学びひたり 教えひたろう 優劣のかなたで
国語教育の実践で名高い大村はまさんの詩である。大村さんが亡くなった時に、この詩がメディアでよく紹介されていた。言っていることにはもちろん何の異論もないのだが、強い違和感を覚えた部分があった。
たとえばこの詩を、大村さんの教え子で、晩年の大村さんの世話をしていた苅谷夏子さんの書いた追悼文でみた。苅谷さんは、学力低下論で名高い苅谷剛彦東大教授の奥様で、自らも東大の国文科を出ておられる。そして、「朝日」の「天声人語」でも、NHKの夜の時事解説の番組でも、この詩を目(耳?)にした。
苅谷さんだけではない。「天声人語」氏も、NHKの解説委員も、超一流大学を出ておられるのだろう。つまり「優」の極みの人たちである。その人たちが「優劣のかなたに」といっている。どこかおかしくないか。「優」の人たちは勉強が好きだ。いくらでも「学びひたれ」るだろう。勉強が嫌いな、できない子どもたちの気持ちが、彼らに分かるのだろうか。分かっていないということが分かっていないとすれば、あまりに鈍感すぎる。
勉強のよくできる、大好きな人たちが、「勉強ってこんなに楽しいのにね」とうなずき会っている姿が浮かんでくる。少し飛躍があるかもしれないが、ここに今日の教育改革論議の不毛性が浮かび上がっているようにみえる。学校教育の基準が、昔勉強がよくできた人たちの身の丈を基準にきめられているのだ。これでは落ちこぼれる子どもが増えるばかりではないのか。
正直にいう。ぼくはカリスマ教師が嫌いだ。子どもたちに対する支配欲と、ある種のサディズムを感じるからだ。林竹二然り。鳥山敏子然りである。ただ『山びこ学校』の無着先生は好きだ。無着先生は、狭いクラスのなかでの陶酔や達成には何の関心もなかった。子どもたちの目を外の広い世界に向けようとする志向性を無着先生の実践からは感じる。
国語教育の実践で名高い大村はまさんの詩である。大村さんが亡くなった時に、この詩がメディアでよく紹介されていた。言っていることにはもちろん何の異論もないのだが、強い違和感を覚えた部分があった。
たとえばこの詩を、大村さんの教え子で、晩年の大村さんの世話をしていた苅谷夏子さんの書いた追悼文でみた。苅谷さんは、学力低下論で名高い苅谷剛彦東大教授の奥様で、自らも東大の国文科を出ておられる。そして、「朝日」の「天声人語」でも、NHKの夜の時事解説の番組でも、この詩を目(耳?)にした。
苅谷さんだけではない。「天声人語」氏も、NHKの解説委員も、超一流大学を出ておられるのだろう。つまり「優」の極みの人たちである。その人たちが「優劣のかなたに」といっている。どこかおかしくないか。「優」の人たちは勉強が好きだ。いくらでも「学びひたれ」るだろう。勉強が嫌いな、できない子どもたちの気持ちが、彼らに分かるのだろうか。分かっていないということが分かっていないとすれば、あまりに鈍感すぎる。
勉強のよくできる、大好きな人たちが、「勉強ってこんなに楽しいのにね」とうなずき会っている姿が浮かんでくる。少し飛躍があるかもしれないが、ここに今日の教育改革論議の不毛性が浮かび上がっているようにみえる。学校教育の基準が、昔勉強がよくできた人たちの身の丈を基準にきめられているのだ。これでは落ちこぼれる子どもが増えるばかりではないのか。
正直にいう。ぼくはカリスマ教師が嫌いだ。子どもたちに対する支配欲と、ある種のサディズムを感じるからだ。林竹二然り。鳥山敏子然りである。ただ『山びこ学校』の無着先生は好きだ。無着先生は、狭いクラスのなかでの陶酔や達成には何の関心もなかった。子どもたちの目を外の広い世界に向けようとする志向性を無着先生の実践からは感じる。
ひろのさんのこのコメントを読んで思い起こしたのが、先ごろ亡くなった植木等さんのお父さんのエピソードです。植木さんのお父さんは浄土真宗のお坊さんで、被差別の人たちのために尽力された方のようです。「等」という名前も、真に万人平等の世の中が訪れることを祈念した名前だといいます。生真面目な植木さんが、「スーダラ節」を歌うことに抵抗を覚えていたときに、「わかっちゃいるけどやめられない、という歌詞は人間の本性をいいあてている。仏の教えに通じるものがある」とおっしゃったとか。ユーモアと寛容さを持ち合わせていた点でも、この方は真の宗教者といえるでしょう。これはひろのさんに教えていただいたことですが、世界宗教のなかには人間平等の観念が含まれている。格差が広がるいまの世の中でこそ、日本の宗教者の真価が問われていると思うのですが…。