一杯の水

動物であれ、人間であれ、生命あるものなら誰もが求める「一杯の水」。
この「一杯の水」から物語(人生)は始まります。

スマナサーラ長老著「ブッダの実践心理学」を読む―ブラフマンを巡って―

2008年06月28日 11時28分34秒 | インド哲学&仏教
このところ、スマナサーラ長老著「ブッダの実践心理学」を楽しく読んでいる。(現在、2巻284ページまで読了!)
かつて、上座部系のブッダゴーサの手になる「清浄道論」(南伝大蔵経 第62-64巻)を拾い読みし気に入っていたこともあり、現在の「上座部の仏教はいかなるものであろうか」という興味があった。前掲書は、その好奇心を大いに満たしてくれている。それは、先年、地橋氏著「ブッダの瞑想法」に期待して得られなかったものである。
しかも、長老の流れるような弁舌は、一種の快感でもある。

しかし、である。
シリーズ2巻目に入り、長老のインド哲学に対する理解に、ちょっと気になる点が目立ち始めた。長老の信者の方がいらっしゃれば、重箱の隅をつつくようで申し訳ないが、この機会にまとめておこうと思う。(多少シャンカラ寄りの立場からのコメントになります。ご容赦を。)

<ヴェーダーンタについて>
(1) サット・チット・アーナンダ(前掲書2巻211、257ページ)
長老は「サット(真理)・チット(心、自分の魂、個我)・アーナンダ(至福)」と、それぞれに訳語を当てていらっしゃるが、特に気になるのは「チット」(長老においては「チッタ」)であろうか。本来、「サット・チット・アーナンダ」は唯一絶対のブラフマンの本質を示しているもの(前田専学「ヴェーダーンタの哲学」p.115)なので、「チット」が、「自分の魂」や、ましてや「個我」を表すことは無い。「知」(中村元「シャンカラの思想」、前田前掲書)等もっと適切な訳語があるにもかかわらず、個体性を意識させる訳語を選んだ意図が不明である。また、「チット」は、当然移ろい変わる「心」でもない。移ろい変わるものは絶対ではないからである。

(2) 梵我一如(前掲書2巻211-212、261ページ以降)
唯一絶対で、対象とはなり得ない主体そのものであるブラフマン(アートマンも同じ)を(概念上であれ)捉え損なっているせいで、「梵我一如」の説明も、納得し難いものとなってしまった。
長老は、他宗を判ずるときに「一境性=対象との一体感」(及び「至福=喜」)を判断基準となさっているようである。「一体感」という限り、「対象と、その対象との一体感を感じている主体」の2者が存在することになる。しかるに、ヴェーダーンタの哲人たちにとって、「梵我一如」とは、「実にアートマン(我)はブラフマン(梵)である」という「不二」の真理(「不二(advaita)」は、「同一」という意味以外に、「第二のものは無い」という意味を含む。―中村元「シャンカラの思想」p.226)を悟る(または、理解する)ことであり、「瞑想の中で一体感を得る」ことが「不二」ではないと思うのだが、いかがであろうか。
さらに、時に長老は、ブラフマンとブラフマー神(梵天)を混同した上で「梵我一如」を解説したりする。さすがにこれには閉口した。

しかし、最も不思議に思うことがある。
長老は第二巻冒頭付近から「絶対(者)などというものはあり得ない」と繰り返し力説なさる。あまつさえ、次のように語ってもおられる――
「真我(アートマン)」「永遠の魂」といった実体論は、ゴミ概念として、仏教ではスタート地点から排除しているのです。(前掲書p.19)

「創造主」、「唯一絶対神」なども、「アートマン」と同様に「実態・絶対的な存在」として、端っから否定される「ゴミ概念」らしい。
とするならば、本来あり得ないはずの「ブラフマン」や「アートマン」との一体感(梵我一如)など存在するはずは無い。どうして存在しないもとの一体感を、後になって持ち出す必要があったのだろうか。また、よしんばもう一度取り上げたとしても、「アートマンやブラフマンなどはあり得ません。だから、梵我一如もありえません」というのが自然なのではないだろうか。「一体感を得て満足する梵我一如は低いレベルの禅定です。仏教の禅定はもっと高みに上ります」などというような文脈で語る了見は、謎である。

<ラーマクリシュナ>
長老は「空無辺処定」についての解説で、「私の誤解かもしれませんが」との断りつきで、ラーマクリシュナについて次のように語っている。

「例えば、ラーマクリシュナの言葉を読んでみますと、色界第一禅定くらいは経験がある感じはしますが、それでもまだ、「神がいる」とか、「魂がある」とか「梵天がいる」などという状態なのです。」(前掲書p.282)

