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Biting Angle

アニメ・マンガ・ホビーのゆるい話題と、SFとか美術のすこしマジメな感想など。

東京都現代美術館「館長 庵野秀明 特撮博物館 ミニチュアで見る昭和平成の技」

2012年07月16日 | 美術鑑賞・展覧会
東京都現代美術館で「館長 庵野秀明 特撮博物館 ミニチュアで見る昭和平成の技」を見てきました。




土曜日に見に行ったのですが、開館の10時直前には既に100人ほどが列を作ってました。
まあ実際には半分くらいが当日券の窓口に並んだので、開場から5~10分後には中に入れましたが。

さて、会場に入ったら真っ先にするべきことは、音声ガイドの借用です。

私は展覧会を見るときにガイドを借りない人ですが、今回だけは特別。
なにしろ庵野作品で数々のキャラクターを演じた清川元夢氏が、ナレーションを務めているのです。

しかも解説の総数は実に70個と、一般的なガイドの3倍以上!
一部の解説には作品の主題歌や効果音を被せたり、ベテラン特撮マンへのインタビューが収録されたりと
大変に手の込んだつくりになっていますので、これを聞かずに済ます手はありません。

入り口を入ってすぐに、副館長である樋口真嗣氏が自ら書いたフリーペーパーが置かれています。
イラストをふんだんに使って、ミニチュアを用いた特撮に関する基礎知識が丁寧に説明されており、
特撮になじみのない人にもわかりやすいガイドになっています。

展示内容は11のパートに分かれており、それぞれにテーマを持たせたタイトルが付いてます。

◎人造 原点1
ここには往年の東宝特撮を中心に、宇宙船や超兵器を中心とした様々な造形が集められています。
中でも目を引くのは『海底軍艦』と『惑星大戦争』の轟天号、73年版『日本沈没』の「わだつみ」、
『メカゴジラの逆襲』で使われたオリジナルの着ぐるみなど。

『ゴジラ対メガロ』に登場したロボットヒーローで、『新世紀エヴァンゲリオン』のジェット・アローンの
元ネタとして知られる、ジェットジャガーのオリジナルマスクもありました。
また壁面には、それぞれの作品に関するポスターや設定画などが展示されています。

コーナーの最後には、庵野館長が愛してやまない円谷SF特撮『マイティジャック』の「マイティ号」の
巨大な復元模型が置かれています。
そして壁面を飾るのは、小松崎茂先生と成田亨先生によるイメージ画の数々!
実はMJをちゃんと見たことがない私ですが、この展示には震えました。

◎超人 原点2
ここはタイトルどおり、ウルトラマンを中心とした超人ヒーローたちに関する展示です。
成田亨氏や池谷仙克氏のデザイン画に、ウルトラマンの飛び模型、そしてマン、セブン、80のマスク。
しかしそれ以上に燃えるのは、地球防衛チームが使用したメカの数々かもしれません。

ジェットビートル、ウルトラホーク1号、マットアロー1号・2号、マットジャイロ、タックアロー、
コンドル1号にラビットパンダ…もうたまりません。
特にウルトラマンタロウでZATが使用した巨大戦闘機「スカイホエール」の存在感は圧倒的です。

しかしそれにも増して私の心をとらえたのは、『スターウルフ』のバッカス三世号でした。
口さがない若者はこれを見て「スターウォーズのパクリじゃん」と言いながら通り過ぎていきますが
これこそ円谷プロが本格的なスペースオペラを始めて手がけた、記念すべき作品の主役メカ。
内心で期待してはいたのですが、本当に展示されてるとは…これを見られただけでも大満足です。

『恐竜探検隊ボーンフリー』のボーンフリー号もありましたが、同じ「円谷恐竜シリーズ」である
『恐竜戦隊コセイドン』や『恐竜大戦争アイゼンボーグ』の展示はありませんでした。
人間大砲とかアイゼンボーグ号とかも見たかったけど、現存する資料がないのだろうか…。

その先の通路上スペースには、様々な特撮ヒーローのマスクが並んでいました。
流星人間ゾーン、トリプルファイター、ジャンボーグA、変身忍者嵐、スペクトルマン、シルバー仮面、
アイアンキング、サンダーマスク、ザボーガー…。

やばい、マスク見てると脳内で主題歌がガンガン鳴りまくって、思わず歌いたくなるじゃないか!

宣弘社といえば「スーパーロボットシリーズ」も制作していたので、ここは庵野さんも大好きだという
『マッハバロン』も出してほしかったけど、残念ながら展示にはありませんでした。

◎力
こちらは劇中で破壊される前や、破壊された後のミニチュアを展示していました。

今はなき東急文化会館の上には五島プラネタリウムが鎮座し、06年版『日本沈没』の民家や
リアルな電柱などの模型が置かれた上には、『沈まぬ太陽』の巨大な旅客機が吊られ、さらに
やはり06年版の『日本沈没』で無残に崩壊した国会議事堂が飾られているという構成。
なんだか「ミニチュアで見る現代日本史」といった感じすら漂っています。

そしてこの先には、まさに「今の日本」を象徴する作品が待っています…。

◎特撮短編映画『巨神兵東京に現わる』
特撮博物館のために制作された、9分3秒の特撮短編映画。
光学合成による映像編集は行っているものの、特殊効果については「CG一切なし」という
厳格なルールで制作されています。
モノローグ形式のナレーションを務めるのは、林原めぐみさん。

…映像については、「すげえな、巨神兵って実写化するとこうなるのか」という存在感に尽きます。

ヒトの形をした圧倒的な破壊が天から降りてきて、我々の世界を焼きつくす。
その禍々しい存在感と、つくりものなのにリアルな街並みに何を感じるかは、人それぞれでしょう。
私は最後の映像に、漫画版『デビルマン』のラストシーンを思い浮かべました。

ただし、舞城王太郎氏による「言葉」は、劇中で流さなくてもいいんじゃないかと思いましたが。
映像は映像によってのみ、自らを語ればいいと思うもので…ましてや特撮の場合には。

◎軌跡
『巨神兵東京に現わる』ができるまでの軌跡として、庵野さんが『風の谷のナウシカ』で描いた
巨神兵の原画と『巨神兵東京に現わる』のラフコンテ、樋口監督による詳細な絵コンテ、さらに
前田真宏氏による巨神兵デザインとイメージ画(実はこっちのほうが面白い話になりそうだった)
そして竹谷隆之氏による巨神兵のプロトモデルが展示されていました。

ここで見逃せないのは『巨神兵東京に現わる』の制作現場を撮影した約15分の記録映像です。
本編で完全なCGに見えた特殊効果が「アナログな特撮技術」であったことや、伝統的な技術と
斬新なアイデアを融合させた映像表現の追求には、ある意味で本編以上に驚かされました。

ここには、いまや日本が失いつつある「モノづくりの魂」が、今も生き続けているのです。


この後は、地下の展示室へ移動します。一度降りたら、後戻りはできません。

◎特殊美術係倉庫
東宝の特撮倉庫を模した展示室。
とにかくありったけの資料を持ってきたという感じで、戦車や電車、潜水艦にヘリコプター、
さらにゴジラの頭部や脚部からキングギドラの着ぐるみまでが展示されています。
中には『ローレライ』で海洋堂が作った超特大の伊507といった大物もありました。

◎特撮の父 円谷英二
円谷氏の使用したサイン入り台本や撮影用カメラなどを展示。
また、『ゴジラ』で登場した最終兵器「オキシジェン・デストロイヤー」のオリジナルも
飾られています。

◎技
美術監督やデザイナーの仕事、さらに造形師や加工技術者たちの技を紹介するコーナー。
東宝特殊美術課の造形技師・小林知巳氏が、平成ゴジラの原型を作った工房も再現されています。

