パンセ(みたいなものを目指して)

好きなものはモーツァルト、ブルックナーとポール・マッカートニー、ヘッセ、サッカー。あとは面倒くさいことを考えること

投票しなかった人の意志はどう反映されるか?

2024年01月19日 09時40分52秒 | あれこれ考えること

せっかく投票率等の世論調査があるのだから、その中に入れてほしいものがある
それは投票しなかった人への問で

●何故、投票しなかったのですか?
   忙しかった、関心がない、自分ひとり投票しなくても変わらない、誰がやっても同じ
 投票する人がいない 投票する人物を判断できるほどの人間ではない 
●投票しなかった行動は、政治にどのように反映されると思いますか?
  自分の意志は反映されない 自分の意志は多数の意見として反映される
 投票しなかったのでどうなっても文句は言わない
●投票しなかったことで、しまったと思ったことがありますか
   ない  ある  こんなもんだろう  
●しまったという思いを繰り返さないためにはどうすれば良いと思いますか?

ぱっと思いつくのがこんなこと
特に二番目の、投票しなかった人の意見は政治にどのように反映されると思うか
については、とても関心がある
自分は結果的に投票しない人の多いことは現政権に有利だし、利用されると思っているが
投票しない彼らはそうした想像を働かすことはないのだろうか

こんなことを考えたのは、今盛んにニュースで扱われているパーティ券キックバック問題で
自民党は組織ぐるみでこのような行為を行っているように思われ
いかに良い地元の代議士でも深く反省をしてもらうために落選という現実を味わってもらうのが
彼らのためにも日本のためにも良いことだと信じているが
果たして自分が思うようになるのだろうか?が不安なためだ

この事態に至っても相変わらず、選挙では同じ自民党の人物が当選してしまうかもしれない
ということに対する不安
そうなれば、今回の裏金問題の本当の原因は有権者の方にもあるような気がする

何があっても自民党、、思考停止して寄らば大樹の陰、、みんなと同じの態度を継続する
現状の利権を継続したい、、などなどの思い
確かに自民党議員は地元で顔を売る活動は他党と比べて細やかだしフットワークも軽い
だが、国政の多数決の一票としての彼の権限は、顔をよく知っているからというだけで
全面的に彼任せとしてはならないことと思う
投票する人は、時には誰かが良いというだけでなくてその人を選んだらどうなるか?
を想像した上で行ったほうが良いと思う

つまりは、人は独裁を許さないように緊張感のある状態(それなりの野党の議席数)を
あえて作ることが必要と思う
これはデモすることで視覚的にそれだけの人数の人が反対意見を有している
と実感させるのと同じ意味合いなのだが、、さて

相変わらず、まとまらない話!


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「ラウリ・クークスを探して」を読んで

2024年01月18日 09時15分08秒 | 

気の滅入る昨今、救われたのはこの本の読後感が良かったこと
少し前の中日新聞でも紹介されていた
「ラウリ・クークスを探して」宮内悠介

現代のロシアと周辺国の難しい問題も扱われているが
真正面から問題提起といった内容ではなくて
エストニアのどこにでもいるような普通の人ラウリの(プログラミングの才能は抜けているが)
生きていた足跡を探した物語

タイトルの「探して」というのは「誰が」探しているのか?
は最初は日本人の誰かがなにかのきっかけで探すことになっているのかと
想像したが、探していた人物は最後の方で明らかにされる

プログラミングの才能(そもそも関心を持つこと自体が才能があるのかもしれない)
は図抜けているが、それ以外は対して存在感のないエストニアの子どもラウリ
彼は引っ込み思案でいじめっ子の被害にあったり、ようやくできた友達との
僅かな幸せの時間を過ごす
この部分はヘッセの「デミアン」の子供時代の部分を思い出した

この本で一番不思議だったのは、情景描写等を精緻を期するために
ページが文字でいっぱいに詰まっているわけではないのに
(むしろ空き空きのページが多い)
そこに書かれている情景が容易にイメージできたことだ
必要最低限のこうした文体はとても読みやすい
それが作者の個性とか才能というものだろう
(何でもかんでも正確に描写すればいいというものではなく
   肝心なのは読者の想像力を喚起することだと実感する)
なんとなく「朗読者」の読みやすかった物語を思い出した