「色界」というのは、「五感+意」が働いているところの「欲界」を超えた瞑想の世界。しかし、物質(色)と心が、まだ結びついている世界とのこと。
長老は、ラーマクリシュナが6ヶ月もの間、相対を超えた「ニルヴィカルパ・サマーディ(無分別三昧)」に住していたことや、ラーマクリシュナが語る神が、輪廻の中にある「天(神々)」を指しているわけでもないことを、ご存知ないのかもしれない。
さらに、やはりここでも、長老は、ブラフマンとブラフマー神(梵天)を一緒くたにしているようである。

<結び>
こうしてみると、長老のインド哲学に対する誤解は、中性名詞の「ブラフマン」と、男性名詞の「ブラフマン(ブラフマー神、梵天)」の混同を含む、ブラフマンに対する認識のぶれ(あるいは、理解の不足)に起因しているようである。また、自派(テーラワーダ)の教義の解説は分析的、かつ、丁寧で分かりやすいのだが、他宗・他派に関しては、以上見てきたことを考え合わせれば、実は、かなり大雑把なのかもしれない。この点には、私も気をつけて読み進めなければいけないと思う。長老が他宗・他派に言及なさるときは、批判的文脈で語られることが多いので、なおさらである。安易な他宗・他派批判に陥らないように、自分も気をつけて読み進める必要がありそうだ。

さて、「ブッダの実践心理学」第4巻がいよいよ出版されるそうです。
今のペースで読み進められれば、7月半ばには3巻目も読了するでしょう。
この時期での第4巻の刊行は、ありがたいことです。

(amazonのアフェリエイトに失敗しました。興味のある方は、ご自身で御検索ください。)


   *************************************
<関連記事>
サティ考――地橋秀雄著「ブッダの瞑想法」を読む
ヴィパッサナー考――『ブッダの瞑想法』を読む

なお、「シャンカラ」に興味のおありの方は、中村、前田両博士の前掲書をご覧ください。
また、本ブログのメインサイト「Hinduism & Vedanta」には、「イーシャー・ウパニシャッド」と「バガヴァッド・ギーター」に対するシャンカラの註釈を、拙訳でアップしております。
ぜひご一読くださいませ。

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難しいことは分からないけど (吟遊詩人)
2008-06-30 00:29:00
タイトルが、まずイメージできなくて・・・。
「仏陀が説いた教え」と「心理学」っていうのは、私の中では相反するもののようでして。

仏陀の説いた思想を実践するための指南書的なものならば、なんとなく分かる気はするんだけれど、仏陀が説いたことって、いっぱいありそうに見えて、その実、シンプルな感じがするし。

テーラワーダそのものが、なんのこっちゃ・・・って感じなので、まぁ私はよく分かっていないために理解できないってレベルなんだと自覚していますが。

仏陀もイエスもラーマ・クリシュナも、非常にシンプルなイメージなんだけどねぇ・・・。
分析している人の本とか読むと、えらく難解に思えてしまうのが不思議です~(-_-;)
返信する
「実践心理学」というタイトル (便造)
2008-06-30 01:41:34
吟遊詩人さん、こんばんは。

確かにタイトルの真意はつかみにくいかもね。
実際、「スッタ・ニパータ」などを読むと、ブッダの教えはかなりシンプルだし。

どうも本書は「アビダルマ」文献に属する論書の解説書らしいので、「心」、「物質」、そして「禅定」などを事細かに分析している。
それだけに、シンプルさからはかけ離れてしまうよね。
ただ、その「心の分析(心理学)」が、そのまま、実践に役立つ(はず)、というのが、著者のタイトルに込めた思いかもしれない。

ラマナ・マハリシがどこかで(どこに書いてあったか忘れた)、「心の分析の必要性」について訊ねられたときに、「あなたはゴミを捨てるときに、ゴミの中身をいちいち調べますか」と言っていた。(この部分はうろ覚えなので、いつか訂正するかも。)
これもまた、傾聴すべき教えだね。

