さて大いに期待して読み始めた本書であったが、著者の地橋氏とは肌が合わないのか、読み進めるのには骨が折れた。(参照「サティ考――『ブッダの瞑想法』(春秋社)を読む(1)」)
《理論編》
まず、著者はヴィパッサナー瞑想の効果を三種に大別して述べる。
・ 頭が良くなる等の「能力開発」
・ 人間関係の改善や健康回復等の「経験事象の変化」
・ 心の否定的要素等が無くなる「心の変化」
上記の好ましい変化をもたらすために、ラヴェリングを伴う「ヴィパッサナー瞑想」が如何に有用かを語りながら、サマーディ(三昧)につながる「サマタ瞑想(対象に集中する瞑想)」の至らなさを指摘する。また、ヴィパッサナー瞑想では、日ごろの行いを整えること、つまり、「戒」を守ることの重要性も説かれている。(←ここは素晴らしい!)
サマ-ディに導く「サマタ瞑想」の至らない点を、著者は概ね次のように述べている。
・ 対象に集中するために他を排除し、現象をあるがままに見ることが無い。(←本当か?)
・ 対象に集中するために、心の闇の部分を強力に抑圧することもある。(←本当か?)
・ サマーディなどは一時的なものである。(←ヴィパッサナー瞑想も同じではないか?)
概して、以上の三点を繰り返し説かれているようである。なお、(← )は、私の勝手な突っ込みである。細かく語ると面倒なので、それは「永遠に」止めておく。
しかし、著者は、ところどころで、「ヴィパッサナー瞑想」と「サマーディ」はともに大切であると説く。各論は分析的で、平易な言葉で分かりやすく書かれているようでありながら、このように本質的なスタンスがぶれるので扱いにくい。「ヴィパッサナー瞑想」とサマーディに導く「サマタ瞑想」がともに大切なら、初めから、その大きな視野の中で語って欲しかった。「サマタ瞑想」の至らなさを強調しながら、無視できない場面になると、「サマタ瞑想」も大切である、と持ち上げる。全編にわたって同じことが繰り返されるので、かなりイラついた。読みにくさの一因である。
《実践編》
著者は、まず、「身体への気づき」と「ラヴェリング」を薦める。それには、三種の方法がある。
・ 歩く瞑想…「身体的実感」に対するサティと「ラヴェリング」を行う割合は、50対50
・ 立つ瞑想…「身体的実感」に対するサティと「ラヴェリング」を行う割合は、90対10
・ 座る瞑想…「身体的実感」に対するサティと「ラヴェリング」を行う割合は、90対10
以上見るように、「ラヴェリング」の割合は、動きが減るとともに減っていく。ということは、ラヴェリングにこだわる必要は、端っからなくても問題なさそうである。実は著者も、後になって次のようなことを言っている。
「だから、ラヴェリングを多用するよりも、しっかりと、今、自分が経験しているセンセーション(身体的実感)の変化を実感し、観察していく瞑想に専念すべきではないか、ということなのです。」(同書p171)
また、ラヴェリングについては、次のようにも言っている。
「たとえ内語であってもラヴェリングの言葉が意識されている瞬間には、センセーションを感じることができません」(同書p169)、ということは「サティ」が途切れるということであろうか? これでは、本末転倒な気がする。
さて、「実践編」で、さらに私が気になった点を上げておく。
歩行瞑想中に、気になることが、なかなか心から消えない場合の対処法があげられている。
「こんな時は、それ以上関わらないで、強引に意識を逸らせてしまうのが一つの方法です。最高五、六回ラヴェリングして消えなければ、足をドンと踏んで、中心対象の歩行感覚に意識を向けてしまうのです。これは、すり替えの技法というか、強制終了をかけてしまうやり方です。」(同書p143)
サマ-ディに導く「サマタ瞑想」の至らない点を、「対象に集中するために他を排除し、現象をあるがままに見ることが無い」、「対象に集中するために、心の闇の部分を強力に抑圧することもある」と語っていた著者の言葉とは思えなかった。このように軸がぶれるのである。「ヴィパッサナー瞑想」を宣揚し「サマタ瞑想」を一段低く置く著者の不自然なスタンスゆえの困難さであろうか。
さて同書から離れて語るならば、のちに「止(サマタ)」と「観(ヴィパッサナー)」は、
止――禅定――心解脱(心が貪欲を離れること)
観――智慧――慧解脱(智慧が無明を離れること)
と整理されるのであるが、中村元博士(「原始仏教の思想 Ⅱ」p135)によれば、最古の仏典と呼ばれる(異説もある)『スッタ・ニパータ』では、「ヴィパッサナー」という用語は一度も出てこないとのことである。(なお、中村博士は「文献の中に出てこなくても、当時この語が用いられていたという可能性は考えられる」とも語っておられる。)
以上簡単なスケッチになってしまったが、ここでいったん筆を置きたいと思う。