◎研究
前半は『巨神兵東京に現わる』の撮影に使われた様々な技術の解説。ここの映像も必見です。
撮影に使用された巨神兵の本体とキノコ雲も、ここで見られます。
後半は特撮で使用される各種技術の説明と実演モデルの展示。

◎感謝 原点3
庵野館長からの謝辞と、特撮への思いが掲示されています。

◎特撮スタジオ ミニチュアステージ
『巨神兵東京に現わる』を含め、様々な特撮映画で使用されたミニチュアを集めた
巨大なジオラマセットが展示されており、セットの中に入ることもできます。














この建物は『ゴジラ ファイナルウォーズ』で使用されたもの。


セットをさらにリアルにする小道具の数々。


よく見ると、ここは渋谷センター街でした。


東京タワーを指先ひとつでダウンさせる、樋口監督の等身大パネルも展示してあります。



このジオラマは写真撮影可能なので、みんな自分のカメラで思い思いに撮影してました。

ただし中まで入って撮影するには、列に並ぶ必要があります。

その横には室内を撮影するための内引きセットもあります。





ここでは記念撮影をする人が多いため、さらに長い行列ができてました。

内引きセットのクローズアップ。

マンガやゴジラのソフビ人形も全部ミニチュアです。
そして壁に貼られてるポスターは、あの『ガンヘッド』。

グッズショップは会場を出たところにありますが、外からは入れません。
figma巨神兵はこちらで販売。ヴィネットつき前売の交換もこちらのレジで行います。
図録と絵ハガキ等の一部グッズ、カプセルトイについては1Fの売店でも販売していますので、
こちらは展示を見なくても購入できます。

売店まで来るのにかかった時間は、約5時間。
展示を見るだけなら3時間でも回れそうですが、音声ガイドを聴きながらだとさらに1時間、
ジオラマを撮るのに少なくとも30分は見込んでおくべきでしょう。

今回の展覧会で展示されている数々の資料や造形物は、どれも貴重なものばかりです。
しかしそれ以上に価値があるといっても過言でないのは、それらを生み出す「技」の数々。
その技を持つ人々と現場での奮闘について、ここまで本気で紹介してくれたことがうれしいし、
本当にありがたいことだと思います。
庵野館長、樋口副館長、そしてこの展覧会に関わったすべての特撮マンに、深く感謝いたします。

そしてこの技と現場がこれからも必要とされ、末永く伝えられていくことを願ってやみません。

…そして次の土曜日には、もう一度この会場に来ることになってたりして。
こんな調子だと、頭の中がしばらく特撮漬けになりそうな感じです。
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『虹色ほたる』への批判に対する、ささやかな考察

2012年06月05日 | アニメ
『虹色ほたる』について、twitterに寄せられた感想のまとめを読むと、作品についての
賞賛と批判が、かなりくっきり分かれていることがうかがえます。
賞賛については、シンプルな感想から分析的なものまで様々ですが、批判派は数が少ないぶん、
それぞれの主張を強い言葉で表現したり、あるいは仔細に説明しているものが多いですね。

そしておもしろいのが、この批判をひとつひとつ読んでみると、ややぶっきらぼうだったり
肯定派を煽るような文章も見受けられるものの、多くの場合はそれなりに筋が通っていて、
良かれ悪しかれ作品の持つ特徴を、きちんととらえていることです。
これらを参照しながら、自分が『虹色ほたる』をどう見たかを、再度まとめてみようと思います。

これらの批判的な意見をおおまかに分類すると、だいたい次のとおりになります。

1.タイムリープや恋愛要素がご都合主義であり、全般的に論理性や必然性が欠けている。
2.昭和50年代や田舎の素朴さに寄りかかっていて、さらに当時を美化しすぎている。
3.肉親の死や恋愛といった要素に新味がなく、物語そのものが凡庸である。
4.作画が下手な(もしくはうますぎる)ため、観客を無視した極端な表現に走っている。
5.クセのある絵柄にこだわった結果、キャラクターの演技や表現がおろそかになっている。

まずは論理性や必然性について。
これらがすべての物語に不可欠とは思いませんが、本作にそのような部分は確かにあるし、
さらに言っちゃうと、物語自体はとてもありきたりなものだと思います。
口の悪い人なら、たぶん「陳腐」のひとことで片付けられちゃうんじゃないかな。

しかし、そのありきたりなお話を、アニメならではの過剰な作画によって表現したことで、
『虹色ほたる』の場合は「陳腐さ」から逃れているのではないでしょうか。
はっきり言って、このありきたりな物語を、きれいで手堅くまとまった絵で表現されたら、、
いま私が感じているような『虹色ほたる』の魅力は失われてしまうと思います。
そしたらきっと、いま以上に話題にもならなかったかもしれない。(ジブリ作品でもない限りは)

例をあげると、山村という高低差を生かした舞台設定と、それを使った上下の動きに加え、
どこか官能的な身体の躍動を組み合わせることで、子どもならではの疾走感と自由奔放さを
十分に表現した動きは、アニメでなければ、そしてこの作画でなければ、たぶん描くことが
できなかったと思います。

そして、この自由闊達な人体表現を支えるのが、時に写実的、時に情緒的な表現で描かれる、
美術的な背景の存在です。

もしすべてが不定形な線で描かれてしまったら、それはバックやユーリ・ペトロフのように
背景と人物が渾然となった、完全にアート寄りのアニメーションになるでしょう。
しかし『虹色ほたる』では、躍動する子どもの不安定な姿がどれだけ走り回ったとしても、
それを包み込むようにしっかりと支える背景があります。
まるで、彼らを取り巻く大人たちがしっかりと子どもたちを見守っているかのように。

揺るぎのない世界と、その中で絶え間なくうつろう人間によって織り成される光景。
それは見方によっては、最も現実の光景に近いものではないでしょうか。

もしもこれが実写で撮られたなら、それこそ凡庸な作品になったと思います。
そんな作品にある種の非凡さを与えたのが、アニメーションの力であったことについては
やはりきちんと評価されるべきだと思います。

また、twitter上の多くの感想を読むと、さほど時間を置かずに「あの絵に慣れた」という意見が
多数見られることを考えると、絵のクセは観る側が慣れてしまえば問題にならないのが明らか。
ですから、一部の過剰な表現についてはさておき、『虹色ほたる』という作品が終始にわたって
「観客を無視した作画」で構成されていたとするなら、それはやっぱり不当でしょう。

それでも、最後まであの絵がダメだったという人については、最初に予告編か公式サイトを見て、
これは絶対に観ないと決めておくべきだった・・・としか言えません。
嫌いなものは嫌いなままでいいし、いくら努力しても慣れないものはありますからね。

昭和50年代という「失われた時代」に託された原風景の意味は、以前の感想に書きましたが、
この作品が実際よりも田舎を美化している・・・という意見には、そうかもしれないとは思います。

しかし、そもそも主人公は「進んで山に遊びに来た」のであり、誰かに強制されたわけではない。
彼はもともと、(父との想い出も含め)なにがしかの期待を持って、ここに来たわけです。

そしてこの作品は「子ども向けかどうか」とは別に「子どもの目線」で世界を見たものであり、
そのための導入部分として「父とカブトムシを獲りに来た記憶」が配置されているのです。
その意図をわざと見逃すなら、これは映画に対して最初からバリアを張っているに等しい。

また、主人公は地元の子どもにとって「転校生」ではなく「客人」であり、それ自体が一種の
興味の対象ですから、先方から近づいてくることが特に不自然とは言えません。
まして、「村民の親族」という偽装設定があるため、不自然さはさらに減少します。
まあこのへんを「ご都合主義」とするのは否定しないけど、逆に余計なもたつきをなくす上では
うまいことやったなぁ、という感じのほうが強いですね。