心を細かく分析しても、それにとらわれたり、拘っていたりしたら、本末転倒になるしね。
それに、必要の無い分析も、世の中には多いのかもしれないね。

それでは、おやすみなさい。
返信する
Unknown (たかはし)
2008-07-24 17:36:04
おひさしぶりです。

私は初期仏教に共感していますので、スマナサーラ長老の説法をネットで聞いています。

チッタは、長老は、心、あるいは認識機能と法話で言っていたように記憶しています。

長老は、永久不変なものとしての魂の存在を徹底的に批判します。それは、アートマンの否定なのでしょうね。

それから、全能なる神を信仰する一神教も否定します。ブラフマンの否定ということになるでしょうか。

梵我一如を、永久なるものと自分との一体感に歓喜すること、というとらえ方は、仏教にたしかにあるようです。

仏教では、喜びすら捨てる、という立場のようです。

だから、梵我一如に歓喜する、ということは、喜びに執着することなので、それでは、苦しみを終滅できない、と考えているようです。

苦しみは執着を原因として起きる、執着がなければ、苦しみはない、という基本姿勢があるので、アートマン、ブラフマンへの執着さえ捨てようとするようです。

釈迦は、アートマン、ブラフマンに関しては、質問されても沈黙を守ったそうです。その探求に執着することを捨てた、と私は理解しています。

しかるに、後世の仏弟子達は、沈黙ではなく、それを否定した。それは無いと断言した、そう思います。

だから、それは釈迦の意に沿っていないと思っています。

釈迦は、それが、あるとも、ないとも言わなかった。その探求をやめていた。釈迦にとってそれは悟りに至るために必要のないことだった。その有無は、釈迦にとって、関係のないことだった。

しかるに後世の仏弟子達は、その有無をはっきりさせないと気がすまなかった、そう私は思っています。

なお、他宗に対抗するためには、それを明確にする必要があったと解説していた人がいました。
返信する
Unknown (たかはし)
2008-07-24 17:39:00
ブラフマンとブラフマー神(梵天)を混同している、というのは、私も法話を聞いていてそう思います。

経典には、梵天は登場するけれども、ブラフマンに相当するものが出てこないので、そういう理解になったのではないかと思っています。

スマナサーラ長老の所属するテーラワーダ仏教においては、自我を、妄想である、としています。

今現在感じている自我、たしかにあると実感できる、この自我を、妄想だ、それは、本来は、ないものである、としています。チッタ、認識機能が創り上げた妄想である、ということのようです。

アートマン、ブラフマンの存在も否定していますから、妄想たる、自我が、本来存在しないアートマン、ブラフマンをやはり妄想して、妄想が妄想と一体となって、歓喜している、それを、梵我一如としてとらえているのだと思います。

だから、それは、低いレベルの禅定である、と言うのだと思います。

長老は、ベーダ聖典も批判します。だから、一応は目を通しているのだろうと思えます。

経典に、釈迦が、当時の最高のバラモン達に、あなたがたは、ベーダ聖典に書かれていることを、自分が実際に知ったのか、体験したのか、ということを質問して、それに対して、バラモンが、そうではない、それは伝承である、という回答する場面があるそうです。

釈迦には、自らが体験していないものには頼らない、という姿勢があるようです。

それを、極端にしたのが、後世の仏弟子達、その流れにスマナサーラ長老もいる、そう思います。

釈迦は、出家して、当時の常識だった、アートマンの探求も行ったと思います。でも、釈迦は、アートマンに辿り着けなかった、とそういうことだと思います。

なぜ、自分は、アートマンに至れないのか、悟れないのか、それは、アートマンに執着し過ぎるからである、だから、悟れないのであるとして、アートマンへの執着をも捨てた、そうしたら、苦しみを終滅できた、そこを悟りとした、そういうことではないかと私は思っています。
返信する
たかはしさんへ (便造)
2008-07-25 01:43:16
たかはしさんお久しぶりです。
記事を丁寧に読んだ上での貴重なコメント、いつもありがとうございます。

やはり長老は、たかはしさんが仰るように、仏教の原典主義なのでしょうね。
そういう意味では、「梵我一如」に対する正しい理解が、長老にはやはり欠けているように思います。長老の理解が単なる誤解であって、恣意的なものではないことを祈るばかりです。

実は私も、(いわゆる)原始仏教に共感と思慕を持つ者です。
それゆえに、長老の他派批判が気になるのでしょう。
かつてブッダは「行いによって聖者となるのである」と語ったと言います。長老の他派批判は、仏陀の説いた「無諍」や「平安」から遠く隔たっているように思えるのです。長老の批判が的を射ているものならまだしも、ちょっと安易な批判に過ぎるような気がします。

それに、ヴェーダを含め、批判しているからと言って、(今回の記事に書いたように)批判している対象を正しく理解しているとは限りません。やはり批判するのは簡単ですから。また、頭の回転が速いからといって、物事が正しく見えているわけでもないでしょう。パターン化が上手なだけかもしれませんから。長老の批判には、強いパターン化を感じました。

