19世紀のインドでのお話です。
カルカッタ北方にカーリー女神を祀ったダクシネッショル寺院がありました。
寺院に付属する庭園の掃除人にラシクと言うパリアがいました。
当時のインドはカースト制度の締め付けが厳しく、そのうえパリアといえば、4カーストにも入らないほど低い階級でした。もしバラモンがパリアの顔を見たときには、「断食をしたうえに、祈りの言葉を唱えなければ再び清められることはない」、と言われており、パリアも、町に入るときには頭にカラスの羽をつけて「お気をつけください。パリアが通っています」と叫ばなければなりませんでした。
彼らの職業といっては街路や家々の清掃であり、彼らの出入りは裏口からのみ許されていて、彼らが出て行くとガンガーの聖水を振り撒いて清められるのです。パリアはそれほど穢れた人々と考えられていたのです。(ヴィヴェーカーナンダ『わが師』より)
当時、ダクシネッショル寺院にはシュリー・ラーマクリシュナがお住まいでした。ラシクは遠くから師を眺めては、自分の生まれを呪いました。
「私は、師のお傍に暮らしているのに、師のお部屋に伺い御足に触れることさえ出来ない。師は、善人、悪人にかかわらず多くの魂を救っていらっしゃるというのに。私は一体どのような罪を犯したというのだろう」と。
このように、悶々としたまま数年間が過ぎました。ある日、ラーマクリシュナは用を足すために松林に向かいました。そして、木の陰に隠れていたラシクはついに決心したのです。
「どうなってもかまわない。私はもうこれ以上耐えられない」と。そう思ったラシクは、松林からお戻りになる師の御足にしがみつき叫びました、「師よ、私は一体どうなるのでしょうか!」と。突然の出来事に師はちょっと驚きになりましたが、すぐにサマーディにお入りになりました。その間、ラシクは自らの涙で師のみ足を濡らし、彼の心に鬱積していた苦悩は和らいでいったのです。師は、通常の意識を回復なさると、ラシクの頭に優しくお触れになり仰いました、「あなたは全てを達成します」と。
その後、ラシクはシュリー・ラーマクリシュナを「お父さん」と呼び、まるで二人は友人同士のように話しをしていたといいます。
あるとき、ラーマクリシュナが瞑想していると、彼の心はラシクの家に駆けつけました。
そのときの様子をシュリー・ラーマクリシュナは次のように語っています。
「私が瞑想していると、心は瞑想の対象を逸れてラシクの家に向かいました。彼は掃除人です。私は心に言いました『瞑想の対象に留まりなさい。なんと悪い子でしょう!』と。しかし、聖母(カーリー女神)は、ラシクの家に暮らす男性も女性も単なる見せ掛けに過ぎないことを私にお示しになりました。彼らの中には、同じ神聖な力、肉体の霊的な六つの中心を貫いて上昇するクンダリニー(人間の中で休眠している霊的な力)が存在していました。」
真夜中になると、師はひそかに、寝静まったラシクの家に向かいました。
「おお、わが母よ。わたしをパリアの召使としてください。私に、自分がパリアよりも低い者であることを感じさせてください」と祈りながら、バラモンであった師は、自らの髪でラシクの家の下水を掃除なさったのです。
さて、師ラーマクリシュナがお亡くなりになり2年もすると、ラシクも重い病にかかりました。ラシクは薬を飲むことを拒否して、聖水だけを望みました。
ヴィシュヌ神の信者だったラシクは、ラーマクリシュナの指示で、自宅の中庭にトゥルスィーを植えていました。トゥルスィーはヴィシュヌ神に捧げられる神聖な低木です。ラシクはそこで修行をしていたのです。
(トゥルスイーの木 wikipediaより)
ラシクの最後の日がやってきました。それは燃えるような暑い日でした。
お昼ごろに、ラシクは自分をトゥルスィーの木立まで運び、そこで神の御名を唱えてくれるように息子達に頼みました。ラシクは数珠を手に、マットに横たわりました。そうして三十分ほどたった頃でしょうか。彼の顔は輝き、目には情熱が宿り、口元は微笑み、そして叫びました。「おお父よ、あなたがいらっしゃいました。あなたは私をお忘れではありませんでした! なんという美しさと輝かしさでしょう!」と。それから彼は目を閉じ、永遠の眠りにつきました。平安に満ちた彼の輝かしい顔には、後光が差していたといいます。