バルト3国のなかのエストニアはロシアとの関係は複雑だ
ウクライナと同様にエストニアにもロシア系の住民がいる
エストニアがソ連からの独立を求める人々とそうでない人の
ちょっとした混乱が、ラウリ・クークスのやっと手にした幸福の時間を変えてしまう

ただし、その視点は社会問題化されずに、あくまでも小市民のラウリの物語として扱われる

最近の読書は物語を司どる書き手のポテンシャルの総量を感じて
それが不足していると実感すると楽しめないことが多いのだが
この本は文字量が少ないにも関わらず、書き手の総量を感じ楽しめた
そして終わり方が、ハッピーエンドとまでは行かなくても
極めて後味の良いものになっているのは、本当に救われた気分になる

この本の帯には高評価の文字が並んでいるが
読んだ者の感想として、「読んで損はない!」と断言できる





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誰かの言葉を借りて自分の思いを語ると

2024年01月17日 09時11分34秒 | あれこれ考えること

パソコンの中には読んで気になった文章とかコメントが残されている
似たようなことを感じても自分の発言は説得力がないので
今日は、残しておいた中からの抜き出しをピックアップ

世の中のネトウヨと言われる人々のヒステリックな対応を
思い浮かべるのが、ル・ボンの「群衆心理」からのこの言葉

群衆は、推理せず、思想を大雑把に受け入れるか斥けるかして、論議も反駁も許さず、しかも群衆に作用する暗示は、その悟性の領域を完全におかして、ただちに行為に変わる傾向を有することを説いた。また過度の暗示を受けた群衆は、彼らに暗示された理想のためには、進んで一身を犠牲にすることを述べ、最後に、群衆は、強烈で極端な感情のみを知ることを説いた。群衆にあっては、同感はただちに崇拝となり、反感が生まれるやいなや憎悪に変わる。これら概括的な説明によって、すでに群衆の抱く確信の性質をうかがうことができる。


次にオルテガの「大衆の反逆」から

大衆とは、みずからを、特別な理由によって、---よいとも悪いとも---評価しようとせず、自分が《みんなと同じだ》と感ずることに、いっこうに苦痛を覚えず、他人と自分が同一であると感じてかえっていい気持ちになる、そのような人々全部である。

オルテガ大衆批判は辛辣を極めている。ただし彼が批判する「大衆」とはよく誤解されるように特定の階層のことではない。階級や社会的地位とは関係なく、自分の意見を持たずに大勢に流されるような人間たちの事を大衆と呼ぶのである。従って富裕層や支配者層に属していても、空気に左右されやすいような性格を持っているのであれば、その人間は「大衆」の一員なのである。

大衆の反対は「エリート」であるが「エリート」もまた、特定の階層や職業を意味するものではない。オルテガによれば、「エリート」すなわち「選ばれた少数派」とは、「自分に多くを要求し、自分の上に困難と義務を背負い込む人」のことである。
エリートは、「自分よりもすぐれた、自分の彼方にある規範にみずから訴えることが必要だと、心底から感ずる性格をもっていて、その規範のために易々として身を捧げる」のである。そのような自らに厳しい規律を課している人間であれば、寿司職人であろうがプロ野球選手であろうが、「エリート」と呼ぶことができる。反対に高級官僚であろうと財界の幹部であろうと、「自分に何ら特別な要求をしない人」であれば、それは大衆的人間にすぎないのである。大衆というのは「社会階級の区分ではなく、人間の区分、であって上層、下層の階層序列とは一致するはずがない」とオルテガは明言している。


「私にとっては、貴族とは努力する生の同義語であって、常に自分に打ち克ち自ら課した義務と要請の世界に現実を乗り越えてはいっていく用意のある生である」再び確認しておくと、ここで言う「貴族」とは特定の階級のことではなく、人間の高貴な生き方のことである。これに対して大衆的人間とは、今の自分に満足し、安穏として暮らせる現状にあぐらをかき、自己鍛錬をすることなく、いい加減に日々を過ごしている者のことである。こうした大衆は、発達したし近代産業文明の中で、豊かに安全な暮らしを保障されるようになったことで世にはびこるようになった。大衆とは近代産業文明から生まれてきたのである。

