今年の3年生のゼミでは、『 日本型メディアシステムの興亡―瓦版からブログまで 』柴山哲也)という本をテキストにしています。面白くはありませんが、新聞を中心とした日本のメディアの実情をきちんと押さえていて、テキストにするには適した本です。
学生たちが驚いていたのは、新聞社が宅配制度を維持するために全部あわせると50万人近い雇用を抱えていること。それなのに、全マスコミの売り上げをあわせてもトヨタ自動車一社に及ばないということです。ぼくが学生だった頃のマスコミ論の教科書には、全マスコミ産業の売り上げをあわせて日立製作所1社とほぼ同額と出ていました。
日立製作所の社員数は10万人ぐらい。新聞産業だけでも50万人を抱えているわけですから、マスコミ産業の労働生産性は日立の5分の1以下ということになる。マスコミはかっこいい知識集約型産業だと思っていた学生たちは、その労働力集約産業としての実態をつきつけられて、ただただ唖然としていました。
若者の新聞離れを著者は心配していますが、たしかにいまの若者は新聞を読まない。全国紙の支局長をしている友人がいますが、彼のもとに地元国立大学の学生がインターンシップで働きに来た。新聞はよく読むのと聞くと、「読んでません」と学生たち。いやうちの新聞でなくてもよい、地元紙でもいいんだと念を押すと、新聞と名のつくものは一切読んだことがないと、全員が答えたそうです。新聞を読まない人間に新聞社に働きに来てもらっては困るとこのインターンシップ、翌年から廃止にしたといっていました。
ぼくのゼミ生も新聞を読まない。読まないというより読めないようです。活字の塊みたいでよみにくい。記事がどこにつながっているのか分からない。そう聞いて今度は僕が唖然としました。新聞を読むリテラシーがいまの若者からは失われしまっている。日本の新聞を支えてきた宅配制度の維持も困難な状況があります。いまの若者が大人になった時には、日本の新聞はもう存続していないかもしれません。
学生たちが驚いていたのは、新聞社が宅配制度を維持するために全部あわせると50万人近い雇用を抱えていること。それなのに、全マスコミの売り上げをあわせてもトヨタ自動車一社に及ばないということです。ぼくが学生だった頃のマスコミ論の教科書には、全マスコミ産業の売り上げをあわせて日立製作所1社とほぼ同額と出ていました。
日立製作所の社員数は10万人ぐらい。新聞産業だけでも50万人を抱えているわけですから、マスコミ産業の労働生産性は日立の5分の1以下ということになる。マスコミはかっこいい知識集約型産業だと思っていた学生たちは、その労働力集約産業としての実態をつきつけられて、ただただ唖然としていました。
若者の新聞離れを著者は心配していますが、たしかにいまの若者は新聞を読まない。全国紙の支局長をしている友人がいますが、彼のもとに地元国立大学の学生がインターンシップで働きに来た。新聞はよく読むのと聞くと、「読んでません」と学生たち。いやうちの新聞でなくてもよい、地元紙でもいいんだと念を押すと、新聞と名のつくものは一切読んだことがないと、全員が答えたそうです。新聞を読まない人間に新聞社に働きに来てもらっては困るとこのインターンシップ、翌年から廃止にしたといっていました。
ぼくのゼミ生も新聞を読まない。読まないというより読めないようです。活字の塊みたいでよみにくい。記事がどこにつながっているのか分からない。そう聞いて今度は僕が唖然としました。新聞を読むリテラシーがいまの若者からは失われしまっている。日本の新聞を支えてきた宅配制度の維持も困難な状況があります。いまの若者が大人になった時には、日本の新聞はもう存続していないかもしれません。
「とにかくテレビに引きずられていることが昨今の新聞の荒廃の最大の原因です。だから若者が新聞を読まないだけでなく、インターネットがあればいい、テレビも見ないということなら、それは長期的には新聞に対する浄化作用になりうるでしょう。反対に、新聞を読まないけれどテレビはべったり見るということなら、これは再悪です。もう人類は滅亡です」。
いまの日本の若者の新聞離れは、つまり活字離れの一形態に過ぎず、アメリカの心ある人たちのような新聞に対する不信感に根をもつものではありません。若者たちは、テレビのいうことを無邪気に信じています。人類は滅亡するかもしれませんね。
してみると、日本人は滅亡して、メディアの当てにならなさを骨身に沁みて感じている(といいのですが)北朝鮮人は生き残るかもしれませんね(笑)。
たしかに生徒やその親たちを見ていると、「自分にとって正しいかどうか」ではなく「新聞やテレビがそう言っているかどうか」が真偽を判断する基準になってしまっているように思います。これでは議論や想像力の幅は狭まる一方でしょう。
