怪道をゆく(仮)

酸いも甘いも夢ン中。

怪道vol.148 壇ノ浦とはこれぞかし(上)

2010年07月20日 00時18分50秒 | 怪道
ごめんなすって。ここひと月ばかり患っております別水軒ですコンニチワ。ピーコロのせいでトイレ暮らしの別水エッティな日が続いたかと思うと、手先のふるえが止まらず(←アル中ちゃうよ!)字が書けないという・・・どうも変だなぁと思っていたら頸椎のMRI検査で甲状腺のハレが判明し大学病院送りとなってしもいましたw やぁ最近の巨大病院というのは快適ですな。受付でポケベルみたいなものを渡してくれまして、院内にさえいたら診察なり検査なりの順番がまわってくるとブブブと呼んでくれるんですわ。おかげさんで優雅な待ち時間をドトール・キャッフェで過ごせましたです。数日後の検査結果を待てばオノレの行方もわかりましょうョ。

そんなこんなで安静第一の生活なもんですからお仕事に出る以外はヒマなわけです。あまりにヒマなので鉄道唱歌を延々聞いておりますという辺からも大層なヒマ具合がおわかりいただけましょう。鉄道唱歌てのはご存じのとおり、明治の頃にでけたちょう長い歌。ムカシ新幹線の車中案内にかかってた、テンテテンテ テンテテンテ テンテテンテテンゆうやつですね(←わかる人にしかわかりませんね)。今は野望がどうとかいう曲に変わってさびしい限りですが、先日仕事で紀伊田辺に行った時には特急くろしおでかかってましたイヤホというのは置いといて。関西濃いなぁとか東海・中国飛ばされがちとか居ながらに旅した気分にひたりつつ、ようやっと半年も前の旅の記録を記す気になったわけであります。というわけで、冬の下関紀行と参りましょうー。

そもそも真冬の下関へ行く理由と言ったらフグしかないわけですが、加えても一つ、これまで対馬の伊勢の八頭町のと様々な落人伝説の地に行ってるとジジサマがその都度へへぇほほぅと本気にするもンだから、一度ホンモノ(?)の墓を見ていただきましょうというわけですね。下関で見る場所なんて耳にタコができてイカがイカ(「ヘミングウェイ・ペーパーの謎」より)なとこばっかりですから、お越しになった方も多かろうということでサクッといきますよ。"いい日旅立ち"が流れる山陽新幹線で一路新下関へ、そこから毎度おなじみレンタカー、向かうは赤間神宮にございまする。

赤間神宮こと元・阿弥陀寺はあんとく様をおまつりする地であると同時にラフカヂオ・ハーンさんの「耳なし芳一」の舞台とは解説するのもやぼったいほど著名でありますね。この芳一さんのお話はアテクシの記念すべき人生最初に記憶された怪談だったりしまして、大変感慨深くお参りさせていただきました次第でありますが、赤間神宮本殿脇の小道をすりぬけた先に、件の芳一さんの木像があるのです。この木像がまた、耳があるんだかないんだか微妙なのであります。おもしろいので30分ばかり行き交う観光客の感想に聞き耳をたてて統計をとりましたところ、8割の方が「ない」とおっしゃる一方で残り2割は「ある」と判断されておりましたね。別水軒のファイナル・アンサーはズバリ、あるんじゃねぇのと思うたんですが・・・皆様はいかがでやんしょ。

さてそのかたわらの木陰にしんと佇むのが、いわゆる「七盛塚」であります。壇ノ浦で亡くなった平家の皆さんをとむらうこの塚ができたのは天明年間(1781-1789)、海峡で遭難が相次ぎ、戦のような悲鳴を聞く人・鬼火を見る人が続出したため、海辺に散在していた墓碑を集めて祀ったところ鎮まったといういわれがあるとはご存じのとおり。ハーンさんの芳一話では阿弥陀寺が建った謂れにこの話をひいておられますね。まぁ海峡を目にすれば誰もが一目瞭然、せまいとこなんかは「川」レヴェルに流れがはげしい関門海峡ですから、遭難頻発はなにも天明の頃が初めてではなかろうと思うのですが・・・。壇ノ浦海戦から500年もたっているとはいえ、琵琶法師や阿弥陀寺の存在を考えると、ここで新たに「怪異」に「名づけ」がされたということはまぁないと思われます。とすると、こうして「塚」という形になったのがなぜ「天明」という時期だったのか、あるいは天明当時のこの地域で、あらためて「塚」を作らねばならないような何が起こったのか、それを考えるととてもおもしろいですよね。