 

フロムの「自由からの逃走」から

無力な存在を支配する力を得たいと言う欲望と並んで、圧倒的に強い力に服従し、自己を絶滅したいという欲望が存在する。大衆は繰り返し繰り返し、個人はとるに足らず問題にならないと聞かされる。個人はこの自己の無意識さを承認し、自己をより高い力のなかに解消して、この高い力の強さと栄光に参加することに誇りを感じなければならない。彼は理想主義の定義のなかで、この考えを明白に表現している。すなわち、「理想主義だけが、ひとびとに力と強さの特権を自発的に承認するようにさせ、そして人々を宇宙を形成する秩序の中かの一片の塵にさせる。


少しばかり深刻な内容なのがハンナ・アーレントの全体主義の起源(3)からの部分

全体主義運動の大衆的成功は、あらゆる民主主義者、とくにヨーロッパ政党制度の信奉者が後生大事にしていた2つの幻想の終わりを意味した。
その第一は、一国の住民はすべて同時に公的問題に積極的な関心を持つ市民であり、全員が必ずいずれかの政党に組織されるというところまではいかなくとも、それぞれに共感を寄せている政党はあり、たとえ自分では投票したことがなくとも、その政党によって自分を代表されていると感じているという幻想である。
ところが運動が実証してみせたのは、たとえ民主制のもとでも住民の多数派をなしているのが政治的に中立で無関心な大衆であることがあり得ること、つまり、多数決原理に基づいて機能する民主制国家でありながら、実際には少数者だけが支配しているか、あるいは少数しかおよそ政治的な代表者を持っていないという国がある、ということだった。
全体主義運動が叩きつぶした第二の幻想は、大衆が政治的に中立で無関心なら政治的な重要性を持たないわけだし、たとえそういう大衆がいるとしても実際に中立的立場を守り、たかだか国民の政治生活の背景をなすにとどまっている、とする考えである。全体主義運動は権力を握った国にとどまらずすべての国の政治生活全体に深刻な衝撃を与えたが、それはつまり民主制という統治原理は住民中の政治的に非積極的な分子が黙って我慢していることで命脈を保っているに過ぎず、民主制は明確な意思を表示する組織された公的諸機関に依存しているのと全く同じに、意思表示のない統制不可能な大衆の声にも依存している、ということがはっきりと露呈されたからである。

無関心層が少数者の支配を可能にしているとか、弱い庶民は強い方に帰属して安心していたいとか
大雑把に理解した思想をまるで宗教のように信じ込み、それに反対する輩に対しての攻撃的な姿勢とる
これらは、どの時代にも見られる傾向で、避けられないかもしれないが
それらを知っていることは、きっと何かの役に立つと思う

それにしても、わかりにくい文章が多いのは何故なんだろうか?

 

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個人的なこと(辛い時間の耐え方?)

2024年01月16日 09時31分31秒 | ダイアリー

今日は全く個人的な内容で、読まれることよりも
自分が自分のために残したもの

「時よ止まれ、お前は美しい!」
眠れぬ夜、急に浮かんだ言葉がこれ
ゲーテのファウスト(二部)の最後の方で出て来るセリフ

生きることに飽きたり絶望していたファウストが
メフィストフェレスに死後の魂を任せることを条件に
メフィストフェレスは様々な人生経験をファウストにさせる

楽しいこと、辛いことを含めた経験をした上でファウストは
全肯定的な世界観にたどり着く
それがこのセリフ
だが悪魔(メフィストフェレス)は約束を果たすべく
自分の世界(地獄?)にファウストの魂を引き込もうとする

その先は少し予定調和のようなところがあるが
人にとっては、そのような救いが無いと辛い
大きな視野に立つ何か(神)はファウストを救い出し
大団円で物語は終わる

眠れぬ夜、今日まで当たり前のように過ごしてきたことが
今はいつ悲しみの底に落ちるかもしれない状況(妹と母の健康)で
それに対する不安、恐怖、絶望感が一旦頭に浮かぶと
それらは頭から離れられない

