怪道をゆく(仮)

酸いも甘いも夢ン中。

怪道vol.116 2008年五島の旅~Epi:2

2008年12月03日 23時42分41秒 | 怪道
さて五島列島、遣唐使編でございます。

唐に遣る使いというぐらいですから船ではるばる中国まで行くわけですけども、暴れん坊皇太子が新羅とケンカしちゃいました(663年 白村江の戦い)ために朝鮮半島を経由できなくなった第5次ぐらいからは、南西諸島や五島を経由して外海を渡るいわゆる南島航路や南航路がとられるようになったというのは周知のとおりです。五島列島の西のハジにある福江島とその周辺は大八洲と認識されていた範囲の西端でもあったために彼ら遣唐使の最後の寄港地となりました。それが『肥前国風土記』他に「旻楽埼」「美弥良久埼」とみえる、「ミミラクノサキ」。現在の三井楽(ミイラク)町であります。

ここから唐へと旅立った著名人は、我らがオダイシやサイチョーをはじめ・・・まぁ一緒に行っただけに橘逸勢もそういうことになりますネ。遣唐使ではないものの入唐を志し後に天竺を目指されたボウケンシルバーこと高岳親王なんかもこちらを経由されているそうで。ついでにオダイシの甥っ子・円珍も帰りにここへ寄ってます。が、シマは今や遣唐使といったらオダイシ、な勢いになっているのはさすがというか何と言うか。



一行は地図でいえば「三井楽」とある隣の入江の川原浦だとか福江のやや北、島の北東隣の久賀島との間にある田ノ浦などで停泊して西へと向かう風待ちをした後に、ミミラクノサキから出航したとされます。で、そのミミラクノサキというのが現在柏崎だということになっております。が、遣唐使船というのはいくら外洋航海には向いてなかったヘボ船だったとはいえ1隻辺り100名を上回る人員が乗れるほどの規模はあったわけで、そんなものが数隻停泊できるような入江は・・・ちょっと見当たりませんでしたけどもねw 千年以上も前となると地形も今とは多少違っていたのでしょうナ。

近世には長らく捕鯨で名をはせたという柏崎ですが、集落内には遣唐使にかかわる遺跡がいくつか残っています。おもしろかったのが岩嶽神社。なんでも遣唐使の従者だったとかいう「鎖鎌の名人」がこの地で病没したのを祀っているんだそうデス。乗員にもいろんな人がいたんですネというツッコミはさておき、いくら使節の一員だからといって、本来ならばぶっちゃけ単なる行き倒れであることに違いはないはずで、名の知れた貴人でもないんだからせいぜい墓を作ってもらえるのが関の山。ところがここでは、ヤシロにまで祀られてしまってるわけですょ。

普通に考えればヤられてタタッたかなと思ってしまうところですが・・・この神社がいつ頃から確認できるのかという問題はもちろんあるわけですけども、数年から数十年に一度ミヤコからやってくる遣唐使てのはやっぱり強烈な記憶になったはず。ケントーシってなんかすげぇらしいんだけど死んじゃったぜケントーシ、な感覚だったのかしら。ちなみにこの岩嶽神社、海岸から50m以上内陸にあるんですけども、かつては神社の石垣が波に洗われていたということですから・・・やはり柏崎の入江はかなり深くえぐれていたのかもしれません。

    
(左)岩嶽神社、右下は祭壇の様子で、中央に官服らしきものを着た素朴な木像が据えられる。
(右)ふぜん河(河はこの辺では「泉」という意味らしい)なる井戸。使節はここの水を飲料水として積んでいったとのこと。

三井楽の入江にあたる白良ヶ浜を目前としたところに「遣唐使ふるさと館」なる道の駅がありましてね。飯はグルメでないワタシでも辟易するほどのイマイチさでしたが「万葉シアター」というコーナーでクレイアニメのミニ映画を見せてもらえます。そこではなんと始まる前にオダイシ・アンドロイドがうぃーんとでてきて口をパクパクさせながら体験談を語りだすんですナ。やっぱりオダイシは改造人間だったかと狂喜する一方で、そいつが虚空を見上げるたびに、長年にわたって酷使された部分なんでしょね、喉元の皮膚が破れてて、パックリ口をあけるのw うつろな目で微笑みながら喉に穴あけてしゃべられるんだもの、なかなかあなどれないブキミさですョw