ラシクは、お参りに来た信者の足の塵によって清められた寺院の境内を掃除しながら、神と信者に仕えていました。ラシクは、働きがそのまま礼拝であり、誰もが各自の役割の中では偉大であることを、自らの生涯を通して明らかにしたのです。
このようにして、掃除人ラシクは、師であり父であったシュリー・ラーマクリシュナの来迎を得て、この世を去ったのです。
*****************************************************
(「ラーマクリシュナの福音 抜粋版」 日本ヴェーダーンタ協会より)
なお、サントーシーさんのブログ「カレーなる日々」には、「ダクシネッショル(ドッキネッショル)寺院」の「カーリー神殿」の画像がアップされています。ぜひお訪ねください。
――――――――――――――――
当ブログのメインサイト「Hinduism & Vedanta」にも、ぜひお立ち寄りください。
「スワーミー・ヴィヴェーカーナンダの生涯と講演集」以外に、「バガヴァッド・ギーター」、「イーシャ・ウパニシャッド」のシャンカラ註や、「シャンカラの伝記の絵本」、また「インドの漫画」や、インド神話の宝庫である「バーガヴァタ・プラーナ」の翻訳などをアップしています。
カルカッタ北方にカーリー女神を祀ったダクシネッショル寺院がありました。
寺院に付属する庭園の掃除人にラシクと言うパリアがいました。
当時のインドはカースト制度の締め付けが厳しく、そのうえパリアといえば、4カーストにも入らないほど低い階級でした。もしバラモンがパリアの顔を見たときには、「断食をしたうえに、祈りの言葉を唱えなければ再び清められることはない」、と言われており、パリアも、町に入るときには頭にカラスの羽をつけて「お気をつけください。パリアが通っています」と叫ばなければなりませんでした。
彼らの職業といっては街路や家々の清掃であり、彼らの出入りは裏口からのみ許されていて、彼らが出て行くとガンガーの聖水を振り撒いて清められるのです。パリアはそれほど穢れた人々と考えられていたのです。(ヴィヴェーカーナンダ『わが師』より)
当時、ダクシネッショル寺院にはシュリー・ラーマクリシュナがお住まいでした。ラシクは遠くから師を眺めては、自分の生まれを呪いました。
「私は、師のお傍に暮らしているのに、師のお部屋に伺い御足に触れることさえ出来ない。師は、善人、悪人にかかわらず多くの魂を救っていらっしゃるというのに。私は一体どのような罪を犯したというのだろう」と。
このように、悶々としたまま数年間が過ぎました。ある日、ラーマクリシュナは用を足すために松林に向かいました。そして、木の陰に隠れていたラシクはついに決心したのです。
「どうなってもかまわない。私はもうこれ以上耐えられない」と。そう思ったラシクは、松林からお戻りになる師の御足にしがみつき叫びました、「師よ、私は一体どうなるのでしょうか!」と。突然の出来事に師はちょっと驚きになりましたが、すぐにサマーディにお入りになりました。その間、ラシクは自らの涙で師のみ足を濡らし、彼の心に鬱積していた苦悩は和らいでいったのです。師は、通常の意識を回復なさると、ラシクの頭に優しくお触れになり仰いました、「あなたは全てを達成します」と。
その後、ラシクはシュリー・ラーマクリシュナを「お父さん」と呼び、まるで二人は友人同士のように話しをしていたといいます。
あるとき、ラーマクリシュナが瞑想していると、彼の心はラシクの家に駆けつけました。
そのときの様子をシュリー・ラーマクリシュナは次のように語っています。
「私が瞑想していると、心は瞑想の対象を逸れてラシクの家に向かいました。彼は掃除人です。私は心に言いました『瞑想の対象に留まりなさい。なんと悪い子でしょう!』と。しかし、聖母(カーリー女神)は、ラシクの家に暮らす男性も女性も単なる見せ掛けに過ぎないことを私にお示しになりました。彼らの中には、同じ神聖な力、肉体の霊的な六つの中心を貫いて上昇するクンダリニー(人間の中で休眠している霊的な力)が存在していました。」
真夜中になると、師はひそかに、寝静まったラシクの家に向かいました。
「おお、わが母よ。わたしをパリアの召使としてください。私に、自分がパリアよりも低い者であることを感じさせてください」と祈りながら、バラモンであった師は、自らの髪でラシクの家の下水を掃除なさったのです。
さて、師ラーマクリシュナがお亡くなりになり2年もすると、ラシクも重い病にかかりました。ラシクは薬を飲むことを拒否して、聖水だけを望みました。