その後「心を観る瞑想」、「慈悲の瞑想」と本書の内容は続いていくが、もういいだろうと、今は思っている。残念ながら、本書には、昔読んだラリー・ローゼンバーグ著『呼吸による癒し』のような、著者の広く深い探求に基づく内面的な深みは見られなかったし、感じられなかった。読んでいて、外面的事項が羅列される煩わしさが先に立ってしまったのである(これは、ラヴェリングの持つ特徴でもあろうか)。今は時間が取れれば、むしろ『呼吸による癒し』を読み直したいと思っている。
<追記>
なお、私に誤解がある場合は、本記事内容の訂正、または削除も厭いませんので、その際には、御指摘御教授ください。どうぞよろしくお願い致します。
<関連記事>
スマナサーラ長老著「仏陀の実践心理学」を読む
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<記事本文で触れた書籍>
《理論編》
まず、著者はヴィパッサナー瞑想の効果を三種に大別して述べる。
・ 頭が良くなる等の「能力開発」
・ 人間関係の改善や健康回復等の「経験事象の変化」
・ 心の否定的要素等が無くなる「心の変化」
上記の好ましい変化をもたらすために、ラヴェリングを伴う「ヴィパッサナー瞑想」が如何に有用かを語りながら、サマーディ(三昧)につながる「サマタ瞑想(対象に集中する瞑想)」の至らなさを指摘する。また、ヴィパッサナー瞑想では、日ごろの行いを整えること、つまり、「戒」を守ることの重要性も説かれている。(←ここは素晴らしい!)
サマ-ディに導く「サマタ瞑想」の至らない点を、著者は概ね次のように述べている。
・ 対象に集中するために他を排除し、現象をあるがままに見ることが無い。(←本当か?)
・ 対象に集中するために、心の闇の部分を強力に抑圧することもある。(←本当か?)
・ サマーディなどは一時的なものである。(←ヴィパッサナー瞑想も同じではないか?)
概して、以上の三点を繰り返し説かれているようである。なお、(← )は、私の勝手な突っ込みである。細かく語ると面倒なので、それは「永遠に」止めておく。
しかし、著者は、ところどころで、「ヴィパッサナー瞑想」と「サマーディ」はともに大切であると説く。各論は分析的で、平易な言葉で分かりやすく書かれているようでありながら、このように本質的なスタンスがぶれるので扱いにくい。「ヴィパッサナー瞑想」とサマーディに導く「サマタ瞑想」がともに大切なら、初めから、その大きな視野の中で語って欲しかった。「サマタ瞑想」の至らなさを強調しながら、無視できない場面になると、「サマタ瞑想」も大切である、と持ち上げる。全編にわたって同じことが繰り返されるので、かなりイラついた。読みにくさの一因である。
《実践編》
著者は、まず、「身体への気づき」と「ラヴェリング」を薦める。それには、三種の方法がある。
・ 歩く瞑想…「身体的実感」に対するサティと「ラヴェリング」を行う割合は、50対50
・ 立つ瞑想…「身体的実感」に対するサティと「ラヴェリング」を行う割合は、90対10
・ 座る瞑想…「身体的実感」に対するサティと「ラヴェリング」を行う割合は、90対10
以上見るように、「ラヴェリング」の割合は、動きが減るとともに減っていく。ということは、ラヴェリングにこだわる必要は、端っからなくても問題なさそうである。実は著者も、後になって次のようなことを言っている。
「だから、ラヴェリングを多用するよりも、しっかりと、今、自分が経験しているセンセーション(身体的実感)の変化を実感し、観察していく瞑想に専念すべきではないか、ということなのです。」(同書p171)
また、ラヴェリングについては、次のようにも言っている。
「たとえ内語であってもラヴェリングの言葉が意識されている瞬間には、センセーションを感じることができません」(同書p169)、ということは「サティ」が途切れるということであろうか? これでは、本末転倒な気がする。
さて、「実践編」で、さらに私が気になった点を上げておく。
歩行瞑想中に、気になることが、なかなか心から消えない場合の対処法があげられている。
「こんな時は、それ以上関わらないで、強引に意識を逸らせてしまうのが一つの方法です。最高五、六回ラヴェリングして消えなければ、足をドンと踏んで、中心対象の歩行感覚に意識を向けてしまうのです。これは、すり替えの技法というか、強制終了をかけてしまうやり方です。」(同書p143)
サマ-ディに導く「サマタ瞑想」の至らない点を、「対象に集中するために他を排除し、現象をあるがままに見ることが無い」、「対象に集中するために、心の闇の部分を強力に抑圧することもある」と語っていた著者の言葉とは思えなかった。このように軸がぶれるのである。「ヴィパッサナー瞑想」を宣揚し「サマタ瞑想」を一段低く置く著者の不自然なスタンスゆえの困難さであろうか。