まつもと様。おひさしぶりです。旧ソ連の人たちは、新聞というのは嘘ばかり書くものだということが身にしみているようです。何しろ嘘ばかり書いている新聞の名前が「真実(プラウダ)」だぜ、などというアネクドート(小話)が、ソ連時代から語られていた国ですから。まだしもまともな新聞が存在していた旧ユーゴで、メディアの扇動も一因となって陰惨な民族抗争が行われたのはなんとも皮肉なことです。それにしても、日本人も戦争に至る過程でさんざんメディアにだまされた経験をもっているはずです。それなのにこの国の人たちのなかには、メディアのいうことを疑ってかかるという、メディアリテラシーがまったく身についていません。そのことが不思議でなりません。
判断や価値尺度を他に委ねるという習慣なり教育が続く限り、パオロ・マッツァリーノの「つっこみ力」にしたって、根底に突っ込む迫力を欠きひよわな笑いに終わるのではないかと思います。
唐突ですがロシア人はえらいと思います。うそばっかりついている新聞は信用しない。国家なんかあてにしていないから、ダーチャで食べるものを自給自足してしまう。以前ロシアの酔っ払いのタクシー運転手が大変な文学愛好者だという話を書きましたが、みんな子どもの頃からロシアの偉大な文学者の作品に親しんでいるので、腹のすわった人間が育つのではないでしょうか。どうも日本人はひ弱でいけません。
「若者たちは、テレビのいうことを無邪気に信じています。」
とのことですが、何か調査で証明されたのでしょうか? まさか社会学の教授と一般の学生を比較された結果ではないですよね。
若年層の新聞離れは、調査で証明されています。
同時にNHKの調査では若年層のテレビの視聴時間が減少していることが示されています。
私から見るとワイドショーなどメディアリテラシーを消さないと楽しめない番組は、中高年向けだと思うのですが。
「若者たちは、テレビのいうことを無邪気に信じています。」
とのことですが、何か調査で証明されたのでしょうか?
あい様。おひさしぶりです。これはある女性教員が指導した「社会調査実習」のクラスで、「女子大生のダイエット行動」というテーマでアンケート調査をやったのですが、その時にダイエットの情報源は何ですかという質問で一番多かった回答は「テレビ」。そして「私たちはテレビのいうことを無邪気に信じています」というのは、その調査に参加した学生じしんのことばです。
まあ、これではとても「調査で証明された」とはいえませんが、時事問題について何か学生の意見を聞くと、彼女たちが口にするのは、テレビで語られている紋切り型(ステロタイプ)の受け売りばかりです。彼女たちは新聞を読まないし、時事問題や社会で起きる事柄に対して身近な人たちと議論するという習慣を持ちませんから、唯一の情報源であるテレビのいうことを鵜呑みにするのは理の当然だろうと思います。
もちろんあいさんがおっしゃるように、大人だってそれは同じでしょう。みのもんたやかの「あるある大辞典」のいうことを「無邪気に信じてい」るから、何かの食品が身体にいいということになると、翌日のスーパーやデパチカでおばさんたちがそれに殺到するという事態も起きるのだと思います。だからテレビのいうことを鵜呑みにしているのが、若者に特有の現象だとは私も思いませんし、そのことによって若者を貶めるつもりもありません。
しかし、若者がテレビのいうことを「無邪気に信じ」ることの危険な中高年がそうするよりも、はるかに大きいと私は思います。テレビ番組は、権力の意をていして作られています。中高年はまだしも体制内受益者の部分がある。ところが若者は、完全に力をもつものによって搾取される側です。搾取される者が搾取する側のものの見方を身につけていくことは、危険きわまりないといわなければなりません。
メディアリテラシーについて考えても、よく分かりません。 定義は分かるのですが。
人は自分の都合の良い情報は簡単に受け入れますし、 都合の悪い情報は受け入れませんよね。
納豆を食べればやせるは受け入れても、「一日30キロ走り、食べるのは野菜のみでやせる」だと人は受け入れませんよね。
すごく騙されているような気がします。 納豆ぐらいなら可愛いのですが。
教育再生会議で「親学」というのが少し話題になりました。 その議事録を読んだんですが、その会議に出席された親学会副会長で大学教授である教育学者の先生が、
昔は「逝きし世の面影」という本にあるように、日本は子どもは親やお年寄りを敬愛し、母親は愛情に飛んでいた。