  
(左)芳一さんの「耳」はあるような気がします。(中)赤間神宮内の「七盛塚」。(右)赤間神宮前の観光案内版より。よかった、波の底の都は楽しゅうございますか。


赤間神宮公式グッズ販売所にてヘイケガニの標本を拝見し(海響館のコが死んでから現在生きてるやつは見れないんだそうで)、次いで「みもすそ川公園」へと向かいます。こちらの公園はちょうど関門橋のほぼ真下、この辺の沖であんとく様やトキコおばぁちゃんが旅立たれたということで、どっかの国営放送でタッキーが九郎判官をしてた頃に整備されたようです。またねぇ、判官さんの八艘飛びの像は大変よろしいかと思いますけれども、お隣にどうも・・・碇は武器ではありませんよとついたしなめてしまいたくなるようなやる気満々の知盛さんが立っておられるわけです。あれは「見るべきほどのことば見つ」って顔じゃありませんね。別にいいですけど。・・・とりあえずこの公園には他にも馬関戦争時の大砲が5基、再現されてありまして、100円入れたらドッカーンて音と水蒸気がポポポとでるおっきいおもちゃがありますよ(←300円消費した別水軒でした)。

  
(左・中)知盛落人伝説に希望をもたせる造形ですね。(右)砲台。よい子はのぼってはいけません。

宿に向かう途中に「平家の一杯水」なるポイントへ。ここは、負傷して岸に流れ着いた平家方の武将が、乾ききった喉を潤した湧水があったというところ。一口めは真水だったのに、喜んで二口めを飲むと塩水に変わってしまったそうであります。こちらの水、どういう事情からかわかりませんが、赤間神宮の元旦の若水に使われるんですって。なんでもこの井戸の水が塩水になるのは満潮の時で、干潮の時は山からの伏流水で真水になるとのこと(安富静夫『水都の調べ 関門海峡源平哀歌』より)。平家のヒト、すげぇタイミングで飲んだなぁと思うと同時に、平家方の残念感が伝わってくる言い伝えでありますね。・・・あんまりめでたくもなければ慰めになるような話でもないので、塩水と真水が入れ替わる湧水という不思議さから神事等に使われていた事実が先にありそうですかねぇ・・・わかりませんが。

てなわけで、これまで多くの伝説の地を歩いて参りましたが、それはあくまで人々の情熱や希望の積み重なりの上にある、いわばフィクションの空間であります。そういう土地を旅してきた者にとって、事実とともに生きてきた地、ある意味グラウンド・ゼロ=爆心地ともいえる地には、ある種の迫力を感じますデスネ。何を言ってもあたかも事実であるかのごとくになってしまうおもしろさと怖さがあるような。そんなことを思いながら沖を見やると、潮の流れをぬうようにぽつりぽつりと漁船が浮いています。この辺りの漁師は、水底に帝がおわすからと正座で釣り糸を垂れるといいますが、今もそうしているのでしょうか。

戦に斃れた源家・平家の兵たちを悼みつつ、一杯水の岸からワンカップ大関(の中身)を流してやったら・・・絵に描いたようなタイミングで大雨が降ってくるって、どういうこと――ッッo(TДT)ノ!酒やのうて水がええんかい、そうかいそうかいへへーんだ、と戦没者の皆様に毒を吐きながら、その場を後にした別水軒だったのでした。


平家の一杯水より関門橋をのぞむ。