やはり我々も、長老の語ることを鵜呑みにせず、たかはしさんがなさっているように、後世になるにしたがってブッダが語ったこと(体験したこと)から何故離れてしまったのだろうかと、自問することが大切なのだろうと思います。自分が歩んでいる道に対する深い信頼があるならば、あえて他宗との違いを明確にする必要も無かったことでしょう。

さて、たかはしさんの丁寧な考察に対しての返信としては簡単に過ぎる感は否めませんが、今晩はこの辺にしておきたいと思います。
たかはしさんのコメントは、いつも自分の考えを省みる良い機縁となります。
機会がありましたなら、また、是非、お書き込みくださいませ。
それではおやすみなさい。
返信する
Unknown (たかはし)
2008-07-25 07:07:16
私は、細かい活字を読むのがとても疲れるので、本を読むことが出来ないでいます。

ですので、ネットで、誰かが本を読んだ感想なり、要点なりを書いていただけるのが、とてもありがたいと思っています。

それをコピーして、拡大してプリントしたものを読んでいます。

そして、それに対して、自分のコメントを書くことで、自分の頭が整理されていく、という実感があります。

今回の記事も、とても興味深いものでした。

今後も楽しみにしています。
返信する
そういう事情がおありでしたか! (便造)
2008-07-25 22:59:44
たかはしさん、こんばんは。
そういう事情がおありでしたなら、私もますますいい加減なことは書けませんね。

長老関連の記事は、後二回ぐらい書こうかなと考えています。
ただ、今現在ちょっと忙しいもので、次の記事はお盆休み頃になりそうです。

暑い毎日が続いておりますが、たかはしさんもお体には気をつけてお過ごし下さいませ。

それでは失礼致します。
返信する
のどぶえ (謎の超音波おとこ)
2009-08-01 09:07:31
お経とホーミーの謎と、インド仏教の謎、日本の神話の謎、モンゴルのフーミンの謎 神と紙と髪と上と守の謎

5年の歳月をかけて調べた内容が上記の事でした。
2009/4/ 現在 37歳 
私が高校の時にお経とホーミーは同じ位置にあると直感はしていました。
32歳の時にホーミーができることに気がつきました。
脳がしびれタバコが止めれたのには驚きです。

ホーミーの事を調べる事になり、超音波が出ていたので探偵ナイトスクープにでたりと、
自分なりに調査をしているうちに、上記でもの述べている

お経とホーミーの謎と、インド仏教の謎、日本の神話の謎、モンゴルのフーミンの謎 が解明されてきました。

簡単な話、モンゴル国では6000千年前にさかのぼると、宇宙の守護神とフーミン(ホーミー) と呼ばれていたようです。
さらに、モンゴル国では フーミン(喉笛)ができる者の仲にオルツェの血筋がフーミンが最強であるとされています。
さらに調べることに、インド仏教と思いきや 実はネパールが仏教の故郷であることをつきとめ、神戸にあるインド料理店をまわりながら、ネパール人を探すことにしたら、ネパール人に遭遇し、阪急の豊中の駅のインド料理店のネパール人この人はたまたま仏教徒だったので、二人に仏教のことについて聞いてみた、
実は、俺のホームページの内容のプロフィールの 高音と中間と低音のホーミーと紹介しているが、
いずれも超音波が世界中 右に出るものはいないくらいの超音波をだす。160KHZ以上

さらに、日本の牛頭天皇の出身を調べると、なんとモンゴル国らしく、
私の直感では 牛頭天皇はモンゴルのオルツェの血筋である可能性が高まってきた。

インド仏教の謎は、ネパール人たちに聞いてみたらすぐ謎が解けた!
アショカ王がインド統一の時にたいりれょう虐殺をしたため、罪の償いをするために
ネパールにあった仏教をアジアに広めたとされている。

牛頭天皇の謎は、藤原の鎌足の息子が島根県にある出雲大社を三重県の伊勢神宮に移した。
この話は、「日本古代正史」によって 詳しく書かれている。

実は、ホーミーでなくモンゴル国ではフーミンと言うのが正しい。
フーミンと、仏教と、牛頭天皇の共通点をしらべたら なんと「宇宙の守護神」が共通点にでてきた。
さらに調べてみると、神と紙と髪と上と守 の漢字には共通点があっる事に気がついた。

さて、神について説明をするが、
上記の内容は、勿論 ホームページに公開をしていくつもりだが、
八百万(やおろず)の神の真実~ 
この話は、人類が60億人いるならばすべてが神の一部であるといった考え方である。
心理学者 カール・グスタフ・ユング の集合無意識と同じ話であるし、
PMAプログラムの中にも無限の叡智の話がでてくる。
勿論、漢字では 精神とか神通力など使われる。 仏教用語では ブッチやブッソなど使われる。

