怪道をゆく(仮)

酸いも甘いも夢ン中。

怪道vol.5 大徳寺の怪スポット

2005年07月17日 21時30分37秒 | 怪道
大徳寺行ってきました。
予定していたコトが突然流れてしまったんですが、京都まで来た以上はタダでは帰らんゾ、というだけの心意気で向かったところ、うれしいネタがごろごろ転がっておりましたご報告です。

大徳寺はご存知のように臨済宗大徳寺派の大本山。嘉暦元年(1326)宗峰妙超の創建。林下禅とよばれる独自の道を進み、応仁の乱で伽藍が荒廃するも一休宗純が再興、その後も各地の大名の保護を受け発展しました。また、千利休とも関係が深く、この寺の門前にかかげられた彼の木像が秀吉の逆鱗に触れたことで、利休が切腹に追い込まれたことも有名です。大徳寺は毎月28日(利休の月命日)、多くの塔頭で茶席をもうけてらっしゃるそうで、お気軽においで下さいということです(by瑞峰院さん)。

さてさて、この大徳寺は龍源院という子院に、なんとキツネの屏風が飾ってありましたんですよ。
ただのキツネじゃありません、「白蔵主」と呼ばれた大阪は堺市の少林寺に住んでいたという古狐です。
お寺の説明によりますと、白蔵主は、雲水の姿に化けて毎日修行し、時には町へ出て貧しい人を助け、時には和尚になって迷い悩んでいる人を救い導くなど、常に世間の困った人々を助けていたとってもいいキツネだったそうで、少林寺では、白蔵主の死後も祠を建てて大切に祀っているらしいのですね(そのうち行かねば少林寺)。
屏風絵を描いたのは明治時代の画匠・鈴木松年。この屏風が大徳寺龍源院にやってきたのにも、またおもしろい話がありまして。

説明板によると、昭和35年5月、大阪西成区の杉浦某氏という方が突然当院を訪ねてきた。わけを聞くと、近頃家業不振で思わしくなく家庭の不幸が相次ぐので、とある行者にみてもらったところ、「あなたの家に狐を画いたお軸か屏風があるだろう、その狐は修行中の身でまだ修行をしたいと願っている。一日も早くどこぞのお寺にでも納めなさい」という。狐の望む寺は京都にあると言うので、諸方を転々としていたところ、大徳寺・龍源院の門前でどうしたことか一歩も足が進まなくなった。そこで門を叩いたのだという。白蔵主の屏風を寄進して後、杉浦家は平穏無事に日々を暮らし、今も大阪西成区にすんでらっしゃるらしいです。案内板は、「以上はこの白蔵主にまつわる実話でございます」としめくくられておりました。

そもそも龍源院方丈の下ノ間には、もともと禅海宗俊和尚という方によって「狐窟」の銘がつけられていたそうなのです。お寺はこれにちなむ不可思議な因縁であろうということで、この屏風を狐窟に大切にかざっておられました。撮影OKでしたよ、皆さんもぜひどうぞ。ちなみに上ノ間は「狸窟」というそうで・・・それはなぜですか、というのは結局聞けずじまいでした。今度行くことがあれば絶対聞いてきます。


下手な図ですが、方丈はこんな感じ。


写りは悪いですが、向かって右側にいるのが白蔵主。

さてさて、琵琶牧々の時にちょろっと出てきたことのある百鬼夜行絵巻なんですが、それに「真珠庵本」というのがありましてですね。あの真珠庵て、大徳寺の真珠庵なんですよワタシ来てはじめて知りました(笑)。もっと勉強しなきゃですね。Mr.カメ羽目派さま、ご教授どうもありがとうございました。
それにしても、ということはあの絵巻は禅籍の一種としても見れるのかなぁ、考えすぎなのかなぁ。・・・田中貴子先生のご本を読むべしデスね、ハイ、出直してきます(笑)。

帰り際、近くに平安の怪異官人・小野篁の墓があるとわかったので、ちょっくら寄ってきました。
蚊の大襲撃にあいながら、墓と東山の珍皇寺は地下でつながっているよねきっと、とホクソ笑んでみたのでした。


真珠庵 遠景


小野篁の墓(堀川北大路下ル、島津製作所の北隣)。隣はなぜか紫式部の墓で・・・式部の墓の方が土饅頭が巨大でした。体でかかったのかしら・・・。

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1 コメント

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Unknown (ありこふ)
2005-07-20 20:32:39
龍源院ですかー。大徳寺南派の本院でしたっけね。あそこには思い出があります。

去年ゴールデンウィークの頃閉門ギリギリに訪れました。例の屏風や秀吉と家康が対局した碁盤や種子島を見て、方丈をぐるっとめぐって一番最後に出たのですが…その日の深夜に龍源院に泥棒が入り、碁盤と種子島が盗まれるという事件がありました。翌日新聞読んでびっくり!前日見たものが盗まれるとは、しかも最後の訪問者であるおれは疑われないかなとても心配した思い出があります。

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