さて、ミミラクと聞けばひとつ、忘れてはならない伝説があります。それが、平安時代「蜻蛉日記」(10世紀半ば頃 藤原道綱母・著)などにみえる、「みみらくのしま」にまつわるお話。いわく、みみらくのしまに来れば、死者の面影に会えるというものですね。「みみらくのしま」だとか「みみらくの山」なんて書かれ方をしているあたり、この三井楽町に限定された地点というよりは値嘉島全体をさしているんだろうと思われるわけですが、ミヤコの人にとってこの地域がもつ「西」の果てというイメージから、浄土思想とかも混ざってくるんでしょうかネ、他界との境界の地であるとの認識が持たれていたとの指摘がされております。

前回に紹介しました福江でポピュラな「魚人」の伝説、海上で方角を見失った長助が、死んだ父の顔にそっくりな魚に助けられるというのも、思うにこのミミラクノシマの伝説と根を一緒にしてるんじゃないでしょうかね。また、この三井楽の辺りは岐宿とよばれる地であるわけですが、かつては「鬼宿」と書いたといいます。この「鬼」を先住民と充てる説もあるけどもあまりに付会な気もします。同じ付会の危険を冒すならば、大陸との交流が盛んだったこの島のことです、死者の霊魂「鬼(キ)」の「宿」る地であったとする方が、まだ愉快な気がするんだけどどうでしょうw

三井楽の地に立ち茫々と広がる海を眺めていると、死んだ人に会えるというみみらくのしまの伝説は、西に向かって旅立っていった者が死んだかとあきらめるほどの年月を経てぽつりぽつりと戻ってきたとか、そういう単純な現実と直結して生まれたような気もしますネ。ちなみにこの伝説、江戸時代の貝原益軒まで下がると「昔は此島に人死して三年にして再生す」(「扶桑紀勝」)とかわけわからんようなことになってますがw

ダイシを追ってカシワザキ うぬぼれの東シナ海。・・・つい歌ってしまいたくなるのも、たどりつきました岸壁の上にガツンと立っていたオダイシ像のせいなのでした。

あ、オダイシの寺・大宝寺と明星院はオマケな感じでまた次回にw


「辞本涯」なるオダイシのコトバを刻んだ碑とともに、柏崎に立つ修行大師像。


柏崎にて東シナ海をのぞむ。柳田國男「島の人生」冒頭をかざる高麗島はこの沖に浮かぶという。

最新の画像もっと見る

2 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
降り口衆道夫センセか嫌な気だ苦に負うセンセあたりが言ってそうだけど… (いつきの…)
2008-12-08 12:50:50
なんかミミラクと南島のミルクには共通の、常世を意味する原語があって、南島では弥勒と習合して、中国福建風の布袋型弥勒の姿をした来訪神になり、ヤマトでは死者にあえる三井楽の崎伝承になった…だから円珍さんの三井寺はじつは常世寺の意味が…なんて絵が書けたりして、と妄想してました。貝輪の交易圏だから繋がり皆無じゃないし、そういえば魚人は布袋に少し似てるような…ウソウソ。
返信する
ぬぉ (主催者)
2008-12-09 02:02:06
また思い切った当て字をされましたネw

ミミラク…ミロク…ミルク…ほほぅ(°ε°)。
ミミラクが弥勒の転訛てのはおもしろいですネー。

ちなみにあのギョジンは店のヒトのお友達な五島焼作家さんが遊びで作ったやつだそうで、口承としては単に「亡くなった人の顔に似た魚」なんですよ(汗。
長助のオトンが布袋顔だったことにかけましょうw
返信する

コメントを投稿