さて、髪について説明するが、
ギネスブック保持者の中に髪の毛の世界一長い人がいる。
昔テレビで見たのょを思い出してみると、
その人が言うには、髪を切ると体調がわるくなるばかりではく、
神へのアクセスができなくなる とか言っていたような気がする。
髪の毛は実は、アンテナの役割をはたすようだ。
ちなみに、仏教では邪念が入らないようにするためにスキンヘッドにするらしい。

さて、紙について説明だが、
世界が誇る成功哲学のNO1のPMAプログラムの中にも、
モナハンは、ゴールデンゴールデックスをノートに書き込むといっています。
モナハンは、ドミノピザの社長だったかな?
ゴールデンゴールデックスは直訳すると光のファイル
ノートはペーパーで日本語では 紙です

さて、上について説明をするが、
ようするに、凡人でないと言う意味もあるみたい。

さて、守について説明するが、
かなり面白い発見になりました。

話は坊さんのボーについてだけどネパールの仏教徒は
喉笛(ホーミー)の事をなんと 「ボー」と言っています。

確かに、トバ人民共和国のカルグラの発声方法は、
「ボー」とも 「ゴー」 とも 聞こえる!
上記でも説明をしているが、仏教の故郷がネパールとして、
インド統一のアショカ王の話が本当だとすると、
本来、「ボー」 又は 「ゴー」ができる人を 坊さんと呼ばなければいけいのになぜか? 
中国と日本では 、「ボー」 又は 「ゴー」ができない人でも
坊さんと呼んでいるのはネパール人からするとおかしいらしいです!

ここで、やっと 「守」の本題に入りますが、
守護神しゅごしん のゴー は、実は
トバ人民共和国のカルグラの発声方法 を意味しているらしく、
「ボー」とも「ゴー」とも聞こえる。

この五年間で神戸と大阪にある 
ネパールの料理店や
インド料理店や、
タイの料理店や、
ベトナムの料理店や、
カンボジアの料理店や、
スリランカの料理店や、
インドネシア料理店など、
喉笛のことについて直撃インタビューを試みて、
ベトナム料理店に勤めていたベトナムの人が、
私の喉笛を聞いて 「ゴー」と言っていたのを思い出しました。

大きな謎が解けた瞬間になりました。

まとめですが、坊さんの坊や厨房の房 女房の房 防御の防などは、
守るなどの意味が含まれている気がしてなりません。
勿論、守護神 のゴー は 防ぐ などの意味合いがせります。

となると、3000年の時を越えて今の日本の仏教は、
カルグラが実際のできなくても、坊さんと呼ばれるようになったのだから、
きちんと伝わっていない事になります。

漢字の事でもかなり面白い事に気がつきました。
実は「気」と「木」には共通点があるのです。
人間には、電気が微量ですが流れていて、
「木」からも蓄えることができると、空手の本で読んだのを思い出しました。

漢字に興味をもち、日本の漢字のルーツを調べたら、
中国の間の時代 レッドクリッフの映画の時代 1800年前くらいに、
漢字が完成されたようです。

そして、その漢字のもとは何かと調べてみると
中国のにウルグイ語が存在していたらしく、
漢字はそのウルグイ語からきているらしく、
ウルグイ語の原型は なんとサンスクリット語らしいのです。

この事実が本当だとすると、上記で話した「神と紙と髪と上と守」の謎が、
サンスクリット語で解明されているのでは? と思い立ち、
今からでもネパールに行ってサンスクリット語の研究をしたいと思っています。
その為にも、資金調達をしなくてはならないし、
もし、サンスクリット語の 「神と紙と髪と上と守」
の意味合いが、上記で述べた通り共通点があるなら、
3000年の時を越えて、言葉は代わったものの
意味合いはぜんぜん変わっていないことになる。
この発見は、凄いのか? 凄くないのか?
また、探偵ナイトスクープに誰か応募してくれたらいいと思います。
http://www.asahi.co.jp/knight-scoop/cyousa.html
とりあえず、イギリスのギネスブックに私の超音波と脳波を登録をしに行かないといけないので、
どうしたらいいかと考えていたら、ゴールデンゴールデックスによれば、
合同会社佐野総合研究所を立ち上げ、スポンサーからお金を集め、
イギリスに行ってギネスブックに登録したり、
ネパールに行って サンスクリット語と
中国に行ってウルグイ語の研究をして、
漢字の研究もしてきたらいいと回答をもらったので、
これから、上記の内容の事は佐野総合研究所が研究する大きなテーマにしていきたいと思っております。
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