世界史に週1回を休む習慣を創出したのは、
ユダヤ教の安息日厳守の律法なのです。
安息日は、ヘブライ語で「シャバッド」といい、
金曜日の日没から土曜日の日没まででをいいます。
そしてシナゴーグで礼拝を守ります。
石角さんの本には安息日は
・怒りなど激しい感情をいだいてはならない
・生産活動、自然に対する加工をしてはならない
・具体的には
電気を使用してはならないし、パソコンに触ってはならない
電子メールも使用してはならない、携帯電話も使用してはならない
車を運転してはならない
お金を勘定してはならない、札束に触れてはならない
新聞を読んではならない、テレビもみてはならない
学校の勉強もしてはならない
ここまで徹底した安息日の効能は
1・心を健康にする効果がある
普段の日は1日2食で戒律による粗食ですが、安息日は、
日頃食べない肉や魚が出ますし、大人にはぶどう酒、子どもには
ぶどうジュースがでます。
食事の時は、家族友人とユダヤの祈りと歌唱大会なります。
日本の学校でも躍ったマイムマイムのような踊りをします。
2・ユダヤ教の学習に役立つ
安息日の会食で聞く会話、
シナゴーグで聖書やユダヤ教細部を学びます。
3・人間の絆を強める
そして安息日は家族が集まり、
祈り、話し合いますので家族がシナゴーグに集まり
同胞たちで支え合います。
ラバイは「人間は6日間、物質的な豊かさを蓄え、
考えることを追求しますが、精神的なことに
1日向けることは人生の調和となる」と言う通りです。
石角さんはユダヤ教徒になるまで日本教徒でしたから、
ユダヤ教徒になれば収入の1/7は減ると心配したそうです。
しかし、安息日に全く何もしないことになったら、
大変心地よいというのです。
これまで取り残されてはいけないと新聞、ネット情報を見て、
株や経済などの浮き沈みに右往左往する日々だったようですが、
安息日を守ることでそれらを一切、捨てたそうです。
そして外部情報に左右されないで心を落ち着かせることが
何ものにも代えがたいものだということを知ったといいます。
この安息日は、キリスト教にもみごとに継承され、
イエスの復活された日として、日曜を主日礼拝を制定し、
厳格に守られるようになりました。
特にペテコステ派では厳守されています。
私も最初に出会ったペンテコステ派の教会では、
牧師から、
・教会で死んでもいいので礼拝を厳守せよ
・いかなる経済的状況でも什一返金せよ
を叩き込まれ、それから今日まで30年間、守ってきました。
その厳守の上に神は働いてくださり、祝福を与えてくださいました。
しかし、日本教徒の代表格である無教会では、その真逆なのです。
・礼拝を聖書研究とし、守っても守らなくてもどうでもいい
・什一返金などする必要性は全く必要なし
・洗礼、聖餐など教会の聖礼典を無視し、どうでもよいし、
どうしても洗礼をしたいものは、風呂の水をかぶっておけばいい(注・01)
上記3つは、
イエスが厳命された下記のみ言葉を破ってしまうことなのです。
しかもこれらを馬鹿にして、イエスの厳命を無視することは、
申命記やレビ記に書かれているように祝福ではなく、
呪いを刈り取ることになります。
マタイによる福音書
26:26 一同が食事をしているとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱えて、それを裂き、弟子たちに与えながら言われた。「取って食べなさい。これはわたしの体である。」
26:27 また、杯を取り、感謝の祈りを唱え、彼らに渡して言われた。「皆、この杯から飲みなさい。
26:28 これは、罪が赦されるように、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である。
洗礼をしたいものは、風呂の水をかぶっておけばいい(注・01)
無教会グループである愛農聖書研究会につながっていた方で、千葉県のKさんという方から、私が直接、お聞きしたことです。Kさんは、通っている教会で洗礼を受けるべきかどうか迷っていて、愛農聖書研究会の指導者であった、無教会3代目の伝道者、高橋三郎師に相談した時に返ってきた言葉でした。