だが、この苦しんでいる時間こそは実は生きている瞬間とも言える
にっちもさっちも行かないこの経験をしているこの時の時間経過は
ものすごく濃厚で、生きていればこそのように思われる
だから開き直って、思い切りこの時間を味わい尽くそうとも考えた

だがそう簡単に気持ちは切り替えることはできない
そこで不意に出たファウストのセリフからインスパイアされて出てきたのが
今からは「自分で自分を褒められるようなことをしよう」だった

約30年前、大好きだった祖母が亡くなった
父は祖母よりも先の47年前に心臓の病で急死してしまった
祖母の世話母がずっと見守った
そして自分は、父が心配で仕方なかっただろう祖母に対しては
父が(向こうの世界で会ったときには)「よくやった!」
と言われるように接した
それは自分大好きだった祖母にお返しができることでもあり
ありがたいことに弱った祖母は「私は幸せだ!」と時々口にした

その時の「父に褒められるようなことをする」という基準が
今度は「自分で自分を褒められることをしよう」を基準に
すれば良いかもしれない、、、と浮かんだのだった

誰か他人の評価ではなく、自分の評価
情けない横着者を自覚している自分
その自分でも「よくやったと自分を褒める」ことができれば
「時よ止まれ、お前は美しい」の境地になれる気がする

こうした思いを表に出すことは社会的にはなんの意味もないかもしれない
だが、少なくとも自分は少しは救われる

妹は今日病院からホスピスに移動する







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嘘をつくつもりでいる人から本当の話は聞けない

2024年01月14日 10時21分45秒 | あれこれ考えること

今日は偏った話 
気を悪くする人がいるかも知れないがご勘弁を!

既視感、浮かんだのはこの言葉だった
連日新聞テレビを賑わせている自民党派閥のパーティ券裏金問題
検察は意見聴取を行った政治家の起訴は見送るらしいとの速報を目にした

やはり!との思いと同時に襲われたのが既視感
いつか見た景色、それがまた繰り返される

本来ならば経験しない方が良い裁判を経験したものとして強く刻まれたたのは
世の中は「ああ言えば、こう言う」世界で成り立っているということ
それは昔の人も実感していて、以前読んだ「プロパガンダ」にはこのように書かれている


裁判が精緻な調査と言葉同士の戦いというものの、争点をあえて曖昧にするのは
戦いの方法論として存在し、そこに政治的な力学が働けば
世の中の人の常識とか正義感は果たすことができない

そこで思うのは、「嘘をつくつもりでいる人から本当の話を聞くことは難しい」
というあたり前の事実だ
そもそも検察から事情聴取を受けたからと言って派閥関係者は本当のことを
口にすることなどありうるのだろうか、、
(口裏合わせの時間もたっぷりあったし)
まして、政治家が起訴されるには高いハードルが存在し、そのハードルは
政治家に有利に働くものとするならば、政治家はその弱点をついて「知らぬ存ぜず」
という手段をとることは想像できる
(こうなってしまうのは政治資金規正法という法自体が緩いものだからとの意見がある)

話は変わって、安倍派のパティー券キックバックをやめるように!
としたのは安倍さんだという
これは今では多くのメディアで事実として伝えられている
だがへそ曲がりは少し疑問を覚える
この話が事実とする何らかの証拠があったのだろうか?
派閥の人間から聞いただけなら、それをすぐさま信じて良いものだろうか
そしてメディアは無邪気に報じて良いものだろうか

このような疑問を持つに至ったのは、この話がいち早く岩田明子氏から出たからだ
そしてそれを報じたのが産経新聞
岩田氏も産経新聞も明らかに安倍氏よりの報道を行う人とか媒体だ

安倍氏がキックバックをしないようにとした考えを持っていたことに疑問を
おぼえるのは、彼の行ってきたことを顧みると、その思考パターンとか
行動パターンと違っているからだ

彼は桜を見る会で山口県の人々を優先的に招待し
その前日には破格の価格でパーティを行っている
(この破格値の実現は常識的に怪しさを払拭できない)
過去にそのような判断をする人が、パーティ券のときだけ
全うな判断をすることなどありうるだろうか