対して、現代は「日本の価値観世界ランキング」にあるように「親が子の犠牲になるのは止やむを得ない」と答えた「日本の親」は38.5%で73か国中72番目である。 「どうすれば本来の親子関係を取り戻すのか」とおっしゃっています。
私がおかしいと思うのは
1.「逝きし世の面影」は日本を訪れた外国人の方が、日本を褒めた「良いとこどり」をした話であり、日本人の意識調査と比較することは、まったく無意味。 今でも日本を訪れた人と話したら、お世辞でも褒めてくれるし(道端にゴミが落ちてなくてきれい、とよく言われます)。私も海外旅行をして現地の方と話す機会があったら、良いところを探してでも褒めます。
2. この先生が参照した本のもとネタはWORLD VALUE SERVEYであり、1980年から2000年の5年おきの意識調査があるが、この設問で、日本の回答割合は20年では、ほとんど変わっていない。 "NEITHER" (どちらでもない)の回答が多いけど、これを除くと、近年になるほど、「子どものために最善をつくす」の割合が(少しですが)増えている。
3. WVSの調査で最新2000年の回答者の出生年別は
1911-1920 1%, 1921-1930 7%, 1931-1940 20%,
1941-1950 16.7%, 1951-1960 55.2%
で、1961年以降に生まれた、若い親が調査対象にはなっていない2000年の時点で40歳以上の人が実際には答えています。 半分近い回答者が1950年以前に生まれた人。
こんな話を「前提」に教育再生会議をしているんです。 この先生、何度も日本の伝統、日本の文化、などの言葉を繰り返し、昔の美点を並べ、現在は給食費や佐世保の話は現在の象徴のようなことをおっしゃっています。
私から見ると、あまりにも偏りすぎているし、「日本の伝統・文化」を個人的に敬うのはいいですけど、それを他者に国として強制しようというのは、あまりにも恐ろしすぎるし、憲法違反じゃないでしょうか。
議論であれば、まったく反対の意見をお持ちの広田照幸先生の話も聞くべきです。
きわめつけは、首相補佐官の言葉
「親であることは恵みであり喜びなんですけど、アンケート調査ではお金がかかるとか、時間がとられるとか言われており、内閣府の調査でも、子育てはイライラするという母親が75%にもなっているんですね。 これは本当に心を180度変えなければ、子育ては恵みだというふうに変えなければ親子の情が育たなくて、マスコミの影響も大きいとおもいますけれども、そこを踏まえなければいけないと思っています。」
どの調査だか見つからなかったんですが、そりゃイライラするときもあるでしょう。 仕事や勉強でも同じなはずです。 ひどいのが「お金がかかる」「時間がとられる」というのは、本当に切実な問題で、一般の人間にとってお金がないと生きていけないし、資産や特殊能力がなければ、仕事をするには時間が要る。
それを「心を180度変えなければ」と心の問題と置き換えるなんて。
学歴は親の経済力と関係があるというのは誰でも知っているし、早稲田大学の長谷川眞理子先生は、殺人犯には低学歴、未婚の男性が多いと分析されています。 また岩田正美先生は、ホームレスには低学歴者が多いことを「現代の貧困」という本に書かれています。 非正規雇用者も低学歴者の割合が多いそうです。 こういう状態になれば、多くの人が子どもを持つのを躊躇するのは当然ですし、これは社会構造の問題。 なのに、「本当に心を180度変えなければ」って。 いつこの人は人の心を変える権力を持ったのでしょうか。
この国の首相は。「いろんな偏見があったり、アレルギーがあったりするんだろう。アレルギーを持つのは間違っていると認識していけば、冷静な議論が出てくるのではないか」
はい、アレルギーが出まくりです。 で「間違っている」というのは判断基準は? いつから首相は「正しい」「間違っている」という判断をする権力を得たのでしょうか? 同じ自民党から、教育再生会議に対しての反論が「世界」に掲載されました。 それに対して「冷静な議論」はされていないようです。 この方は少年法改正のときも「少年犯罪の低年齢化・凶悪化」という統計にある事実とは異なる「冷静でない感情論」で押し切ったのですから。
あいさんは、教育論議が事実によってではなく勝手な思いこみにしたがってなされていることに憤りを示しておられますが、これには深く共感いたします。社会に流通しているステロタイプに異を唱えるのがジャーナリズムの役割だと思いますが、この国にはジャーナリズムは存在しません。ステロタイプはひたすら肥大化していって、重要な公的決定が事実ではなく妄想にしたがってなされるようになってしまった。どうも日本というネーションは、想像ではなく妄想の共同体に堕してしまったようです。