怪道をゆく(仮)

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怪道vol.62 友ヶ島レポート~其の2

2007年05月12日 01時40分49秒 | 怪道
・・・ウルトラファイト研究序説は?と思(ry

さて、本日はフレンドリーアイランド友ヶ島は沖ノ島の、修験道に関わるポイントをめぐるレポートです。現在沖ノ島及び神島に点在する修験スポットは以下の地図の通り。



前回にも少し触れましたように、友ヶ島は役行者が法華三部経の全28品を1つずつ埋納して回ったといわれる、28ヶ所の経塚をめぐる「葛城二十八宿」(友ヶ島~奈良県北葛城郡王子町亀ノ瀬にいたる和泉山地に点在)と呼ばれる葛城修験の、現在「第一宿」とされる場所があります。

微妙な言い方をするのは、「一宿」に当たるとされる場所がかつてとは違うからですね。平凡社の『和歌山県の地名』によりますと、「一宿(イチノシュク)」は中世前期に成立した『諸山縁起』によれば、当時「今の八幡」と呼ばれていた「賀太庄八幡宮」だったが、鎌倉時代の早い時期に「伽陀寺」に移った、と考えられているようです。伽陀寺は加太にあった修験寺院で、南海電車の加太駅北の山麓一帯に広大な伽藍を構えていたと言われておりますが、現在は跡地が確定できないほどよくわからなくなっている寺でもあります。すなわち、もともとは第一宿の地は加太にあったということです。

それぞれの原史料を確認できてないのもありますのでなんとも言えないのですが、第一宿について書かれた史料を時系列順に並べますと、

・『諸山縁起』(鎌倉時代初期成立):「宿の次第」では「二、伽陀寺」。「一宿」は前述のように「今の八幡」。
・『私聚百因縁集』(1257年成立の仏教説話集):「和泉ノ国伽陀ノ峯 妙の石屋〈又云く序品石室〉より始めて」(※序品→1番目)。
・正安2年(1300)「伽陀寺寺僧連署置文」(『向井家文書』):「葛城一宿伽陀寺
・「葛城修行灌頂式」(永正元年/1504):「方便品 伽陀」(※方便品→2番目。現在の方便品は伽陀寺推定地から約2~3キロ東にある)
・紀州の藩儒・李梅渓(1616~1682)の書による虎島岸壁に彫られた「五ヶ所の額」(沖ノ島の修験行所5ヶ所を書く)に「序品窟」の字あり。
・『みよばなし』(文化5年/1808。仁井田道貫による郷土史):「今一宿に寺なければ」とある(※「寺」は「伽陀寺」をさすらしい)。
・『葛嶺雑記』(嘉永3年/1850):虎島の序品窟を「葛城二十八宿の第一宿」とする。

修験道は御一新で政府より禁止されたことで全国的に大打撃を受けるわけですが、伽陀寺の場合はどうも天正13年(1585)秀吉による紀州攻めの際に伽藍が焼亡、以後寺運が衰微してしまったようです。が、「葛城修行灌頂式」を見る限り、それ以前から「伽陀寺」は少なくとも「序品」ではなくなっているわけですね。この段階で「序品」が友が島に移ったかどうかはわかりませんけれども、江戸時代には第一宿は確実に虎島であったと考えられます。

序品こと法華三部経の第一「序品」部が埋納される第一宿の地が加太から友ヶ島へ移った要因にはまだたどりついていません。この付近の水陸交通の様相が変化したとか(わかりませんけども)、この頃ぼちぼち淡島願人とか出てきてる頃ですし中世以降徐々に広がっていった淡島信仰がどうこうしたとか(知りませんけども)、この辺で何かがいろいろ起こったんでしょうねぇ。

前置きはこのぐらいにしておいて(前置きだったのかw)、このたびワタシがまわってきたのは前回申し上げた「深蛇池」に加え、「閼伽井跡」と「序品窟」です。閼伽井というのは文字どおり「井戸」でありまして神仏に供える水を汲む井戸或いは水の貯まり場をいいます。陸繋島である虎島へは干潮時でなければ渡るのは困難になるのですが、閼伽井跡は満潮時には海に沈むであろう地点のすぐ脇辺りに碑が立ち、深蛇池と同じく護摩札が並んでおりました。

で、序品窟です。これがそこそこ厳しいところにあったわけです。閼伽井跡を過ぎると遠目に白いポールが立っているのが見えたため、すぐに入口とおぼしきものは発見できました。



・・・それがですね。見えているんですがなかなかたどり着けないわけです。なんせ島の側面は30~50度に傾いた地層がはっきりと見えるような地形とその落石で形成された海岸線を、しかもすぐそばまでザパンザパンと波が打ち寄せてくるような場所を行くわけです。で。


最後の仕上げとばかりにこの崖をよじのぼるわけですね。登るのはまァなんてことはない程度なんですが降りることを考えるとちょっと躊躇しちゃうような高さなわけですよこれが。で。


入口は大人一人がちょっとかがめば入り込めるぐらいの大きさ。穴の中は奥に向って海岸線までの落差10mほどの斜面になっておりました。で。


薄日の漏れる中、聞こえるのはただひたすら、窟内に静かに反響する波の音のみ。そこに「熊野三山前検校二品親王道晃」(後陽成の子、1609~1678)による「妙法蓮華経序品第一」の石碑が粛然と立つ。なかなか、よい雰囲気でございましたよ、なんとなくソの気になって般若心経を唱えてしまったぐらいです。

虎島の行場におけるメインステージは、序品窟もさることながら、ここを胎内くぐりしてさらに海岸伝いに20分ほど格闘し、岸壁をよじ登った上にあるという「観念窟」だったりします。そして前述の藩儒・李梅渓の書を刻んだ「五所の額」(5m×5mに及ぶ、友ヶ島の行場の地名を彫った岩場)なんですが、下からそこへ行くにはロッククライミングなどの経験者の先導がなければ危険であるという情報がありましたので、単独行だったこととあわせて大事をとって断念。

陸繋部分に一端戻って山上から行くルートがあると聞いたので探したものの、結局見つけられずこれまた断念いたしました。そこには役行者像もあるらしいので、次回皆さんで行く時に行けそうならば再チャレンジしてみましょうね。下から見上げるだけでも価値はありそうです。ちなみに訪れた方のブログがありましたのでよろしければコチラをご参照下さい。

帰りにキャンプ場である南垂水広場を視察しがてら、犬鳴山不動尊をのぞいてきました。戦後、島が一般に開放されて以降の昭和30年代に作られた小ぶりのほこらでした↓↓↓。


前置きのほうが長かったですねw。
というわけで、次号以降はお待ちかね(?)の陸軍砲台跡についてのレポートです。

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