最近、現代の世の中はソフトな独裁になっているのではないか!と思う
ソフトというより、知らないうちにの方が良いかもしれない

独裁は世界的にも増えているようだ
手間のかかる民主主義よりは即断即決ができ、実行が素早い制度としての
「いい人」の独裁を求める人が多くなっていると思われるが
「いい人」に疑問が生じてしまう
「いい人」は短期には存在しうるかもしれないが
「いい人がいい人であり続ける」のはとても難しくて
確率的に人にはそれは無理だと思えてしまう
だからこそ、人は制度として任期の制限を考えだした

プーチンも習近平も任期を長くする法律を作ったし
安倍さんも自民党総裁の任期を長くする制度に成功している

こうしてみると、世の中はディストピアになっているかもしれない
と無力感が襲ってきそうだが、庶民は実は検察以上に力があるかもしれない
それは庶民が不起訴にされた政治家に投票しないという選択をすれば
彼らは実質的に罰を受けることになる

不起訴だから悪いことはしていない!と言い切るには
不記載の金額が非常に大きな金額になっているという事実を鑑みると
すべてをスルーで許されるものではないと思う

ということで、検察が罰を与えないなら庶民がそのかわりをする
という選択はありうるものだと思う
それらの判断が多少の早とちりだとしても、その誤差は許される範囲内と思う
そうでないと、その先に明るいものは見えてこない気がする

ところで、政府関係者が能登の現場に今もって行かないのは
庶民の知らない原発の事情があるからだ、、との考えが一部のSNSで広がっている
これが本当か本当でないかは分からないが、そのように考えたほうが
いろいろ説明がつくように思えるのも事実だ

日曜の朝らしくない、、少し怒りを覚える話




 

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変なところが気になってしまう(今回はビートルズ編)

2024年01月13日 09時34分42秒 | 音楽

世間評価が高い曲が好きってことはない
ビートルズでは「ストロベリーフィーズ フォー エバー」とか
「イン・マイ・ライフ」が傑作の評価が高いが
自分は好きではないとうより関心がない
もしかしたら、それらの曲は歌詞が意味深なのかもしれないが
歌詞にはあまり気にせずに音楽だけを聴いているので
そんなに心動かされない

そのかわり変なところが気になる
例えば、「フール・オン・ザ・ヒル」のリコーダーのメロディ
歌のメロディを奏でるところではなくて、全く別のメロディで伴奏するところ
それがとても美しくてうっとりしてしまう

他にも「ガール」の二番目のヴァースから始まるギター伴奏
この伴奏と歌との絡み合いはとても音楽的な充実感を覚える
そしてもう少し後半になると別のギターが同じ音を2回奏でて
リズミと音程を少し変えて、絡むように曲が進行するところも良い

有名なモーツアルトの「きらきら星変奏曲」は「ドドソソララソソ ファファミミレレド」
と単純なメロディだが同じ音を2回使っている
これを1回にして「ドーソーラーソー」とやってみると、全く陳腐な感じがしてしまうし
音楽に活気が無い
「ガール」の伴奏音形(同じ音を2回演奏するところ)はこれを思い出す

「カム・トゥゲザー」は冒頭のベースが印象的で、それにリンゴのドラムスが
音階的に絡むのが完成度が高く思われるが、ベースの音色については
ポールの弾くのが最適だと思う(聞き慣れているせいもあるが)

ジョン・レノンがライブで「カム・トゥゲザー」を歌っているCDがあるが
その演奏のベース奏者は音程とかメロディが同じだけで、音色が違う
ただ低音部をカバーしているだけに過ぎない、、と違和感を感じてしまう
音楽は音色も必要要素なのだと感じる次第

今では少し自慢話になるがポールマッカートニーのアルバム「ラム」は
発売された当時から自分は凄いアルバムだと思っていた
ビートルズが解散してポールがソロ・アルバムとして「マッカートニー1」のあと
出した本当に音楽的に盛りだくさんのアルバムで、夢中になって聴いた