さらに、主人公の滞在が一時的なものであること、そして山あいの村の自然とコミュニティが
あと1ヶ月程度で永遠に失われるという時限性が重なり合うことによって、子どもたちの夏は
必然的に切迫した、かけがえのないものになって行きます。
ここで彼らの体験が通常よりも美化されていくのは、むしろ必然のものでしょう。

そして、楽しそうな子どもたちの仕草や表情に見られる細かい演技と、それらにこめられた
高揚感や恥じらい、あるいは葛藤が、時にじわじわ、時にドラマチックに伝わることによって、
観客とキャラクターの距離は縮まっていき、自然に彼や彼女に対する共感を深めていきます。
そのとき、スクリーンに映るのはもう他者ではない、自分の分身としての特別な存在なのです。

もし自分とは別の存在として、登場人物を突き放して見た場合、この感覚は得られないでしょう。

また、ありきたりということは、よく言えば「わかりやすい」ということでもあります。
それはつまり、多くの人の共感を得られる物語だとも言えます。
特に子ども時代の素朴な思い出や肉親の死、さらに恋愛といった素朴な感情に訴えかける内容は、
観客のプライベートな体験と結びついて、広く支持を受けやすい題材なのも確かです。

再度言いますが、物語としてはよく見かけるタイプのお話、ということになるでしょう。

しかし、この「よくある話」を「他ではない表現」で描くことによって、独自の境地に達したのが
『虹色ほたる』という作品であることは、既に説明しました。

ここで、作画と物語の関係について、対象的な2つの例を並べてみます。

1 「見たことのない、個性的でクセのある作画」
2 「みんなが慣れた、キレイにまとまった作画」
3 「見たことのない、個性的でクセのある物語」
4 「みんなが慣れた、キレイにまとまった物語」

たぶん、一番評価が高くなりやすいのは、2と3の組み合わせでしょう。
そして一番多く作られるのが、2と4の組み合わせでしょう。
1と3の組み合わせは、うまくいけば大傑作、あるいはカルト作品になるでしょう。

そして『虹色ほたる』の物語は、間違いなく4です。
だとしたら、他と違う作品にするために選ぶべき選択肢は、ひとつしかありません。

また、いくら凝りに凝ったシナリオでも、物語が初見で「わかりにくい」と思われてしまうと、
観る側の警戒心が強くなってしまいます。
ですから物語そのものはわかりやすく、しかしプロットはやや複雑に(時間線を3本引いている)、
そして演技は密やかに見せることで、それに気づいた人が作中にずるずる引き込まれていくという
非常に手の込んだ作り方をしているのが、『虹色ほたる』の巧みさだと思います。

さて、今回は自分が『虹色ほたる』という作品のどこを評価したか、それだけを書きました。
ですから、あまり良くないと感じたり、あるいは関心のない部分については触れていませんし、
それが何かについても、説明するべきではないと思っています。

なぜなら、それは個性的な作画がやがて気にならなくなるのと同じように、自分にとっては、
この作品の魅力の前では、まったく無視できる程度の不満だからです。

また、そこを直せば・・・という気持ちもある一方で、私以外の人が好きな部分を否定するのも、
なんだか了見が狭い気がしますから、ここでは書かないことにします。
殺伐とした気持ちは、この作品に一番ふさわしくないものですからね。

減点法では測れない『虹色ほたる』の美しさは、観た人が自分でつかむしかありません。
未見の方は、できればソフト化される前に劇場で観ていただき、自ら確かめて欲しいと思います。
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宇田鋼之介監督作品『虹色ほたる~永遠の夏休み~』感想

2012年06月03日 | アニメ
東映アニメーションの新作『虹色ほたる』を見てきました。

実は絵柄や登場人物が完全な子ども向けに見えたので、見に行く予定はなかったんですが、
ちょうど深夜に再放送があった宇田鋼之介監督のTVシリーズ『銀河へキックオフ!!』を
たまたま見て、そのテンポのよさと演出センスにハートを鷲づかみにされてしまいました。

この監督の作る劇場作品なら、かなり期待できるんじゃないかなーという気持ちが高まったところへ、
twitterに『マイマイ新子と千年の魔法』のファン仲間から寄せられた賞賛の声が続々と到着。

やっぱりこれは見るべき作品かも・・・とあわてて上映館を探したのですが、近所では上映してないし、
一番近い上映館でも1日1回のみ、しかも近々終了とか。
ネット上で良い評判が続々と出ている最中だというのに、それが世間に広まる前に興行を打ち切られる
映画界のシビアな現状を、痛いほど思い知らされました。

ようやく見つけた劇場で『虹色ほたる』を観た感想ですが・・・とにかくおもしろかった!
“こどもの世界”を生き生きと描いている点で、先に観ていた『ももへの手紙』よりも、
自分にとってはしっくりくる感じでした。

個性的な作画にばかり話題が集中してますが、物語自体はとてもわかりやすい、実に普遍的なもの。
しかし、それを緻密に組み上げられた設定と繊細な演出、そして優れた美術で支えることによって、
他とは違った独自の良さを生み出したのが『虹色ほたる』という作品です。

とにかく見どころが多いので、映像と物語に分けて紹介してみましょう。

まずは、映像の持つ魅力について。
筆描きのように強弱があって、関節部で途切れる線で描かれた動画には確かにクセがありますが、
この線はどこかで見た気がする・・・と思ったら、日本の絵巻物の描線によく似ています。
(絵巻物との類似については、twitter経由で評論家の永瀬唯氏からもご教示いただきました。)

とりわけこれを強く感じたのは、ヒロインのさえ子たちが浴衣を着ている場面。
和服が作るひだや身体のラインが、柔らかい線で美しく表現されています。

絵巻物の異時同図法が、日本アニメに影響を与えている・・・という意見への賛否はさておき、
『虹色ほたる』がこうした発想に自覚的な作品だとすれば、欧米的な作画とは違う表現への
ひとつの試みとしても、高く評価できるのではないでしょうか。

一方で、雨や日差しの描写は、欧米の個人製作アニメを思わせるような手描き表現によって、
それ自体が生き物のように脈動しています。
このへんは、ノルシュテインやフレデリック・バックの作品を観たことのある人なら
「あ、こういうの好きだなぁ」と思うはず。

さらに背景も実に多彩で、印象派的な強いハイライト表現や水墨画を思わせる夜の描写など、
美術好きならハッとする表現がいくつも見られます。
特に山中や切り株の描写には、ワイエスや犬塚勉のような写実作家の作品を思い出しました。

とまあ、アニメに限らず多種多様な映像表現を、それこそ貪欲なまでに盛り込んでいるのが、
『虹色ほたる』という作品なのです。


映像の魅力ばかり書くと、いかにも「作画アニメ」のように思われそうなので、続いては
物語の魅力についてご紹介します。

詳しいあらすじは公式サイトを見ていただくとして、要はみんなが好きな定番ストーリーである
「タイムリープ+ボーイ・ミーツ・ガール」ですから、見ていて特に悩むこともありません。
むしろ同種作品の先輩であり、いまやこのジャンルの代名詞ともいえる『時をかける少女』よりも、
さらにストレートで純粋な「小さな恋の物語」という感じ。

しかしその定番の恋物語の中に、様々なひねりや仕掛けが施されていて、それに気づいた瞬間に
物語の見え方が劇的に変わったり、キャラクターの感情により深く共感できる・・・というのが、
この『虹色ほたる』の、一筋縄ではいかないところでしょう。
小道具やセリフにも多くのヒントが隠されていたり、小さなしぐさに重要な意味を持たせたりと、
観るたびに新たな発見があります。

さらに「過去と未来」「大人と子供」といった対比や、同じ風景を時代ごとに描き分けることで
変わるものと変わらないものを暗示するなど、様々な部分に作り手の意図が読み取れますから、
普通に映画が好きな大人の観客が見ても、十分以上に楽しめると思います。