さて同書から離れて語るならば、のちに「止(サマタ)」と「観(ヴィパッサナー)」は、
止――禅定――心解脱(心が貪欲を離れること)
観――智慧――慧解脱(智慧が無明を離れること)
と整理されるのであるが、中村元博士(「原始仏教の思想 Ⅱ」p135)によれば、最古の仏典と呼ばれる(異説もある)『スッタ・ニパータ』では、「ヴィパッサナー」という用語は一度も出てこないとのことである。(なお、中村博士は「文献の中に出てこなくても、当時この語が用いられていたという可能性は考えられる」とも語っておられる。)
以上簡単なスケッチになってしまったが、ここでいったん筆を置きたいと思う。
その後「心を観る瞑想」、「慈悲の瞑想」と本書の内容は続いていくが、もういいだろうと、今は思っている。残念ながら、本書には、昔読んだラリー・ローゼンバーグ著『呼吸による癒し』のような、著者の広く深い探求に基づく内面的な深みは見られなかったし、感じられなかった。読んでいて、外面的事項が羅列される煩わしさが先に立ってしまったのである(これは、ラヴェリングの持つ特徴でもあろうか)。今は時間が取れれば、むしろ『呼吸による癒し』を読み直したいと思っている。
<追記>
なお、私に誤解がある場合は、本記事内容の訂正、または削除も厭いませんので、その際には、御指摘御教授ください。どうぞよろしくお願い致します。
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スマナサーラ長老著「仏陀の実践心理学」を読む
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<記事本文で触れた書籍>
ブッダの瞑想法―ヴィパッサナー瞑想の理論と実践春秋社このアイテムの詳細を見る |
ブッダのことば―スッタニパータ岩波書店このアイテムの詳細を見る |
原始仏教の思想〈2〉原始仏教6春秋社このアイテムの詳細を見る |
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瞑想やジャパム、念仏等の行を頭を良くするため、健康のためなどを目的に行うのは、既に本質を見失っていると思う。
瞑想等の行法は、神を得るためのものだ。
だから実際に神を得た人、神の化身と称えられる聖者の説く行法に随うのが最も確かな方法であると思う。
それ以外の方法では時間と労力の浪費になるだけであろう。
「低次元なものから高次元のものへ」、あるいは、「外面的なものから内面的なものへ」という構成になっているのでしょうが、残念ながら、どこまで読んでいっても深まりは見られませんでした。
出家と在家はおのずと方法が違ってきます。
およそ、真剣にとりくんだことに無駄はないと思います。
頭のよくなる銅を手にいれたなら、その先にある解脱という金も見えてこないともかぎりません。
空海は初段階1から、一挙に10へも不可能ではないとのニュアンスを含ませています。
誰が本物で、偽者か理解不能な今の世において入門書としての価値はあると思います。
お金出して買う気にはなりませんでしたけど。
楽天ですこしづつですがヴィヴェーカーナンダの言葉などを紹介しています。
反応はまぁまぁというところです。
では、また!
ただ、誰に対して、何がキッカケになって、道が開けていくか分からないっていうのも、事実だろうなって思うので、それが合う人もいるのかも知れないし、全部じゃなくても、一文が妙にハマってしまう人もいるのかも知れないですねぇ。
かつて、私が、とある宗教を非難した時、
「人を導くのは、その人の中にいる神様なのだから、その人のレベルに合った段階の宗教にいるのだと思えばいいのだ」
と言われたことがありましたっけ。
「他の人のことを、アレコレと言う必要はないんだよ。その人のことは、その人の内なる神様がめんどうを看るのだから」と。
だとしたら、誰が何を信じて、何を良いと思っても、それはその時、その人に必要なものってことになるんだろうね。
今では、少しばかり大人になったので(?)、人が良いと思っている気持ちまでを、否定することはなくなってきました(時々あるけど^^;)。
ただ、自分には合わない、自分は好きになれないって気持ちも、同じように認めてよいとは思ってます。
それは、自分の中の神さまが、「あなたは、こっちには合わないよ。だから、こっちに来なさい」と言ってくれているってことに思えてねぇ。
ヴィヴェーカーナンダは、「本当に宗教を求めていけば、一人一宗教になる」というようなことを言ってるものね。
私は、その考えが大好きだな。
タクルも、盲目的に信じることをよしとはしていなかったし、疑問に思うことは探求し、何度でも納得するまで試しなさいというようなことを言っていたよね?