しかし世間評価は全く肯定的ではなかった
ビートルズが解散した原因をポールと決めつけ、音楽は軽薄のものと判断し
彼を批判することが「通」のような雰囲気さえあった

しかし、それから随分時間がたった今は、再評価されて彼のベストアルバムとして
大ぴらに宣言する人も出てきやすくなっている
(桑田佳祐氏もラムが大好きと言っているようだ)
自分はずっと支持していたので「それ見ろ!」と低評価してきた人々に復讐したい気分

土曜の朝だからお気楽にもう一つ
自分はビートルズの音楽はアルバムで聴いて、ベスト盤で聞くことはなかった
つまり赤盤・青盤で聴くことはなかった
それが今回赤盤・青盤のレコードを購入してみて、不思議な感覚を覚えたことがあった

「ア・デイ・イン・ザ・ライフ」が青盤に入っているが
この曲はアルバム「サージェント・ペパーズ」の最後の曲で
カラフルな熱気に満ちた架空のライブのおしまいに歌われる曲として登場する

アルバムのように、曲の前の賑やかさがあってこそここの曲の味わいは深くなる
それが、なんの必然性もなく曲が並べられているだけの状態は、、
なにかとても変な気分だ

同じく青盤に収められた「ホワイル・マイ・ギター・ジェントリー・ウィープス」も
ホワイト・アルバムではこの曲が終わったあと「ハッピネス・イズ・ア・ウォーム・ガン」が
静かに歌われ、そのコントラストが良いのだが、
このような単なる曲の羅列はなんだか変な気分になってしまう

ということで、土曜の朝、気の滅入ることの多い中
お気楽に好き勝手に吠えてみた



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まとまりのない話をあれこれ考えること

2024年01月12日 09時33分47秒 | あれこれ考えること

音楽は繰り返し聴くのに、本は繰り返し読まないのは何故だろう
要する時間が全く違うのは大きな理由の一つと思われるが
簡単に読める詩歌などでもめったに繰り返し読むことはない(自分は)

詩歌は短いものは覚えてしまって本を開くまではないこともあるが
覚えている、覚えていないはあまり関係無いような気がする
音楽は覚えているが、それでも聴くという場合が大半だからだ

すると、脳の快感を感じるところが音楽と読書は違うのかもしれない
音楽を繰り返し聴きたいと思うのは、普段は出番のない感情をゆり動かされるとか
音楽に刺激されてあれこれ思い浮かべるとか、単に心地よいためだと思われる

自分に限っては音楽は言葉がない方が面倒くさくなくて良い
歌とかオペラとか宗教音楽は歌詞があるし、ロックやポップスも
歌詞が大きなウエイトを占めるが、自分はいつもそうしたものを無視して
音楽だけを聴いて満足することが多い

音楽に身を任せて感じること、連想だけでなくフト気づく音楽の構成とか
ちょっとしたアイデアとか、楽器間同士の対話とか、そうしたものが
妙に心地よい
(長い交響曲ではこのフレーズは主題の変形なのかと不意に気づくことがあり
 それが満足感を感じることがある)

音楽は、音楽で考えるとか感じるということが面倒くさくなくてい良い
というのが自分の音楽に対する向かい方

この自分の傾向は、世の中にはいくらかの割合で存在するらしい
数年前読んだブルデューの「ディスタンクシオン」では
学歴、所得、就業形態、社会的地位など属性と趣味(好み)の傾向を
膨大なアンケートをとって調べた結果が記されていたが
そこでは音楽が「くるみ割り人形」を好む層と「春の祭典」を好む層
具象的な肖像画を好む層と抽象画を好む層
映画でもストーリーを楽しむ層と俳優さんの演技を楽しむ層に
分かれていることが明らかにされた
それらは接する機会の多い少ないが好みに影響している
と結論づけられている

しかし、周りの環境ばかりではないような気もする
田舎に住む自分は音楽的に恵まれた環境ではなかった
ただある時、特別な体験をしたことがきっかけだったに過ぎない

この体験はいつか記すとして、話を今度は読書に変えると
読書している時の快感、何度でも読書しようとする理由はいったいなんだろう

読書はあちらから世界がやってこない
文字情報から自分の頭で想像の世界を作り上げねばならない
その想像の世界は個人だけが作り上げている世界で、
その世界のほうが映画などに実写化された世界より良いと思う人は多い