さて、既に何度も『虹色ほたる』を観ている人には無粋な話かもしれませんが、
作品に込められたテーマ性の部分についても、少々触れてみます。

『虹色ほたる』の舞台となっている深山井は、間もなくダムの底に沈むという設定です。
ここは確かに、子供時代や古きよき時代を思い出させる懐かしい場所として描かれていますが、
一方では「近いうちに確実に失われる」ということが明らかな場所でもあります。
つまり、深山井は誰しも失ってしまう少年時代そのものであり、さらには私たちが便利さや
経済成長を求めるあまり、水中(そして記憶の底)へと沈めてきた、日本の原風景なのです。

だから、失ったものにノスタルジーを感じるだけではなく、自分たちの選んだ「現在」への
忘れがたいステップとして受け止めながら、今ある「現在」を生きなくてはならない・・・。
それこそ『虹色ほたる』という作品が、最後に伝えたかったことではないでしょうか。

これを強調しようとするあまり、最後にいわずもがなのメッセージが示されるのはやや興ざめですが、
それが『虹色ほたる』を単なる懐古趣味と思われたくないスタッフからの意思表示であるとすれば、
その思いを否定したくはない・・・という気持ちもあります。
まあ、あれがなくても十分に伝わってますよ・・・とだけは、あえて言わせてもらいますけどね(^^;。

劇中でもうひとつ、作り手側の思いがあふれ出してしまったところを挙げるとすれば、やっぱり
「灯篭まつりでの疾走シーン」でしょう。
ここでは作画がリアリズムに傾斜するあまり、それまでのキャラデザインを完全に無視していて、
これはさすがにやり過ぎだし、あとで作画崩壊とか言われそうだな・・・とも思いました。

全体の整合性を考えれば、あのシーンは確かに暴走だと思います。
しかしこれを、慎重に組み立てられたそれまでの枠組みから噴出してしまった「抑え切れない衝動」と
捉えるなら、これもまた『虹色ほたる』という作品の個性なのでしょう。


そして『虹色ほたる』の興行的な苦戦と、『マイマイ新子と千年の魔法』の時にも繰り返し言われた
「この作品は、どの客層を狙って作られているのか」という意見を目にするたびに思うこと。
それは、実写映画では子どもを主役にした「一般向け映画」の傑作が山ほどあるのに、アニメの場合は
なぜそういう見方をされないのか?という悔しさです。

・・・これこそ、アニメという表現に対して誰もが持つ「先入観」の、典型的な事例ではないでしょうか。

確かに、自分も「子ども向け作品だから」という理由で観てない作品は、たくさんあります。
でも、実際にその作品を観て、自分が感動した後なら、その時にはもう「客層」とか関係ないし、
ましてや「大人が泣ける児童アニメ」というレッテルすら不要なはず。
そのときは普通に「少年少女が主人公の、一般映画の良作」という認識を持って、その作品に
どんな魅力があるかを、その人なりの表現で語ってみせればよいと思います。

これはアニメファンに限らず、特に配給会社の宣伝部門にも、きちんと考えて欲しいところ。
そして、アニメ作品の売り方や媒体への露出方法について、もっと真剣に取り組んでいただきたいです。

・・・こうした考え方が当たり前になった時、ようやくアニメは本物の「文化」になれるのかもしれません。
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根津美術館『KORIN展 国宝「燕子花図」とメトロポリタン美術館所蔵「八橋図」』

2012年05月19日 | 美術鑑賞・展覧会
ゴールデンウィーク中の話になりますが、根津美術館で5月20日まで開催されている
『KORIN展 国宝「燕子花図」とメトロポリタン美術館所蔵「八橋図」』に行ってきました。



今回の「KORIN展」では、タイトルどおり、尾形光琳が描いた「燕子花図屏風」と「八橋図屏風」が、
約百年ぶりに揃って展示されています。

実はこの二作品、昨年のこの時期に揃って展示される予定でしたが、ご存知のとおり開催直前に
東日本大震災が発生。
その後すぐに翌年への延期が告知され、それから実に1年後、ようやくこの展示が実現したものです。

一年待つのは長かったけど、今こうして無事に2作がそろって見られたのは何よりうれしいし、
あれからもう一年経ったんだな・・・という思いも加わって、普通に見るよりもありがたみが増したように
感じました。

ミニ屏風が欲しかったのですが、グッズ売り場になかったので、チラシを使って作成してみました。

燕子花図屏風(根津美術館所蔵)

二つの屏風は、どちらも平安時代に書かれた「伊勢物語」を主題としており、主人公の在原業平が
三河国の八橋に至った際の場面を描いたとされています。
しかし先に描かれたと言われる「燕子花図屏風」では、地名の由来となった八橋は画面内に無く、
燕子花の花の群生しか描かれていません。

江戸時代、これらの作品を所有していた富裕層には古典の知識が不可欠だったので、「燕子花」とくれば
「伊勢物語」と結びつけるのが当然だったとか、あるいは花の群生が八つあるのを八橋に見立てている、
といった解釈もあるとか。

まあそれはともかく、この絵の魅力は「燕子花」の鮮やかな色とユニークな形を最大限に活かしつつ、
自然な「風景」として描いたところにあると思います。

燕子花そのものは簡略化されていますが、いかにも高級そうな顔料によって強烈に発色し、
これが金屏風の下地と合わさって豪華な画面を作り出しています。
でもこの金色を「水面の反射」に見立てると、意外に素直な風景画にも見える・・・というのが、
この絵が持つ別のおもしろさ。

光琳はこの光の具合によって、描いていない水や群生の奥行きまで表現しようとしたのでしょうか。
だとすれば、そこには若冲や応挙のような超絶描写とはまた違った「発想の斬新さ」という個性が
光り輝いているようにも思えます。

そして「燕子花図屏風」より十数年後の作品と言われる「八橋図屏風」では、名前にもあるとおり、
とうとう「八橋」が登場しました。
そしてこの八橋がまた強烈で、燕子花の花を上まわるほどに個性的な形をしています。

こちらもチラシを流用して、ミニ屏風を作りました。

八橋図屏風(メトロポリタン美術館所蔵)

橋というよりも、まるで画面の中を稲妻が走り抜けたみたい・・・むっ、もしやこのデザインには、
さりげなく「風神雷神図屏風」のモチーフが託されているのかも!(笑)

さすがに風神雷神はオーバーでしょうけど、やはりこの橋には単なるデザインだけでない、
もうひとつの意図が秘められているような気もします。
それは屏風絵という形式のみが可能とする、一種の「立体視効果」をさらに高めるための、
視覚的なトリックではないか…というもの。

文章では説明しにくいので、せっかく作ったミニ屏風を使って検証してみましょう。

屏風を折らずに見ると、やや平べったく見えます。


これを半分だけ屏風状に折り曲げると、折った側だけ立体感があるように見えてきます。


そして全部を屏風状にすると、燕子花に囲まれた橋が手前から奥へと伸びている感じになりました。


さらに板の厚みや橋桁の位置なども考慮すると、右隻と左隻の中心よりもやや左に寄って見たほうが、
より奥行き感が感じられるように思います。


「燕子花図屏風」では“描かないことで奥行きを出してみせた”光琳ですが、「八橋図屏風」では
しっかりと橋を描きつつ、屏風の角度と直線的な橋をジグザグに組み合わせたデザインによって、
新たな立体表現に挑んだようにも見えます。
また燕子花の花も以前より細密な描写になっており、絵全体がより現実の光景へと近づいたようにも
感じました。

文学作品を扱いながら、その中に光琳なりのリアリズムを持ち込もうとした実験精神の成果こそ、
この「八橋図屏風」である、と解釈することもできそうですね。

これは私の主観なので、実際に見たときにどう見えるかはその人次第でしょう。
ただし「こういう見方もあるなあ」と思いながら見てもらると、そんな気になるかもしれません。