ヴィシュヌ神の信者だったラシクは、ラーマクリシュナの指示で、自宅の中庭にトゥルスィーを植えていました。トゥルスィーはヴィシュヌ神に捧げられる神聖な低木です。ラシクはそこで修行をしていたのです。
(トゥルスイーの木 wikipediaより)
ラシクの最後の日がやってきました。それは燃えるような暑い日でした。
お昼ごろに、ラシクは自分をトゥルスィーの木立まで運び、そこで神の御名を唱えてくれるように息子達に頼みました。ラシクは数珠を手に、マットに横たわりました。そうして三十分ほどたった頃でしょうか。彼の顔は輝き、目には情熱が宿り、口元は微笑み、そして叫びました。「おお父よ、あなたがいらっしゃいました。あなたは私をお忘れではありませんでした! なんという美しさと輝かしさでしょう!」と。それから彼は目を閉じ、永遠の眠りにつきました。平安に満ちた彼の輝かしい顔には、後光が差していたといいます。
ラシクは、お参りに来た信者の足の塵によって清められた寺院の境内を掃除しながら、神と信者に仕えていました。ラシクは、働きがそのまま礼拝であり、誰もが各自の役割の中では偉大であることを、自らの生涯を通して明らかにしたのです。
このようにして、掃除人ラシクは、師であり父であったシュリー・ラーマクリシュナの来迎を得て、この世を去ったのです。
*****************************************************
(「ラーマクリシュナの福音 抜粋版」 日本ヴェーダーンタ協会より)
なお、サントーシーさんのブログ「カレーなる日々」には、「ダクシネッショル(ドッキネッショル)寺院」の「カーリー神殿」の画像がアップされています。ぜひお訪ねください。
――――――――――――――――
当ブログのメインサイト「Hinduism & Vedanta」にも、ぜひお立ち寄りください。
「スワーミー・ヴィヴェーカーナンダの生涯と講演集」以外に、「バガヴァッド・ギーター」、「イーシャ・ウパニシャッド」のシャンカラ註や、「シャンカラの伝記の絵本」、また「インドの漫画」や、インド神話の宝庫である「バーガヴァタ・プラーナ」の翻訳などをアップしています。
かつて、私にもインドをぶらぶらした時期があったことを思い出しました^_^
ラーマーヤナやギーターに目を通した事も、遠い昔のようです。
また何時か、天竺に着陸したいです。
インドに対するとても深い気持を感じます。
私はまだそこまで辿り着いていないなぁ、
と正直に思いました。
ドッキネッショル寺院の地図を見て、
聖人の部屋の位置を知りました。
もっと時間をかけて見学すれば、
いろんな発見があったかもしれません。
次の物語が楽しみです。
「もう一度インドへ」、の思いが募ります。
更新も滞りがちのブログではありますが、よろしかったらまたお立ち寄りくださいませ。
本日は書き込みを本当にありがとうございました。
サントーシーさんのブログは、気持ちが良いぐらいに、インドへのストレートな愛に満ちていますよ。
もしコルカタを再訪する機会があれば、ぜひドッキネッショルもまた訪ねてみてくださいませ。
>次の物語が楽しみです。
しばらくは「ラーマクリシュナの家住信者の物語」を続けてみようかと思っています。
ただ、なにぶんとろいもので、何をするにも人の三倍ぐらいの時間がかかります。^_^;
どうぞ気長にお待ちください。
とてもよいお話のTBを頂き、ありがとうございました。
それにしても不思議なのは、ラーマクリシュナがカーリー女神を一心に崇められることです。
『ヒンドゥー教』(中公新書、森本達郎 著)には、彼が修行中カーリー女神の姿が浮かんで、修行になかなか身が入らない事があった、と書かれてました。あの舌を出した恐ろしげな女神が美しいのでしょうか?この辺がどうしても分かりません。
次回が楽しみです。
最近のポスターでは美しく描かれるカーリーも、かつては醜い老婆として描かれていますね。
カーリーは混沌とした自然の象徴でもあり、二本の左手で死と破壊を、二本の右手で慈悲と無畏を表しています。ラーマクリシュナはカーリーの破壊の姿を充分承知していながらも、優しい母の心遣いを見ていたといわれています。また、ラーマクリシュナの場合は、「ラーマクリシュナがカーリーを選んだのではなく、カーリーがラーマクリシュナを選んだ」、ともいえそうです。