結局のところ、音楽も読書も頭の中で起こっていることの楽しみに過ぎない

と、ここまで来て関西ではオチがない!と文句を言われそうな状態になってしまった
もう少し考えてから取り組むべきだったこの問題
昨日寝床でいろいろ考えていたが、消化不良で始めたからこんなになってしまった

確か齋藤孝さんだったと思うが、難しい本は何故難しいか?(ヘーゲルの本のようなものは)
との答えに、著者も書いている時に迷って、考えがまとまっていないので
それが難しくしているとの解説があった

全部が分かってスッキリ発表できることに越したことはないが
そうはできないのが凡人
つい最近何回も改訂を繰り返したブルックナーの交響曲の初稿版の
4番を聴いたが、まとまっていないな、、、と第一印象
この迷いの多いブルックナーに親近感を覚えてしまう

ホントまとまらない話!




 

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平安時代を舞台とした小説を読んだ

2024年01月11日 09時29分24秒 | 

今年最初に読んだ本(小説)は、新聞の紹介欄にも掲載された「月ぞ流るる」澤田瞳子

大河ドラマ「光る君へ」と同じ平安時代を舞台にした物語
主人公は栄花物語の作者の赤染衛門(ここでは朝児【あさこ】として書かれている)
栄花物語という作品は知らないし、当然赤染衛門も知らない
だが、時代の雰囲気とか背景を知るために読み始めた

ところが、すぐに困ったことに直面した
登場人物の名前が覚えられないのだ
名前が覚えられないのは年齢のせいもあるが、使われている漢字が
現代で使われている読み方をしないこともある
例えば西行の出家前の名は(この物語には西行は登場しないが)佐藤義清の文字だが
読み方は(さとうのりきよ)で、このような例がいくつもあって
小説は最初登場する時に読み仮名をふってあるが、こちらとしては出る度に
読みがなはふっておいて欲しいと思う
この時代は家系図を理解しないと始まらないので
最初のページに登場人物の家系図やら関係図が書かれているが
一回見ただけではわからない(情けない!)

もう一つ困ったことは、物語を書いている作者の人間的なポテンシャルを感じてしまい
その総量が不足していると思えるときは一気に関心が薄くなってしまうことだ
これはわかりにくい感覚なので例を挙げると、軽いミステリーを読んでいる時と
ドストエフスキーの小説を読んでいる時の違いのようなもので
ドストエフスキーの濃密な時間経過を経験すると、おもしろくても軽いミステリーは
おもしろくなく感じてしまうというのと似ている

ということで後半は、ミステリーの顛末だけを追う雑な読み方になってしまった
残念ながら赤染衛門が物語(栄花物語)を書き始める使命感・必然性が
どうも自分には伝わらなかった
ただ、何かを残しておく、その評価はのちの人に任せる
と覚悟を決めたところは、こうして田舎のおっさんが
意味あるか無いかわからないものを残しているのと似ているかもしれない

ところで登場人物の藤原道長が、先日見た大河ドラマの道長とは全然違うキャラクターで
ちょいと頭が混乱してしまった

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もう少し短くできなかったのだろうか?

2024年01月10日 08時54分46秒 | 徒然なるままに

もう少しなんとかならないものかな!
と思えたのが、石川県への義援金の手続き

郵便局の窓口からは手数料はかからないので
ATMからではなく書類に必要事項を書いて送金するようにした

記入欄に「加入者名」がある
これがとても長く18文字もある
「石川県令和6年能登半島地震災害義援金」
この蘭に記入する場合は、小さな文字で書かないと枠からはみ出てしまう
自分用の控えにも同じように、この長い文字列を書かなければならない

文字を書くことが少なくなっているので、これが面倒くさい
この加入者名は、お役人さんが真面目に決めたものだろうが
これでは親切なお年寄りは面倒がってしまいそうだ
(少なくとも自分はそう思った)
口座も用件も分かっているので書き手の負担を少なくするために
加入者名を短くする!としたほう良かったのではないか
行政は使いやすいとか、わかりやすい表現に取り組んで欲しい思う

文句ばっかり言ってるようだが、案外大事なことのような気がする


 