こうやっていろいろと見立てができるのも、光琳が作中に主題となる人物などをはっきりと
描きこまなかったおかげだし、それによって初めて可能な「遊び」ではないかとも思います。
なにしろ燕子花の絵を「伊勢物語」に見立てること自体が、もともと遊びみたいなものですしね。

そして咲き誇る燕子花を眺めながら、目の前に伸びる八橋を見据えるとき、私たちは自らが
在原業平となり、彼が見ていた風景を目にしていることになるのだと思います。

二つの燕子花図を横並びで見られる展覧会が、次にいつ開かれるのはいつのことか。
・・・もしかすると、また百年待たなければならないかもしれません。
両者を見比べるためにも、この絶好の機会をお見逃し無く。

庭園では五月の節句にふさわしく、本物の燕子花が見ごろを迎えていました。





この花の色と形、そして垂直に伸びた葉の形・・・確かに光琳の描いたとおりです!
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『風の谷のナウシカ』原作ラストに対する、私的な解釈と感想

2012年05月13日 | アニメ
先日、テレビで『風の谷のナウシカ』が(何度目かの)再放送をされたとき、ネットでの反響を見て
「今でもアニメより原作を支持する人が多い」ということを確認しました。

それを見てふと考えたのが「あのラストの意味を、皆さんどう考えてるのだろうか?」ということ。
そして自分にとって、原作版とアニメ版はどういう風に違い、それをどのように受け入れているかを、
ある程度は整理しておきたい、ということでした。

そこで今回は、主に原作ラストの解釈を中心に、私なりのナウシカ観などを書こうと思います。

(ここから先はネタばれになるので、もし原作を読んでないならスルーしてください。)

原作コミック版最終巻で、ナウシカは旧世界の遺跡「墓所」の深部に突入し、旧人類が遺した
管理システムである「墓所の主」から、自分たちの生きる世界についての秘密を知らされます。
それは、腐海とその生態系が地球環境を再生するために計画された、人工的な浄化プラントであること。
さらに、その周辺に暮らす生き残りの人類たちも、実は広範に撒き散らされた毒への耐性を与えられた
改造種であり、世界が浄化されれば腐海の生物と共に絶滅する運命にある、ということです。

「墓所」には、浄化完了後に人類を元に戻す技術も保存されていましたが、ナウシカはそれを拒んで
旧人類の遺産を破壊します。
このときに彼女が発したセリフが「ちがう。いのちは闇の中のまたたく光だ!!」なのですが、
ここで彼女が言う「いのち」が、「人類」のものだとは、ひとことも触れられていません。

むしろ前後の文脈から読むと、ナウシカは腐海の存在する世界こそ、いまある「自然」の姿だと受け止め、
やがてその「自然」が滅び、新たな「自然」が生まれるなら、そこに人類だけが生き残っていること自体が
「不自然」だという考えに到ったうえで、腐海と人類が先も生き残れるかは「この星」が決めることだ、
と言い切ったように読むことができます。

生というものは本来不確実である、という自然の摂理に沿って考えるなら、ナウシカの決断は正しく、
そして崇高なものだと言えるでしょう。
実際、わたしもこの言葉に泣いてしまった人のひとりでした。

しかし、逆に言うと、このナウシカの考え方は、今のわたしたちが追い求めてきた理想としての
「自然の摂理に逆らってでも、より長く、より健康に生きたい。」
「そして自分たちが犯した過ちは、自分たちの科学と技術で正すべきだし、人類にはそれができる力がある。」
という傲慢さや驕りとは、まるで正反対のところにあるはずです。

いま、かつてない事態に直面している私たちの中で、あのラストを読んでナウシカの真意を理解し、
自分たちを含めた人類の行いを振り返ることができた人が、どの程度いたでしょうか。

そしていま、新たにナウシカの原作を読む人たちは、自分たちこそこの作品で描かれた
「旧人類の末裔で、腐海という自然と共に生きる人々」そのものであるという自覚に至り、
それでもなお、彼女の決断に感動できるかどうか・・・。
正直なところ、私自身はそれに確信が持てません。

むしろ、今の社会の動きを見た感じだと、安易な自然保護や反原子力の方向性で解釈され、
その活動に利用されるのではないか、という危惧のほうが強いです。
それはかつて、王蟲と同じ名の教団が数々の物語を捻じ曲げ、自分たちに有利な解釈を与えて
信徒たちに「救済の神話」を吹き込んだときと、全く縁がないとは思えません。

私個人としては、原作のナウシカにおける結論は、救済の論理とは程遠いところにあると思います。
それは、人類はその過ちも含む世界の在り方すら「自然」として受容し、その穢れを背負ってでも
生きていかなければいけないということ。
確実な未来を求めたり、誰かの救いにすがるのではなく、不確実な世界の運命に身を委ねて生きていくこと。
そしてこうこうと輝く光ではなく、小さくても闇の中でまたたく光として生きていくこと。

しかし、ここで私の思考は袋小路に行き当たります。
これは理想論であり、実際にこういう行き方ができるのだろうか。
人間が知恵と欲望を自覚したときから、この生き方に戻ることは不可能ではないのか・・・。

だから原作のナウシカを読むとき、私は感動と共に苦痛を感じるときもあるのです。
これを読み、これに共感すればするほど、自分の、あるいは人間の本質とはかけ離れた理想が重たくなる。

そんな時、どれだけ生ぬるくお約束な物語と言われようと、もうひとつの理想、あるいは夢の世界としての
美しい結末が示される「アニメ版ナウシカ」の存在が、私の気持ちを少しでも和ませてくれるのです。

希望がなくなったら、やっぱり人間は生きていけないんじゃないか。
そのためには、やはり希望を語る物語が必要ではないか。

そう思うと、私にはどちらのナウシカも大切だし、どちらの物語も否定する気になれないのです。

その一方、ここまで重い業を背負った人類であれば、いっそ世界を敵に回しても生き残ろうとする
悪あがきの姿こそ、種としての生き様にふさわしいとも思います。
そして、そんな気分を最もよく反映し、がけっぷちに追い込まれた人間の反撃をオタク泣かせの表現で
痛快に見せてくれる作品こそ、私が偏愛するもうひとつの傑作アニメであり、「アニメ版ナウシカ」で
巨神兵出現シーンの作画を手がけた庵野秀明氏の初監督作品でもある『トップをねらえ!』なのです。

それゆえに、私の中ではこのふたつの作品はテーマも含めて表裏一体であり、そのふたつをあわせて、
ようやく「人類」という種の性質が揃うものである、と考えています。

また作品を構成するパーツを比べても、戦うヒロイン、人類の危機、環境が原因で引き起こされる不治の病、
巨大生物と人類の対決、そして巨神兵(ガンバスター)の登場と、多くの部分で重なるところがあります。

そしてなにより、トップのヒロインが宇宙で最初に乗るメカの愛称が「ナウシカ」(笑)であること。
これは『トップをねらえ!』が『風の谷のナウシカ』の影響を色濃く受けているという自己申告であり、
一方ではこれが『ナウシカ』へのアンチテーゼだという宣言ではないか・・・とも考えてしまいます。

ちょっと話がそれましたが、原作コミックで『風の谷のナウシカ』を読むとき、感動でひとしきり泣いた後に
ラストでナウシカが何を思い、何を犠牲にする決断を下したかを、改めて考えて欲しいと思います。
それからアニメ版を見ると、また違った見え方、感じ方があるかもしれません。

・・・もしよければ、その後に『トップをねらえ!』とも見比べてもらえると、さらにうれしいのですが(^^;。
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シェリー・プリースト『ボーンシェイカー ぜんまい仕掛けの都市』感想