自分の拙い体験で恐縮ですが、自我がカーリー(漆黒の闇)の中に解け去るときは、とろけるような甘美さと、深い慰藉を感じました。
森本先生も怖がらずに、後一歩カーリーの懐に踏み込めば(あるいは委ねられれば)、カーリーの甘美さと慰めを知ったかも知れませんね。しかし、その前には、自我の破壊を通らなければならないのかもしれません。
それがカーリーの怖さであり、美しさなのかもしれません。
でも、松林は、覚えてないなぁ(笑)
船着場の辺りに、生えていたような気もするけれど、記憶が曖昧です。
私も、またインドに行きたいなぁ。
ラシクもタクルも、バクティの人だったんだろうね。
私は絶対にバクタにはなれないだろうな・・・って思っているので、信仰を持てる人は、それだけで羨ましいです。
タクルは初めから聖人として完成されていたようなイメージがあるけれど、こういう物語を読むと、生きながら学ぶことがまだあったのか・・・って驚きを禁じえません。
でも、それさえも、もしかしたら、世に本当の神聖なものを伝えたり、カーリーとの関わりを伝えたりするために、自ら動いたってことにも思えるなぁ。
あまりにたくさんのヴェールがあって、タクルは理解し難いです^^;
ヴィヴェちゃんも、こっそり道楽だっけ?(もっと別の言葉だったような気がするのですが)を持っていたりするから、どこまで真の姿を見せてくれていたのかは、謎ですね。
そこが、またおもしろいんだけど。
明日はヴィヴェちゃんの生誕祭ですね。
私の分も、ご挨拶してきてね。
私が見たカーリーは舌を出してキレていても、若い美人のポスターばかりで、醜い老婆として描かれていた時もあったとは知りませんでした。ブラフマーを除いてインドの神々は若い姿ばかりと思い込んでました(汗)。
>自我がカーリー(漆黒の闇)の中に解け去るときは、とろけるような甘美さと、深い慰藉を感じました
これはすごい。 いかに私がヒンドゥーの神に無知で無理解だったか、よく分かりました。
森本先生は著書でヒンドゥー男性がカーリーを、「おお、裸の美しき母よ」と言っていたのに、強烈なカルチャーショックを感じたと書いてました。先生の解釈では必ずしも美しい母親ばかりではなく、中には不美人の母がいるにしても、子供から見れば母は特別の存在である、それ故だろう、としてました。
便造さんの方がずっとインドを理解されてますね。
公休日が水曜なもんで、今日もあくせく働いて(う~む、これも礼拝)おりました。
>自分の拙い体験で恐縮ですが、自我がカー>リー(漆黒の闇)の中に解け去るときは、>とろけるような甘美さと、深い慰藉を感じ>ました。
便造さんならでは、のコメントですね。
本来カーリーが醜いばあさん、というのもナニかの象徴でしょう。
美人の女神を瞑想すると、やはりよからぬ「エネルギー」が爆発しそうになり危険でもあるような...
わが家が浄土宗ということもあり、観無量寿経などを読んでみたのですがイメージ瞑想ばかりなのには驚いた記憶があります。
一番最後にようやく、南無阿弥陀仏と称えよとでてくる。 (それでも十念を具足して)
中村元さんの「日本人の思惟方法」などでも指摘されているように、どうも我々はイメージすることが苦手な民族のように感じます。
松林のようなものは、このようなエピソードでも読んでから行かないと印象には残らないだろうね。
かく言う私は、昼過ぎに行ったので、ラーマクリシュナの部屋や松林どころか、門の中にさえ入れてもらえなかった(-_-;)
ま、そのときはベルールで「ラマクリシュナ没後100年祭」が行われていて、偶然にもそちらに導かれたので良しとしよう。たぶん、ラーマクリシュナはドッキネッショルにはいなかったはず!
ラーマクリシュナは神聖さの塊であるとともに、マーヤー(カーリー)を母と崇めていた人だからね。
「幼児のように単純だった」といわれるラーマクリシュナが、「ラーマクリシュナの福音」等を読むと、ほとばしる智慧しか感じられないからね。
mugiさんや正史さんの書き込みにも通じるけれども、神に近づくためにはどうしても超えなければならない不思議な壁があるよね。アムリタを強請する信者に、シヴァがチャンダーラの姿になって、アムリタを自分の小便として与えて試そうとしたり・・・・・・。
だから「神ご自身が自身を現そうとしない限り・・・・・・」ということが言われるのだろうね。