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「そんなはずではなかった!」と思わないためには

2024年01月08日 09時43分18秒 | あれこれ考えること

朝からニュースは自民党のパーティ券ノルマ達成以上のお金が
プールされた件で逮捕者が出たことを伝えている

又聞きだが、朝生で「なぜ政治にはそんなにお金がかかるのだろう?」
という問に、片山さつき氏が
「全国から(?)為書きを依頼されると、それだけで2〜300万円かかる」
と答えたそうだ
「そんなもの、やめればいいじゃないか」
と一蹴されたようだが「為書き」という聞き慣れない言葉が気になって
多分アレだろうと想像しながらネットで調べると
やはり選挙事務所にやたらと多く掲げられる有力政治家の名前が書かれたものだった

そんなものは事務所に来た人しか見ることはできないし
そもそも選挙事務所に来る人は始めから応援している人だろうし
そんなに役立つとは思えない

政治にお金がかかるは、選挙はお金がかかると言い換えることができそうで
●当▲落という言葉があって、●億円準備できれば当選し
▲億円しか準備できないと落選するという意味だ
(つい受験時の○時間寝ると合格で、△時間寝ると不合格という
 徹夜の勉強を強いた言葉を思い出した)

実際、選挙はお金がかかる
衆議院小選挙区では300万円を一時預り金として収める制度があって
選挙が終われば、そのお金は返却されるが
投票数が規定以上に達しない候補者は、この供託金は没収される
これは地方自治体の選挙でも同じで、新城市議会選挙の供託金は30万円だ

特に国会議員については、世界の国と比べて金額が大きくて
以前から問題視されているようだ
OECD 加盟国の選挙供託金制度について→170726OECD.pdf (greens.gr.jp)
選挙は地盤(支持者層)・看板(知名度)・鞄(お金)と言われるが
鞄のお金が無いと立候補すらできないものになっている

ところで、日本の投票率はすごく低いが、2年ほど前に読んだ本の中に
(スウェーデンの小学校社会科の教科書を読む)
「自分たちの意志とか行動で社会を変えることはできない」
との考えに否定的な回答者と肯定的な回答の割合を比較したものがあった

ここで衝撃的なのは日本は「イエス」と答えた割合が圧倒的に多いことで
他国は「ノー」の答えがそれなりにあった
つまり、日本は自分たちで何かを変えられないという無力感に苛まれている国
ということで、単に投票率が低いだけの問題ではなさそうだ

そこで、次に投票しない人の意志は誰によって反映されるかを想像してみた
統計の世界によくある一部サンプルを取り出して調べることによって
選挙結果で全体の傾向(意志)を見ることができるというのは
投票する人は必ずしも日本の全体像では無いから、その理屈は使えない
(投票する人は利権に関わる人だったり、決まった党の応援者だったりして
  投票しない人たちとは著しく異なると思う)

だが投票しない人の意志は、結果的には選挙結果の数に反映されてしまう

話は変わるがイギリスのユーロ離脱の国民投票の時、
多くの国民は「離脱に対し反対」との結果になるだろうと思い込んでいて
結果がわかっているから、少しは賛成票を投じてみるか、、
との安易な考えで投票してしまった人が多かったそうだ
結果を見て「そんなはずではなかったのに、、」と途方にくれたそうだ

この「そんなはずではなかった!」というのは日本の投票しなかった人たちの
気持ちに近くはないだろうか?
自民党の逮捕された議員を当選させたのは、選挙にいかなかった人の責任(選択)でもある

と言って、分別くさく投票にいかなかった人を批判する気はない
いかなかった気持ちも分からないではない
(面倒くさいし、自分らの声が反映されるかわからないし)

でも、一人ひとりは経験で賢くなるべきだとは思う
長期政権や一党独裁状態は必ず淀む、、
これは悲しいくらいの現実で、時と所を問わず人の有様はこうだ
肝心なのは政治的な力のバランスをとること、、それが知恵のような気がする

ということで、選挙にいかない人はブレーキ係役を演じるために
ちょいと足を運んで、批判票を選択するのもありかな、、と思ったりする

選挙は熱くなる人が多いので、こうしたお気楽な考えには
文句を言いたい人がいるだろうな

コメント
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