2012年05月10日 | SF・FT
ハヤカワ文庫SF『ボーンシェイカー ぜんまい仕掛けの都市』読み終えましたので、
あらすじとか感想をまとめてみました。

・・・物語の舞台は北米シアトル、時は1860年代。
南北戦争が長引く架空のアメリカで、凍土の下に眠るという金鉱脈を掘りあてるために
天才科学者レヴィティカス・ブルーが巨大ドリルマシン「ボーンシェイカー」を発明する。

しかしこのマシンがテスト走行中に市街地の地下を掘りまくるという暴走を起こしたことで、
街のいたるところが大きく陥没し、多数の死者が発生。
さらに掘った穴から致死性の毒ガスが噴出し、このガスが死者の一部をゾンビ化させたため、
街は「腐れ人」があふれかえる地獄となってしまった。
空気より重い毒ガスの拡散を防ぐため、生き残った人々は突貫工事で周囲に高い壁を建て、
破壊された街をゾンビもろとも封じ込めてしまう。

(ここまでが序章で、およそ5ページを使って設定を説明しています。このあとから本編。)

・・・大災厄から約15年後。壁付近にある水浄化工場で働く35歳のブライア・ウィルクスは、
二人の男の苦い記憶を引きずりながら暮らしていた。

一人は警官でありながら、大惨事の日に無断で囚人を解放した父・メイナード。
一人はシアトルを壊滅させたまま行方をくらました夫・レヴィティカスである。

二人の行いを非難する人々に囲まれ、肩身の狭い思いを強いられるブライアだったが、
辛い仕打ちに耐えつつ、最愛の息子が彼らとは違う真っ当な人間に育つよう願っていた。

一方、ブライアの一人息子であるジークは、祖父を英雄視する非行少年や犯罪者とつるみ、
ひんぱんに母との衝突を繰り返していたが、その裏には夫について一切語ろうとしない母と、
父の引き起こした事件の真相を知りたい息子との、心のすれ違いがあった。
やがてジークは父の名誉を回復しようと、壁の中に残されたレヴィの自宅兼研究室を目指して
封鎖された街へ侵入してしまう。
さらに息子の意図を知ったブライアも、父の衣装を身にまとい、ライフルを背負って追いかける。

メイナードを敬う犯罪者や封鎖都市内に残った人々の協力で、それぞれに目的地を目指す二人だが、
その前に立ちはだかるのはゾンビの群れと、壁の内側を科学力で支配するマッドサイエンティスト、
ミンネリヒト博士であった。
はたしてブライアたちはゾンビから逃げきれるのか?そしてミンネリヒトの正体とは・・・?


あらすじだけ読むと結構盛り上がりそうなんだけど、一番盛り上がるドリルメカの活躍部分は
冒頭5ページの要約のみ。そして本書で一番おもしろいのが、実はこの要約だったりします。
読む前に期待していたドリル成分については、結局ほとんど補給できませんでした。

ざっくりまとめると、親子関係がぎくしゃくした母子が冒険をきっかけに和解すると共に、
ヒロインが抱えていた父へのわだかまりと、暴君であった夫の記憶から解放されるという
要するに30代シングルマザーの自己回復物語です。
ノリはパラノーマル・ロマンスに近いけど、色恋沙汰よりは強い女性像で売り込むタイプ。

こういうのがウケるということは、あちらのSF読者には女性が多いということなのか、
それとも本書がそういう読者層をうまく取り込むことに成功したのでしょうか・・・。
いずれにしろ、マーケット受けを強く意識した内容であることは間違いないし、結果的に
その戦略がアメリカで見事に当たったのは、ローカス賞受賞という結果からも明らかです。

でも、SFとしてのスケールの大きさ、テーマの骨太さ、そして視野の大きさを期待すると、
たぶん肩透かしを食らうはず。
なにしろ徹頭徹尾、息子の心配ばっかりしてるアラフォーヒロインの話ですから・・・。
脅威の発明や壊れた世界、そして病んだ人々の姿は、この物語の中ではあくまで引き立て役。
物語の鍵となるのは常に妻と夫、そして親と子を巡る因縁に尽きます。
それは途中から登場するプリンセスやルーシーといった女性陣にも、例外なくあてはまります。

ゾンビガスから抽出されるドラッグというユニークな設定も、結局はヒロインがその密輸ルートで
封鎖都市内にもぐりこむというアイデアに使われるだけで、その後は忘れたように投げっぱなし。
そういう要素が、本作ではいくつも放り出されたままになっています。
タイトルになってるドリルメカ「ボーンシェイカー」は、まさにその代表と言えるでしょう。

そして結末、世界を修復する代わりに作者が描くのは「安全だけど息が詰まるような暮らし」から
「たとえ危険と隣り合わせでも、人に後ろ指を指されることなく生きられる新天地」に生きると、
ヒロインが心を決める姿でした。
プリーストとしては、強いヒロイン・強い母親像を書けてさぞや満足というところでしょうけど、
物語の最初に比べて何かが好転したわけでもないのに、これで感動しろってのは無理ですよ。

あとこの作者、人間も死人も含めてフリークを描くのにやたら力を入れてる気がしましたが、
巻末の解説で「デビュー後から主に南部ゴシック系の作品を書いていた」というのを読んで
あーもともとそういうのを書く人なのね、と妙に納得しました。
南部ゴシックの作家って、中も外も歪んだ人間を描くのが大好きな人ばっかりですからね。

ちなみに1860年代といえば、北米は西部開拓時代のまっただなか。
本書も西部劇の雰囲気が強く感じられるので、ネオ・スチームパンクと呼ぶよりも
むしろスチーム・ウェスタンとでも呼んだほうがお似合いな気もします。

まあ名称はどうであれ、話の平板さとスケールの小ささは変わりません。
そして外見こそスチームパンクの設定と南部ゴシックのフリーク趣味で飾りつけてはいますけど、
一皮むけば昔ながらの西部劇と、安易なフェミニズムが奇跡の合体を遂げた作品でした。
・・・これをSFとしておもしろく読むのは、私にはちょっと荷が重かった。

帯のコピー文では煽りまくってますが、さすがに持ち上げすぎ。


万が一にも、これが「ネオ・スチームパンクの最高傑作」だとしたら、このジャンルが我が国で
「SFの新たなムーブメント」になるのは、とうてい無理でしょう。
むしろこのジャンルの未来は、この後に紹介される作品の数と質にかかってくると思います。
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『ボーンシェイカー』読み始めました

2012年05月09日 | SF・FT
久しぶりに本屋をのぞいてみたら、ハヤカワ文庫SFの新刊コーナーにシェリー・プリーストの
『ボーンシェイカー ~ぜんまい仕掛けの都市~』が1冊だけ置いてあったので、とっさに購入。

実はゾンビ小説ってそんなに好きじゃないんだけど、海の向こう側で評判がいいのは聞いてたし、
改変世界でドリルメカと封鎖都市が出てくる冒険モノとくれば、とりあえず手にとってしまうのが
奇想SFファンのたしなみというものですからね。

で、だいたい100ページばかり読み進んだところですが、うーん。
思ってたほど盛り上がらないというか、自分の期待してた話と違う方向に進んでる気がする。

そもそもタイトルになってるドリルメカがほとんど出てこないとか、序盤で続く生活描写が
いやに長ったらしくて爽快感に欠けるのも、イマイチな理由ではあります。
でも一番気に食わないのは、ドリルで街を壊滅させたと世間に非難される父の汚名を晴らそうと
ゾンビの巣窟にもぐりこむジーク少年の無謀っぷりにも、それをを心配して追いかけるヒロインの
ブライア母さんにも、まったく共感を覚えないというところですね。

特にイラつくのは、ブライアがことあるごとに息子への母性愛と、彼女の父や夫に関する苦い記憶を
くどくどと自分語りするところ。
というか、ブライアのそういう内面をしつこく描写するところに、作者の女性としての自己主張が
透けて見える気がして、冒険活劇として気楽に読めません。

