・民主党の(擬似)二大政党制へと結晶化してきた経緯を考えると、現在の日本の国政空間は55年体制時に比べてかなりの程度縮小してしまったといえ、その狭い空間内で二大政党が争っているというわけである。すくなくとも大連立政権の実績のあるドイツやイタリア、あるいはオーストリアの例を見れば明らかなように、戦争や経済不況といった「危機」が政策・イデオロギー上の距離を超えた連合に対する需要を生み出してきたわけであるが、「ねじれ国会」に象徴される現在の政治状況がそうした「危機」といえるのかどうか、すなわち大連立が最適解とみなすには判断材料が十分に吟味されたとはいいがたい。「対決の政治」に慣れておらず、また「妥協=和解の政治」が容易に「談合の政治」に帰着してしまう日本の政治文化、そしてさらにいっそうの国政空間の均質化が進んだ状況において、大連立に求められる政策的革新の効果はそれほど高いものではない。反対に政治的な緊張感が失われ、政治へのアパシーを増進することになりかねない。

あるいはこの大連立を契機として新たな政界再編の可能性を期待する向きもあるが、政策上の対抗軸に沿った形での政党の結晶化が射程に入らない限り、結局のところ1993年以降の政界再編と同じく「自民党の内紛」の延長線上に留まらざるをえない。そうであるとすれば、大連立構想に対して「大政翼賛的」という批判が付き纏うことは避けられない。また大連立を模索するにしても、代理人にすぎない政治家同士の駆け引きに委ねるのではなく、それこそ山口が指摘するように、有権者の判断を仰ぐのが常道であろう。いずれにせよ、代理人たちの政治的未熟さを露呈させているのが7月の参議院選挙の結果を受けた現在の日本政治をめぐる状況である。
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