だから本当に神さまに会おうと思ったら、自分自身で探りつつ歩いていくしかないような気がしたりする。
書物は明かりになってくれることはあるだろうし、ガイドブックみたいな役割も果たしてくれるだろうし、忘れていたことを思い出させてくれたりもするけれど。
でも、やっぱり自分で試行錯誤しながら、自分が納得できる方法や、歩き方(結局、生き方ってことだよね)を、実践して行くしかないのかな・・・って思うのでした。
ん? この記事へのコメントになってる?
なんか、内容はあんまりしっかり読んでないかも。
っていうか、読む端から、分からなくなってしまうんだもん^^;
レスが大変遅れて申し訳ありませんでした。
HPの更新作業に手間取ってしまい、毎晩格闘していました(笑)
『ブッダの瞑想法』お読みになられましたか。
私は本書に対する期待が大きすぎたせいか、落胆も大きかったようです。
やはり私には「ラヴェリング」なるものは合わないようです。「ヴィッパッサナー」自体は嫌いではないのですが……。
しかし、とても丁寧に書かれている本ですので、肌が合う方にはこの上ない導きともなるかもしれませんね。私は、色々引っかかってしまいましたが……。
素晴らしい書き込みをありがとう!
もはやこのうえ何を付け加えよう、というぐらいの完成度です。
いや本当に感服いたしました。
何の返信にもなってないじゃないよぅ。
おだてりゃ良いと思ってからに・・・。
ぶーぶー!
「手抜きしてる・・・ (吟遊詩人)
便ちゃん、私へのコメント、手抜きっぽい(-.-)
何の返信にもなってないじゃないよぅ。
おだてりゃ良いと思ってからに・・・。」
いい会話ですね、顔見知りならではの良いパターンだと思い羨ましいです。
HPだけの付き合いだと、一旦躓くと即破局を迎える、が多いです。
オフ会で、なんとかセラピーだとかヨーガ教室主催者に会ってみると、とんでもないパチ者だったというのも結構多いですね。
グルを捜すことが人生だとおっしゃる尊敬するリンク仲間がいるのですが、それほどご近所さんにいないんです現実は。
(天性の特殊な方は別でしょうけど)
で、しかたなく書物に求める、あるいはサイトに求める。
どうしても入り口が必要だと思います。
ところで楽天でヴィヴェーカーナンダの言葉を広めようというだいそれた試み、僕には無理です。
すこし突っ込まれるとタジタジ。
そのウツワじゃなさそうです、かえって誤解を生みそうです。
邦訳のあるものに限っても、この宝の山をほとんどの方が今も知らないのは残念でなりません。
日本で真のグルたる人に出会えるのは、やはり稀有のことでしょう。また、グルに出会えても、それで全てが解決するわけではなく、結構困難な道を歩む場合もあるのではないでしょうか?
今いる場所からとぼとぼでも歩き続ける、それが一番大切なような気がします。
今はネットなどで気軽に入り口を見つけられる時代ですね。また、その入り口に対して、人がどのような感想を持っているかも分かる。道を求めている人々にとって、それはとても貴重な気がします。正史さんの「ヴィヴェーカーナンダの言葉」の御紹介などは、それにあたるのではないでしょうか?
ぜひ続けていかれてはいかがでしょうか。
それに、正史さんご自身のためにもなるかもしれませんし……。私のホームページなども、「まず自分のため」と考えて続けています。
ヴィヴェーカーナンダの智慧と、強さと、人類に対する愛情に満ちた言葉は、決して色あせることはないと思います。ぜひ、紹介し続けてくださいませ。ヴィヴェーカーナンダもそれを望んでいるような気がします。
現実の人間の中に観察されるのは、様々な心の動きと、身体的感覚の乱舞と・・・、それらが静まることと・・・。
あ、すいません。このスレッド終わってますね・・・。