話の展開にいちいち父への反発と夫への怒りが絡んでくるあたり、まるで父権主義へのあてつけを
冒険小説仕立てにしたような印象もあります。
おまけに、そのあてつけも社会への問題提起というよりは、多分に私情がらみというめんどくささ。

私が考えるフェミニズム/ジェンダー小説のおもしろさは、既存の社会や価値観を揺るがすような
新たな視点を提示してくれることにありますが、この作品にはそこまでの深みが感じられないので
そっちの筋から読んだとしても、あんまり楽しめそうにないしなぁ。

・・・などといったん引っかかってしまうと、この物語の発端となった大事件として回想される
「制御できなくなったドリルメカが街を破壊し、その後に取り返しのつかない災厄を撒き散らす」
という挿話も、つまりは男性原理への批判そのものじゃないの?と勘ぐりたくなっちゃいます。

ストレートな冒険活劇にしてはなんだか息が詰まるし、かといって作中に鋭い風刺や問題提起も
感じられないので、このままだとつかみどころのないまま読み進めることになりそう。
この先、息子探し以外のテーマが話の中心に据えられる展開になれば、また印象が変わる可能性も
ありますけどねぇ。

Shan Jiang氏の描いた表紙は、文句なしにカッコいいんですが・・・。
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沖浦啓之監督作品『ももへの手紙』感想

2012年05月06日 | アニメ
こどもの日にちなんだわけでもないけど、5月5日に『ももへの手紙』を見てきました。



映画館は丸の内ルーブルをチョイス。
初日舞台挨拶が行われた会場だから・・・というわけではなく、いま自分が足を運べる中で、
ここが一番大きなスクリーンだろうと判断したからです。
結局、この読みは大あたり。当代最高ともいえる顔ぶれが手がけた最高レベルの映像を、
大スクリーンで細部まで堪能することができました。

背景美術はむやみに細かく描かず、むしろ明暗や空間の広がり、奥行きや空気感を重視した感じ。
舞台装置や小道具も細部にこだわるより、人が見たときの印象や質感を重視したかのように見えました。
こういう描き方はアニメを見慣れない人にも、絵としての“くどさ”を感じさせず、むしろ人の実感に沿った
「既視感」をかきたてるのに効果を上げていると思います。
まあ実際に映像を見てどう感じるかは人それぞれですが、私にとってはこれで正解でした。

そして一番の見どころは、ヒロインのもも本人が見せる、多彩な表情と動きです。

非常識なアクションや極端にデフォルメされた表情はありませんが、小さなしぐさから
いかにもアニメっぽいポーズまで、ひとつひとつの動きが実に魅力的に描かれています。
移動時の動きにしても、とぼとぼ歩きから全力疾走まで実にさまざま。
そしてその動きから、ヒロインの心理状態が見る側へとダイレクトに伝わってきます。

これだけ雄弁な絵を描けたのも、沖浦啓之監督自身が優れたアニメーターであり、
その意志を完璧に表現できるだけのスタッフに恵まれたからでしょう。
極端な話、この作画技術の高さを見るためだけでも、映画館まで足を運ぶ価値は
十分にあると思います。

さて、絵と動きという狭義に限っての「アニメーション」としては、抜群の完成度を誇る
『ももへの手紙』ですが、シナリオも含めた広い意味で見たときには、物語の掘り下げ方や
語り口などについて、いくつか不満を感じるところもあります。

例えば、ももが精神的に辛い状況とはいえ、地元の人々との交流がストーリー上にあまり盛り込まれず、
人情や風土性といった部分を生かしきれていないように見えること。
ももの語尾に地元の方言が混ざるラストも、それまでの布石が弱いせいで、ちょっと説得力が不足気味。
あと、これは尺の都合かもしれませんが、一番のクライマックスで動きのある場面を重視するあまり、
最後にはどうなったかをきちんと見せなかったのもすっきりしませんでした。
あそこはやっぱり、ちゃんとゴールまでさせるべきですよ。子ども向け作品ならなおさらです。

そして本作に対する最大の疑問は、ももという少女が自分の中に抱えている「こどもの世界」を、
はたしてどこまで表現できていたのか?ということ。

この年頃の女の子の仕草は見ているだけでおもしろく、また絵にもなるというのはよくわかったけど、
一面ではその目線が少女本人のものではなく“少女を観察する側”のものに感じられてしまうのです。

娘を温かく見守りつつ、その動きをおもしろがる目線は、むしろ“父親の目”に近いのではないでしょうか。

つまりこの物語にいないはずの父の思いこそ、この映画全体を常に支配する雰囲気であり、
結局は子どもが抱える深い部分にまでは踏み込んでいないように見えたのが、私にとって
“アニメとしては抜群、でも物語としては物足りない”と思った、最大の理由です。

特にこの映画で「宮浦」って名字を聞くたび、いつも監督の名前が思い浮かぶんですよー。
・・・実は沖浦監督にも娘さんがいて、彼女を見ているうちにこの作品のアイデアを思いついたとか?

仮にこの推測が当たってるなら、この映画こそ沖浦監督から娘さんにあてた「手紙」といえそうです・・・。

ともかく、『ももへの手紙』が、沖浦監督が本当に撮りたかった作品、そして自分の思いを
前面に押し出した作品だろうということは、まず間違いないと思います。
押井守脚本の『人狼』では、独特や世界観と強烈なテーマを見事に映像化して高く評価されましたが、
あれはあくまで“押井さんの世界”を撮ったものなのでしょうね。

見守り組の妖怪3人組については、それぞれに役者さんの個性をよく反映していたと思う反面、
もっと見せ場があってもよかったなと思いました。
その中でも控えめな“マメ”が一番印象に残ったのは、チョーさんの名演が大きいと思います。

期待値が高すぎたぶんだけ厳しい意見も書きましたが、総評としては、素朴な物語を高レベルの作画で
手堅くまとめた、一般向けアニメの秀作だと思います。
家族を失うという重いテーマを扱っても、極端に暗い話にはならず、むしろ瀬戸内の自然と懐かしい街並みが
見る人の気持ちをほぐしてくれます。
ちょっと小旅行に行くつもりで映画館に足を運び、家族の大切さを再確認するには最適な作品でしょう。

さらに現地へ旅行したくなったら、映画のモデルとなった場所などを案内する特設サイト「もも旅」や、
広島県作成の「瀬戸内もも旅ガイドマップ」もありますので、参考にしてください。

こちらは丸の内ルーブルに掲げられた、宣伝用の懸垂幕です。


あと、ももや見守り組と一緒に記念写真が撮れるパネルも設置されてましたが、
チケットもぎりのお姉さんの視線が怖かったので、撮影は断念しました(^^;。
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『宇宙の戦士』原作小説の表紙をリボルテックで再現してみた

2012年05月03日 | ホビー・フィギュア・プライズなど
SF小説好きの人にとって、「機動歩兵」と聞いてまず思い浮かべるのは、なんといっても
ハヤカワ文庫SF『宇宙の戦士』と、その表紙を飾った加藤直之先生のイラストでしょう。

左が最初に出版されたときの表紙、右が新装版になったときの表紙です。

昔からのファンにとっては、左の破壊されたスーツに思い入れがあると思いますが、
最近は新装版のイラストしか見たことのない人も多いでしょうねー。

さて、この機動歩兵のデザインの原点とも言えるハヤカワ文庫SF版の表紙を、
特撮リボルテックの機動歩兵で再現してみました。
(さすがに旧版のダメージスーツを再現するのはツライので、新装版のほう。)

平手がついてないので手は内側に曲げてますが、あとの部分はだいたい同じポーズがとれます。
上半身とキャノン砲の角度が微妙なので、そこはイラストを見ながら適宜調整が必要。
あとはヒジを張り気味にするのと、ヒザから下がべたっと接地するように注意すればOKです。

さて、ハヤカワ文庫SFは最近になってトールサイズという新しい版型に変更され、
文庫本のサイズが縦に長くなりました。
これにあわせて加藤先生が表紙に加筆修正を行い、機動歩兵の数も増えています。


ちょうど通販で注文しておいた2つ目の機動歩兵が届いたので、2個を組み合わせて
トールサイズ版の表紙も再現してみました。

後ろの機動歩兵をもう少し右に寄せたほうがよかったけど、後はだいたいこんなもんでしょう。
さらに腕とやる気のある人は、ジオラマ用の砂や背景を用意して本格的な再現に挑んでも
楽しめると思います。

最後に、ちょっとだけ不満を。
2個目の機動歩兵は、ワンフェスカフェで買った1個目よりも塗りが雑でした。

スミ入れがはみ出してべちゃべちゃになってます。
こういうのに当たっちゃうと、以後の購入についてのモチベーションががくっと落ちるんですよね。

完全な検品は難しいでしょうけど、特撮リボルテック全体の評判を落とさないためにも、
メーカーにはなるべくきちんとした品質管理をして欲しいと思います。
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特撮リボルテック「機動歩兵」(スタジオぬえデザイン『宇宙の戦士』版)発売!

2012年04月29日 | ホビー・フィギュア・プライズなど
「特撮リボルテック」シリーズの開始当初に製作が発表されたにもかかわらず、
いつまでたっても商品化されずにファンの不安を募らせてきた「機動歩兵」。

ハインラインの戦争SF『宇宙の戦士』に登場し、以後『機動戦士ガンダム』のモビルスーツや、
『トップをねらえ!』のRX-7などに多大な影響を与えた、強化外骨格兵装の元祖ともいえる
この傑作メカのアクションフィギュアが、ようやく完成・発売されました!

これを記念して4月28日に開催された「機動歩兵TALKING NIGHT」では、ハヤカワSF文庫で
機動歩兵を最初に描き、そして今も大切に描き続けている名イラストレーター・加藤直之氏から、
デザイン秘話や立体化への思いなど、機動歩兵に関する貴重なお話を聞かせていただきました。
この様子はUSTREAMでも配信されており、この記事を書いてる時点では録画も見られますので、
ロボットデザインに興味のある方はぜひご覧いただきたいと思います。

さて、会場のワンフェスカフェでは、機動歩兵リボの先行販売も行われてました。
私は既に通販で予約済みですが「イベント入場は無料にするから、そのぶんもう一個買ってね」という
加藤先生の熱い思いにこたえるべく購入したのが、本日ご紹介するアイテムです。

さて、こちらのパッケージをよーく見てください。

なんと加藤先生のサインと、イベントの日付を入れてもらっちゃいました!
まさに記念イベントならではの大サービス!

デザインや全体のバランスは、加藤先生の厳密な監修を経てOKされたもの。
機動歩兵ならではの独特な体型が、忠実に再現されています。

頭のてっぺんまでで10センチ弱とサイズは小さいですが、とてもよくまとまっており
こうして写真で見ると迫力十分です。
なお、手持ち武装の携帯式火焔放射器(ハンド・フレーマー)は、左手だけに装備できます。

背面にはYラックと電磁式噴進弾発射筒(いわゆるレールキャノン)を装備。

腕部と脚部だけでなく、胴体の側面にもジャバラがデザインされています。
このジャバラをきちんと再現することが、加藤先生によるデザイン上の絶対条件のひとつだとか。
また、腰にはちゃんと火炎手榴弾も装備されています(取り外しはできません)。

ちなみに背中の大砲は核弾頭をぶっ放すという剣呑な兵器ですが、この設定を引き継いだのが
『トップをねらえ!』でRX-7が装備していたカリホルニウム核弾頭だと思います。
(弾頭のデザインは『謎の円盤UFO』からの引用でしたが・・・。)

機動歩兵の性能を表現する有名なイラストに「卵を割らずに拾いあげる」というのがあります。
今回のリボルテックでは、その名場面(だけ)を再現するパーツも付属。

この「卵拾い手」も、加藤先生のこだわりポイントだとか。
原作ファンにとってはうれしいパーツですが、できれば左手同様に銃が持てる右手もつけて欲しかった・・・。

できれば中に人が入れる仕様にしたかったそうですが、さすがにそれは無理なので
代わりにパイロットのフィギュアがついています。

原作終盤で主人公がタガログ語をしゃべることから、パイロットの顔はフィリピン系を想定。
加藤先生は「カッコいい西欧系の顔にしたかった」そうですが、今回は原作に準拠しています。

頭部を開けると、中にはパイロットの頭部が収納されています。

上から見ると、肩の位置が搭乗者の体つきと一致しているのがわかります。
この「搭乗者とスーツの関節が一致すること」というのは、いま加藤先生が機動歩兵を描くとき
特にこだわる点であり、立体化を監修する際にも一番重視する部分だそうです。

イベント参加者100名にプレゼントされた、加藤先生描きおろしの機動歩兵イラストと並べてみました。

イラストに合わせて右手に持たせたハンド・フレーマーは、両面テープで強引にくっつけたものです。

こちらのイラスト、実はリボルテックのパッケージ用にと加藤先生が描きおろして海洋堂へ持っていったら
「特撮リボのパッケージは写真を使うことになってるんです」と、あえなく不採用になってしまったもの。
トークの会場には、このイラストを引き伸ばしたポスターも飾られていました。

この絵の縮小版がパッケージ内側の説明文に小さく添えられていますが、あまりにもったいない。
今回だけはルールを曲げてでも、このイラストをパッケージにするべきだったんじゃないかな・・・。

さて、機動歩兵NIGHTで加藤先生から、このような趣旨のお話がありました。
「基本となる形が決まったものは、以後のアレンジにも耐えられる。例えばモナリザがそう。
 機動歩兵も基本の形が確立されているから、リボルテックの特徴であるパーツの組み換えなどで
 いろいろなアレンジを楽しんでもらえばいいと思う。ただし下半身はいじらないでね(笑)。」

ではどんなパーツやオプションを使おうか・・・と考えて思い出したのが、以前に買ったコレ。

リボルテックヤマグチのレーバテイン最終決戦仕様。どデカイパッケージにオプションがてんこ盛りです。

ここから緊急展開ブースターとガトリング砲、さらにデモリッション・ガンを持ってきて
こんな作例を組んでみました。



あんがい違和感なく組めたと思いますが、どうでしょう?
用途としては大気圏下で断崖や高地等の侵入困難な敵拠点に高速度で侵攻・打撃を加え、
一気に制圧するための特殊装備という感じでしょうか。

近接格闘戦を想定して、ナイフ二刀流にも挑戦。

これはこれで強そうに見えます。というか、ナイフとか普通に持ってそう。

デモリッション・ガンを展開して、ガン・ハウザーモードにしてみました。

バスター・ランチャーっぽさを狙ってみたのですが、これはさすがに無理があったかも。

フィギュア王での作例にあったという、ウォーマシンのガトリングガン装備。

武装自体はちょっと貧弱な感じですが、エフェクトパーツが効いてます。

形状が独特なので、自立させたりポーズをつけるのはちょっと難儀ですが、
リアル系メカの装備なら大抵のものは流用できそうな汎用性は魅力的。
各種パーツやオプションを活用すれば、バリエーションはそれこそ無限大です。
また、数を揃えることでより軍隊っぽさを協調することもできます。
サイズの小ささは、飾るとき邪魔にならないというメリットとも言えるでしょう。

メカ好きなら少なくともひとつ、機動歩兵好きなら二つ以上は購入するべき傑作です!
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